そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

2018.3.29 頼むことで相手の見えなかったことが見えてくる

昨日は主催した勉強会があり、その振り返りが頭の中にある。最近は、主催のような立場になることが多く、 イベントの当日は聞かれることや、指示することが多い。昨日は受付を仲間のひとりがやってくれて、ものすごく助かった。いつも自分が動いてしまってい…

2018.3.28 おんなじ質問はいつも新しい質問でもある。

初めて会う方がいると、 毎回同じ質問をされる。 でもそれは同じ質問なのだけれど、 同じことを相手が受け取っているとは限らない。 問う人の「問い」は同じだけれど、 その問いの元(なんでそれを聞きたいと思ったかの動機)も違うかもしれないし、 自分の…

2018.3.28(2018.3.27分) 問題は動き出すチャンスだ。

問題が起きなければ、 何も変わらない。 問題を起こしてならないと思い、 問題が起きないように、起きないようにと頑張る。 自分は苦しいのにもかかわらず、 自分が手を抜いてしまえば 問題が起きてしまうからと頑張ってしまう。 問題は、何も悪いことではな…

2018.3.26 対話の距離感

対話には人と人との適度な距離感が必要なのかもしれないと思った。 人と人の間には目に見えないけど、 距離があると思う。 友達との距離感 仕事仲間との距離感 上司との距離感 家族との距離感 それは何かの肩書きによって作られるわけではないのだけれど、 …

2018.3.25 “今”この土を考えること

今の土をみて、考える。 なぜこんな土感なのだろうか。 ここは昔、どんな土地だったのだろうか。 ここの地形はどんな形をしているのだろうか。 この土地はどんな歴史があるのだろうか。 そして、どんな作物が適しているのだろうか。 いつ、何を定植してみよ…

2018.3.25(2018.3.24分) 土

実家に帰省している。今日は使っていない畑(山)を持っている方に、 その土地を見せてもらった。 この3年間ほど、岐阜の美濃加茂で畑と田んぼをやってきたが、 静岡の地元で、畑や田んぼの「土」に触れることは全くなかった。 今日、初めて畑(山)を見せ…

2018.3.23 自分のことを分かってくれないと人は嘆く

自分のことを分かってくれないと人は嘆く。 でもそんな簡単にわかってもらえるほど、 あなたは単純ではない。 みんなと感じることも、考えていることも、 やりたいことも、大切にしたいことも違うはず。 だから、わかってもらえなくて当然なんだ。 目の前の…

2018.3.22 らくだのプリントに取り組む時間帯について

らくだのプリントに取り組む時間帯について。 昨日はプリントをやることができなかった。夜の23:30まで打ち合わせが長引き、その後に、話の内容をまとめたりしていると、日付が変わってしまっていた。その時点プリントができていなかった。そこまで遅くなっ…

2018.3.21 カーリングは合意形成ゲーム

今年は平昌オリンピックで初めてカーリングをみた。テレビをつけた途端に、選手の声がマイクによって拾われているのがすごく斬新で、面白かった。ファシリテーションでやった合意形成ゲームを思い出した。カーリングは合意形成ゲームの様に、目の前の状況を…

2018.3.20 何かを書こうとしても、なかなかうまく書けない。

何かを書こうとしても、なかなかうまく書けない。 その「うまく書けない」のうまくは、 何を基準に「うまく」と言っているのかわからない。 それなのに僕は、「うまく書けない」と思って、 書いては消して、書いては消している。 考現学というのはきっと、そ…

2018.3.19 僕たちでも生きられる社会をつくる。

自分とは何か深く深く問い続けたときに、 「社会」に馴染めない自分がきっといる。 だから病気になったり、 精神的に崩れるのだろう。 べてるの人たちをみていると、 精神が病むということが、 かわいそうとか、 なんとかしてあげたいとか、 精神が病むとい…

2018.3.19 ファシリテーションの語源は“容易にすること”

ファシリテーションの語源は“容易にすること”であるらしい。ファシリテーションとは、会議とセットのイメージが強いのだけれど、ファシリテーションは、会議じゃなくたって、人と人との関係性の中でいつも存在しているものなのだろう。事務の仕事をしている…

2018.3.18 ただやってみる

できないと思っているのは自分で、 そのできることと、できないこと境界は一体なんであるのか? と考えたときに、それは自分で何気なく設定しているものである。 だから、できなくしているのも自分であって、 できる・できないに関係なく、ただやってみる体…