そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

子どもに関することの意思決定

子どもに関することの意思決定

子どもが生まれてから、子どもに関することの意思決定をどう考えるか?ということをよく考える。

2歳にもなれば、食べたい、食べたくない。そういう意思決定くらいはすこしずつ本人ができるようになってきた。

だけれど、例えば風邪をひいたとき、病気を患ったとき、どういう治療をするのか。
そういうことは、子どもには判断できず、親である僕たち夫婦が決めるしかない。

どのお医者さんに診てもらうのか、
予防接種はうけるのか、
何を食べさせるのか、

いろいろなことを決めなければいけない状況が生まれてくる。

その中で、予防接種をはじめ医療的な決定の難しさを感じてきた。

例えば、食べることであれば、
自分たちで食べたい、食べさせたい野菜を作ることもできるし、
信頼できる方から買うこともできる。
そういった意味では、
自分たちが納得した「頼り方」ができる。

ただ、医療に関して、難しさを感じる。

自分たちで、病気を治すことができればいいのかもしれない。

自然農の川口さんは傷寒論金匱要略を極められ、
そうやって3人の子どもを育て上げた。
医療的に自立された。
その過程は、簡単なことではないというのは十分承知している。

今の僕には、その道を歩む自信は正直ない。

すべてを自分で完結できることが自立ではないとも思う。

「依存先を増やせることが自立」という言葉も聞いたことがある。

だけれど、今の僕にとって、医療的な面において
本当に自分自身が納得して「頼れる人」「頼れる機関」がないというのも事実である。

だからいつも選択に迷いがある。
本当にこの治療でいいのだろうか。と。

この治療は避けたい。けれどほかの選択肢がない。

そんな状態が続いている。

** ** **

子どもが入院することになった。
病気の発症の直接的な原因はわからないとされている。

入院して症状を和らげるための処置と、
後遺症の予防処置をとってもらう。

県立のこども病院であるため、この国の医療体制の中で
子どもを治療していただいている。

医師も看護師さんも本当に丁寧に接してくださって、
本当にありがたい。

現在は、症状もおさまり、退院までもう少しの状態である。

ただ、今の僕が、本当に自分自身が納得して、
この医療体制に頼れているかといったら嘘になる。

もっと違う方法があるのではないか。
症状に対して、一律的な対応でなくてもいいのではないか。
そんな気持ちがいつもある。

ただ、少しずつそんな気持ちを否定せず、
今のこの現状を受け止めながら、
自分にできることを考えようという気持ちになってきた。

** ** **

子どもに関する意思決定をすることに関して、
良し悪しの判断は難しい。
だから意思決定に関してもっと気軽でいいというわけではなく、
その中で「何が子どもにとって大切なのか」と考える姿勢は見失わないでいたいと思う。

そして、子どもがその意思決定に関して、
自分で物事を判断できるようになったとき、
改めて、「親がした意思決定」を正しく知る権利があるのだと思うようになった。

例えば、僕だって幼き頃、いろいろな決定を両親に託している。
その意思決定の延長線上に今の僕がいる。

その意思決定は「僕」のことではあるけれど、
「親」に決められたことでもある。

その意思決定を引き受けて今生きている。

だからこそ、僕は親にしてもらった意思決定がどういうことだったのかを知りたいと思う。
それは自分自身をより知ることでもあるのだから。

そう思うようになって、
子どもに関する意思決定の、その良し悪しや正しさだけにこだわらず、
その決定をした上での情報を正しく残してあげようと思うようになった。

入院の過程で、どんな症状によって、どんな治療を受けたのか。
幼いころ、医療的にどんな処置を受けてきたのか。

そういうことを細かく情報として残していく。
それは確実に息子の「情報」であるし、
たとえ僕たち親が決定したとしても、
その決定を引き受けてこの先、生きていくのは息子である。

だれだって、自分ですべてを決めて生きているわけではない。
みんなが親の意思決定を引き受けて生きているともいえる。
その親の決定で、苦労する未来があることだってあるし、
うれしいことや喜びが待っていることもある。

そうやってみんな、自分ではない誰かの意思を引き受けていまを生きている。

子育ては、自分ではない誰かの意思決定を担うことでもある。
そこから逃れることはできない。
だから悩み迷うことが多いのかもしれない。

でも、その意思をどう引き受け、
未来をどう生きていくかは「子次第」であるともいえる。

親と子はようやって、切っても切れない何かで結ばれているのだと思う。