そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

助産所を選んだことについて

出産をどこで、どのように行うか?ということは、

早めに決定しておくことらしいので、二人で少しずつ話し合った。

 

初産ということもあり、産婦人科クリニックでの出産でいいのかと思っていたので、

初診はクリニックへいった。

 

その後、知人の話を聞く中で助産所という選択肢もあるということを知り、

助産所についても調べてみた。

 

車で15分くらいのところに助産所があり、

ちょうど見学会をやっていたので足を運んでみた。

 

タイミングよく、助産師の先生がゆっくり面談してくださり、お話を聞くことができた。

 

僕の助産所のイメージは、自然出産で、医療の力を借りずに、

自力で産む。だからこそ少し危険を伴うのではないか?という不安があったのだけれど、

その認識がかなり誤りであったことを、助産師の方のお話を聞く中で感じた。

 

 

まず、唯ちゃんがどんな出産を望んでいるのか?そして僕らふたりとしてどんな出産を望んでいるのか?

ということをふたりで、そしてそれぞれが自分自身に問いかけた。

 

ここでは僕の言葉で、その僕自身とふたりの想いをまとめておこうと思う。

 

 

・出産までの過程と、出産後のことまで見据えて考える

やはり出産ということを考えると、「子どもを産む」その瞬間のことに意識がむく。

だけれど、その1次的なことだけでなく、

その前後の唯ちゃんの精神的・肉体的なケアを含めた上での出産という捉え方をしたいと思った。

 

大きく言えば、この子どもを授かったプロセスを楽しめたらいいな。という想いである。

(もちろん、唯ちゃんは苦しいことばかりであることは承知の上で…)

その中で、僕らにとって、どういった環境が大切だろうか?と話し合った。

 

・些細なことでも、質問できたり、話を聞いてもらえる関係性が先生(助産師)とあること

子どもを授かることは、本当にいきなりわかることだから、詳しい知識もふたりの間にはなく、

これから学んでいくしかない。だからこそ、ほんとにちょっとしたことで不安になる。

ネットで調べても不安な情報が多くあるし、正しく事実をみること、

そして、判断するには、ふたりだけでは難しく、必ず専門家の力が必要であると思った。

そして、その専門家(助産師)との関係性が何よりも重要なのだと思った。

この助産所は毎月3人の出産しか受け付けないということもあり、僕らの出産過程を一緒に歩んでくれる環境のように感じた。

そして先生とのフィーリングもいい感じだった。

 

・リラックスした場の方がいいな

出産する場がどういう場所であるかで、身体は変わってくるように思う。心が緊張すれば身体は固まっていくし、少しでも、信頼できる人がいて、場に体が馴染んでいれば、身体の力が少しは抜けるのではないだろうか。

そうすれば、子どもを産む前後の負担も少しは違ってくるような気もする。

特に、唯ちゃんにはそういう場のセレクトは重要な要素だとふたりで納得した。

 

・「自然分娩」にこだわらない

助産所がクリニックと連携していることで、通常分娩ができるという判断の上で助産所での出産が成り立つことを理解した。

先生とお話しする中で、現代医療への否定感や、自然分娩への絶対性を感じなかったことが、僕らの想いと重なる部分であった。

自然な形で分娩できたらいいけれど、「自然分娩」という形にこだわらない姿勢。言い換えれば、「自然分娩」を基本とした上で、正しく判断して、その状況にあった選択をする姿勢が助産所助産医の先生から感じることができたことで、助産所での出産のリスクなどに関する不安の多くを解消できた。

 

 

こんな感じでふたりで話し合った上で、助産所での出産を決定した。

順調にすすめば助産所で分娩、何か診察の過程で助産所での分娩が難しいようであればクリニックでの出産となる。

どんな形であれ、出産までの過程を1日1日大切にしながら、子どもが無事生まれてくることを祈るばかりだ。

 

 

僕らは、小さなことでも質問できたり、なんでも話し合える。

そういう信頼できるつながりの中で、仕事も生活もしているように思う。

自分たちらしく生きていくこと、生きやすく生きていくためには、

そういったつながりを選択していかなければ難しいのかもしれない。

 

それは僕たちの「弱さ」でもあるのかもしれない。

逆に言えば「強さ」なのかもしれないし、「僕ららしさ」とも言えるのかもしれない。

そんな風に、この話し合いの過程を振り返りながら思う。

 

どんな時も決めなければいけない時がある。

それが自分ひとりの場合もあれば、ふたりの場合、集団での場合もある。

 

どんな時も「正しさ」としての決定ではなく、

「僕たちらしさ」「自分たちに合った」決定をしていけたら。とこの過程を振り返ってみて感じる。