そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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見えている世界がすべてでない

技術が発達して、妊娠中もさまざまな検査や検診がある。

エコーで胎児の様子を見ることもできるし、

出生前検診では、胎児の染色体を調べ、

胎児の病気のリスクなども調べることができるという。

 

そのことによって、中絶をしたり、

さまざまな不安を抱えながら妊娠時期を過ごす妊婦さんも多くない。

 

もちろん僕らも、そういう可能性はありうる。

 

さまざなな技術が発達した。

今まで見えなかったものが見えるようになった。

 

お腹の中の胎児の様子だって、

染色体の情報も、昔だったら見えないものが見えるようになった。

 

だからこそ、僕たちは、その見えた情報をもとによりよい結果を求めていく。

その見えるようになった情報のおかげで、

いい結果をより生み出すことができるようになったと思っている。

 

だけれど、

 

見えるようになった世界、つまりエコーで見えている胎児の姿、

胎児の染色体の情報は、胎児の「すべて」ではない。

胎児の一部であり、その見えている情報は、

ほんの1部でしかないということの自覚を忘れてはいけない。

 

 

 

自分の世界が広がれば、自分の意図とは関係なく、 優しさや善意は相手に伝わっていく

妊娠初期の妊婦さんが、こんなにも大変な日々を過ごしているとは知らなかった。

妊婦マークを付けている、けどまだお腹も大きくない人と出会ったことがある。

そういった人たちが、こんなにも苦労しているとは知らなかった。

 

 

つわりがこんなにも大変なのだとは思わなかった。

 

そして、まだお腹が大きくないし、あかちゃんの胎動だって感じられない。

本当にお腹のあかちゃんは元気なのか?と不安にもなる。

 

妊娠初期の妊婦さんは、肉体的にも精神的にもとても苦労している。

 

僕は、お腹のまだ大きくない妊婦さん(妊娠初期の妊婦さん)の世界がまったく見えていなかった。

 

今の自分が見ている世界は、自分の世界の中にしかなく、

自分の意図した優しさや、善意は、

すべては自分の見えている世界の中でしかないのだと思う。

 

結局は、意図した優しさや善意というものはそんなものなのだと思う。

 

だから、優しくしようとか、良いことすることにこだわらなくてもいいのだとすら思う。

それは、自分の見えている中でしかないのだから。

 

それよりも、自分の世界を広げていく。

自分の今見ている世界は、自分の範囲の中にあるという自覚をもち、

自分が見えていない世界を、どうやったら自覚していけるか?という問いをもち、

生きていけばいいのだと思う。

 

自分の世界が広がれば、自分の意図とは関係なく、

優しさや善意は相手に伝わっていくのだと思う。

報告はいつしようか?

妊娠が発覚すると、嬉しい気持ちと同時に、心拍の確認が取れるまで、安定期に入るまで不安な気持ちも生まれてくる。

 

そういった気持ちがある中で、妊娠の報告をどのタイミングでするのか?ということについてもふたりで話しをした。

 

僕たちは安定期に入らなくとも、

親しい方々にはお伝えしていくことにした。

 

報告することにブレーキがかかるのは、出産がうまくいかなかったときの恐れによるものである。

だから安定するまでは報告しないという判断もできるのだろうけれど、

それを隠して、その先も生きていくことまた辛いことなのだと思った。

 

何かリスクや恐れを抱いてしまうことは多い。そして、それを公にすることで、

周りの人にも悲しみや苦しみを与えてしまうことだってあるし、

かわいそうな目で見られることだってないことはない。

だけれど、辛いことがあったとしても、それを一人、ふたりで抱え込むのではなく、

親しい関係性だからこそ、一緒に悲しんで、寄り添ってもらおうと。

 

妊婦さんやその家族は、不安は必ず生まれてくるものだと思う。

そんなこと考えちゃいけないと思っていても、考えてしまうのだからしょうがない。

だからこそ、こうやってその想いを分かち合いながら、そして自分自身と向き合いながら

自分の、そしてふたりの答えを出していくことが、

出産だけでなく、この先の道においても大切な自分の学びとなっていくのだと思う。

 

 

このふたりの話し合いを通して、

僕は苦労をひとりで抱え込まずに、苦労を分かち合うということが、

この先も僕と僕たちにとって大切なことなのだと学んだ。

 

そして、そういった分かり合える人が周りにいることへのありがたみを同時に感じられた。

 

無事に生まれてきておくれ。

助産所を選んだことについて

出産をどこで、どのように行うか?ということは、

早めに決定しておくことらしいので、二人で少しずつ話し合った。

 

初産ということもあり、産婦人科クリニックでの出産でいいのかと思っていたので、

初診はクリニックへいった。

 

その後、知人の話を聞く中で助産所という選択肢もあるということを知り、

助産所についても調べてみた。

 

車で15分くらいのところに助産所があり、

ちょうど見学会をやっていたので足を運んでみた。

 

タイミングよく、助産師の先生がゆっくり面談してくださり、お話を聞くことができた。

 

僕の助産所のイメージは、自然出産で、医療の力を借りずに、

自力で産む。だからこそ少し危険を伴うのではないか?という不安があったのだけれど、

その認識がかなり誤りであったことを、助産師の方のお話を聞く中で感じた。

 

 

まず、唯ちゃんがどんな出産を望んでいるのか?そして僕らふたりとしてどんな出産を望んでいるのか?

ということをふたりで、そしてそれぞれが自分自身に問いかけた。

 

ここでは僕の言葉で、その僕自身とふたりの想いをまとめておこうと思う。

 

 

・出産までの過程と、出産後のことまで見据えて考える

やはり出産ということを考えると、「子どもを産む」その瞬間のことに意識がむく。

だけれど、その1次的なことだけでなく、

その前後の唯ちゃんの精神的・肉体的なケアを含めた上での出産という捉え方をしたいと思った。

 

大きく言えば、この子どもを授かったプロセスを楽しめたらいいな。という想いである。

(もちろん、唯ちゃんは苦しいことばかりであることは承知の上で…)

その中で、僕らにとって、どういった環境が大切だろうか?と話し合った。

 

・些細なことでも、質問できたり、話を聞いてもらえる関係性が先生(助産師)とあること

子どもを授かることは、本当にいきなりわかることだから、詳しい知識もふたりの間にはなく、

これから学んでいくしかない。だからこそ、ほんとにちょっとしたことで不安になる。

ネットで調べても不安な情報が多くあるし、正しく事実をみること、

そして、判断するには、ふたりだけでは難しく、必ず専門家の力が必要であると思った。

そして、その専門家(助産師)との関係性が何よりも重要なのだと思った。

この助産所は毎月3人の出産しか受け付けないということもあり、僕らの出産過程を一緒に歩んでくれる環境のように感じた。

そして先生とのフィーリングもいい感じだった。

 

・リラックスした場の方がいいな

出産する場がどういう場所であるかで、身体は変わってくるように思う。心が緊張すれば身体は固まっていくし、少しでも、信頼できる人がいて、場に体が馴染んでいれば、身体の力が少しは抜けるのではないだろうか。

そうすれば、子どもを産む前後の負担も少しは違ってくるような気もする。

特に、唯ちゃんにはそういう場のセレクトは重要な要素だとふたりで納得した。

 

・「自然分娩」にこだわらない

助産所がクリニックと連携していることで、通常分娩ができるという判断の上で助産所での出産が成り立つことを理解した。

先生とお話しする中で、現代医療への否定感や、自然分娩への絶対性を感じなかったことが、僕らの想いと重なる部分であった。

自然な形で分娩できたらいいけれど、「自然分娩」という形にこだわらない姿勢。言い換えれば、「自然分娩」を基本とした上で、正しく判断して、その状況にあった選択をする姿勢が助産所助産医の先生から感じることができたことで、助産所での出産のリスクなどに関する不安の多くを解消できた。

 

 

こんな感じでふたりで話し合った上で、助産所での出産を決定した。

順調にすすめば助産所で分娩、何か診察の過程で助産所での分娩が難しいようであればクリニックでの出産となる。

どんな形であれ、出産までの過程を1日1日大切にしながら、子どもが無事生まれてくることを祈るばかりだ。

 

 

僕らは、小さなことでも質問できたり、なんでも話し合える。

そういう信頼できるつながりの中で、仕事も生活もしているように思う。

自分たちらしく生きていくこと、生きやすく生きていくためには、

そういったつながりを選択していかなければ難しいのかもしれない。

 

それは僕たちの「弱さ」でもあるのかもしれない。

逆に言えば「強さ」なのかもしれないし、「僕ららしさ」とも言えるのかもしれない。

そんな風に、この話し合いの過程を振り返りながら思う。

 

どんな時も決めなければいけない時がある。

それが自分ひとりの場合もあれば、ふたりの場合、集団での場合もある。

 

どんな時も「正しさ」としての決定ではなく、

「僕たちらしさ」「自分たちに合った」決定をしていけたら。とこの過程を振り返ってみて感じる。

関係性はもうすでに、はじまっている。

赤ちゃんって、どうやって育っていくのだろうか。

 

お母さんって、どれだけ大変なのだろうか。

 

家族の中に、どんな問題がうまれてくるだろうか。

どんな喜びがあるのだろうか。

 

さまざまな体験が待っていて、

そこからさまざまな問いや気づきが生まれてくる。

 

どんな経験も、学びに変わっていく。

 

その学びは、結局は自分ってどんな存在なのだろうか?

自分って、どうやって育ってきたのだろうか?

どれだけ、親に愛されてきたのだろうか?どんな喜びを分かち合ってきたのだろうか?ということに

つながっていて、自分をより知り、深めていくことにつながっている。

 

だから僕は、赤ちゃんの成長も楽しみであるとともに、

僕自身を知る大きな体験としての楽しみも感じているのだろう。

 

赤ちゃんを通して、自分自身がみえてくる。

そうやって、関係性の中で、自己を発見していく。

それは、僕も赤ちゃんも同じであって、

お互いの存在を通して、それぞれが自己を発見していくのだろう。

そしてその関係性はもうすでに、はじまっている。

 

赤ん坊よ、これからよろしく。

お母さんになって弱くなった

お母さんになって、弱くなったというかおるちゃんの言葉、

まずは自分だよ。自分をとにかく大切にすればいいんだよ。

という神田さんの言葉。

 

病気になって障害があってもよくて、

みんなが助ける場があるから大丈夫なんだという川村先生の言葉、

 

べてるの上映会の中で語られる言葉と、べてるの人の姿に、

僕も唯ちゃんも心が楽になっている。

 

べてるの家には、「弱さ」がある。

「弱さ」を土台に、豊かな場が生まれている。

 

赤ちゃんはまさに、「弱さ」そのものなのだと思う。

 

その「弱さ」の象徴が、僕のそばに存在した。