そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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子どもとの生活考現学 大変さについて

7月後半に、第二子の妊娠が分かった。
7月中旬に息子のH君が体調を崩し、
2週間の入院となった。

妻が付き添いで病院へ泊まってくれた。
僕は妻の朝・昼・夕食を準備し、毎日病院へ通った。
なかなか大変な毎日であった。

その入院期間に妊娠がわかった。

幸い、付き添い入院中の体調は良好であったが、
退院した三日後に、つわりの症状がではじめた。

そこから約3か月間、つわりの日々がはじまった。

第一子の時も、ひどいつわりを経験していたので、
今回もある程度心の準備はできていたが、
今回の方がつわりの症状はひどかった。

一日中気持ちわるさで辛そうで、
何度も嗚咽を繰り返し、
なかなか食べられるものもなく、
いや、食べられるものはあっても、とてもマニアックなものだったり
食べられると思って準備しても食べられなかったり
昨日食べられたものが、もう食べられなくなったり
こんなにツライに日々はきっと僕には無理だと思った。

これを乗り越えられる女性には、ほんとに敵わない。

そんな状態で、妻は子どもの世話ができるわけもなく、
僕は毎日のように川に行ったり、近所のお茶屋さんに遊びに行ったり、
となりのおばあちゃんと散歩をした。

食事や洗濯、子どもをつれて買い出し
色々やることがたくさんあって大変だった。

自然と息子のH君と過ごす時間も増えた。

そしてあらためて、
子どもと一緒にいることの大変さを感じずにはいられなかった。
あっという間に11月半ばになってしまった。

別にただ子どもが一緒にいるだけで、
おむつを替えたり、ご飯を用意したり、
そういう何かしてあげるということが大変ということも
もちろんあるのだけれど、そういう大変さというよりも、
ただ、一緒にいることが大変で疲れるのだ。
(だからこそ、それ以上に愛おしく、もっと一緒にいたいと思うのだけれど)

子どもが手がかかるとか、
言うことを聞かないとか、そういうことでもなくて、
ただ、ふたりで一緒にいることが大変なのだ。

そして、誰かが一緒にいてくれることで、
かなり気持ちが楽になる。
それは、おばあちゃんやおじいちゃんが遊びに来てくれたり、
実家にお泊りしたり、
近所のおばあちゃんと一緒に散歩をしたり、
自分以外の誰かが、子どもを一緒に見てくれていいるだけで、
本当に楽になる。

このふたりだけの時間から感じる大変さはどこからやってくるのだろう。

そんなことを考えていた。

子どもと過ごすとき、
何もしていないと思っていても、
僕は子どもの様子を見ていて、必ず意識を向けている、
どこにいるか。危険はないか。顔色は悪くないか。

そうやって、無意識に子どもに意識を向けてしまっている。
向けてしまっている というよりも、
向けずにはいられない。のだろう。

そういう意識を向けるだけでも、
人は心理的にも肉体的にも疲れるのだと思う。

僕だけかもしれないし、僕だけじゃないかもしれない。

また、子育てに限る話でもないのかもしれない。

でも、少しでも、
一緒に子どもをみてくれたり、可愛がってくれる場所や、
人間関係ができるきっかけがあるといいなと思う。

心理的、肉体的な問題が、
自分だけですべて解決できるわけでもない。
そして、問題の原因が自分自身にすべてあるわけでもない。

自分以外の人間関係や環境、そういったものによって
自然と問題が問題でなくなることも多いのだと思う。
だからといって、すぐに解決できるわけでもないのだけれど。