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2020/06/28 ベリーオーディナリーピープル予告編1 上映会の振り返り

ベリーオーディナリーピープル予告編1 上映会の振り返り

今回は、静岡に帰ってきて初めてべてるの家ドキュメンタリー映画の上映会を行った。
僕は進行役として参加した。


・その人のただありのままの姿が映されていること
この映画は、ストーリーとか、メッセージとか、そういう意図のない世界で作られている。
だからこそ、何度みても気づきや学びがある。

予告編1で出てきた人の姿が予告編2・4・5・・・・と進む中でさまざまな変化をしていく。
そうすると、予告編1をみて感じた自分の気づきが、また一段と深まっていくだろう。
予告編1で元気のなかった武田ちよみちゃん、カメラの前でたくさんおしゃべりした
山崎かおるちゃんも予告編2ではまた違った姿をみせていく。

この映画の面白いところは、
人の移り変わりを感じられるところだろう。

予告編1のかおるちゃんをみて感じたこと、千代美ちゃんをみて感じたことは、
人の1時点をみて感じたことだけにすぎない。

いつも移り変わって、変化していくのだから。

予告編1をみて感じたこと

そうやって、ひとりの人のありのままの姿を見ると、
人の本来の姿って、どういうことなのか?という問いも浮かんでくる。

はたして、今の自分は本当に正常なのか?普通なのか?と。

参加者のひとりの方の
「べてるに行くと、病気が現れてくる」という言葉が印象的だった。

僕たちが今こうして、普通とか正常だと思っていることは、
僕たちが普通・正常であると思っているだけであって、
それは僕たちの盲目さや、心の声に耳を傾けていないということの証である。とも言えるのかもしれない。

久しぶりにみて、
佐々木社長!坂本さん!神田さん!岡本さん!下野くん!
あったことないけれど、みんなみんなそれぞれの色で生きていて、
画面を通してでも、またこの人たちと会えて、本当に嬉しい気持ちになった。

 


・(進行役として)付箋1枚1枚の違いをオープンにしていく
映画をみながら気になったことを付箋に書いていってもらう。
その付箋を元に、振り返りのセッションを行っていくのだけれど、
参加者同士が同じシーンや言葉を同じ付箋に書き留めることも多い。

その中で、振り返りのセッションの時に、
「同じ付箋」としてシェアされることも多いのだけれど、
ひとりひとりの付箋に書かれている言葉やシーンは同じであっても、
その付箋に書いた人の背景にあるものが同じというわけではない。

だからこそ、進行役はその「同じ」とシェアされる付箋の中にある、
「違い」がシェア・オープンされるように、
その「場」を整える必要性がある。
整えるというのは、付箋を出した人に、
時間(話さなくても話さなくても良い)をつくることなど、
できることはたくさんある。

そういうふうに、進行役は「違い」がどのようにオープンされていくか?
自覚されていくか?という視点にたって、
その場に関わらる必要があると思う。

違いがオープンになることで、対話は深まっていく。
共感よりも、違和感を。違和感の先に対話があるし、
対話の先に、共感を超えた、人と人とが重なり合う喜び、
楽しさがあるように思う。


・「シェア」よりも「オープン」
今回、振り返りのセッションを行うときに、
ぼくは、「シェア」とか「共有する」とかいう言葉をよく使っていたけれど、
振り返りのセッションを有意義なものにしているのは、
「オープン」とか「公開」という姿勢なようにも思う。

「シェア」とかいう言葉には、何か「持っている」ことが前提で、
それを他者と分かち合うイメージがぼくには強かったのだけれど、
振り返りのセッションの場では、「持っていない」ということもまた重要なのだとおもう。

つまりは、意見の交換だけにとどまらず、
その人の今の状態にも視点をおくことって大事だなと思った。

公開を前提に「書く」

公開を前提に「書く」

 

自分の中にある、

自分だけの言葉を、

公開を前提に書くことで、

自分と他者との関係生の中にある

他者にも通じる言葉に置き換えることができる。

 

(通じる言葉は、他者と分かりあうための言葉という意味ではない)

 

公開を前提にしなければ、

自分の中にある言葉(想い)は

自分の世界から抜け出すことはできない。

 

たとえば人に話すとスッキリしたり、

悩みが消えることがある。

それは、他者に分かってもらったからではなくて、

自分の世界の中から抜け出せなかった言葉が、

「他者に通じる言葉」として、

自分の外に出せたことから生まれるのではないだろうか。

 

(実際に相手の言葉を理解せずとも、

ただ聴くことで、目の前の人は自然と癒されていく)

 

 

公開を前提に書けば、

自分の世界の中にある、

自分だけの言葉(想い)を、

他者に「通じる言葉」に

書きながら変換していくことができる。

 

(公開を前提に書くと、必ず自分以外の人の存在を意識して書く)

 

人にわかってもらうと

癒されるのではない。

人に「通じる言葉」に置き換えるだけできっと人は癒される。

 

他者に分かってもらうために書かなくてもいい、

ただ、自分だけの言葉の世界から、

他者にも通じる言葉の世界へ

自分の言葉(想い)を書き換えていけばいい。

2020/6/28 べてるの家の ドキュメンタリー映画『ベリー・オーディナリー・ピープル』予告編1 上映会の参加者の感想

 

2020年6月28日に、「べてるの家ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル予告編1」の上映会を、静岡で開催しました。

参加者6名+進行役で、映画の上映と振り返りのセッションを行いました。

◎予告編1の紹介

『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その1 (60分)
『ようこそ べてるの家!』
カメラが「べてるの家」を訪ねると、メンバーが一人ひとり、カメラに向かって自己紹介をしてくれた。精神障碍者であることを誇りに思っていると言う坂本さん。障碍者でも生活保護でも赤ちゃんは産めるんですと語る山崎さん。「希望者は申し出てください、みんなのパパになります」と下野くん。入院歴三十四回という記録を持つアル中の向井さん。一等航海士だった向井さんは、ずっと“後悔”ばかりしているそうだ。

 

◎参加者の感想

なんで精神障碍になるのだろう?自分の中で何が起きるのだろうか。

自分が起こしたことなのか。起きざるえないことなのか?

なる人とならない人の違いは何なのか?

印刷してもらった紙を見ようと思う。

すごく自分と向き合う機会にもなり、良かった。

でも何がどう良かったのかはよくわからなくなりました。

何かが変われた気がする。

 

数年ぶりにべてるDVDを見ました。以前見てから大分経っていて、内容をほとんど覚えていなかったけれど、なんとなく、おもしろかった記憶があってまた見たいと思っていたので、また見られて良かったです。べてるの家に流れる安心の空気が、やっぱり心地よく感じました。みなさんと話をする中でもたくさん出てきた“弱さ”というのはその心地よさにとってなくてはならないものだなあと思いました。弱さを出し合えるという人間関係は、今はあまり多くはないのが、世の中がなんとなく冷たくて、不安に感じる大きな要因なのかなと思いました。その人、1人ひとりの中にある弱いぶぶの中にこそ、その人のすばらしさがある、ということが、みんなの当たり前にあったらそんな場になるのかなぁと思いました。私は、そういう場にいたいなと思いました。

そのためにも、当事者研究をしたりして、自分のことを知ったり、弱さを出していける関係性を築いたりしていきたいなと思っています。

 

精神障がいであろうと、生活保護であろうと、依存症であろうと、医者であろうと、、、いろいろな人がごちゃまぜになって、そのままの自分で生活できている空間て理想だなと思います。

どこか遠い別の世界のことではなく、私の暮らす目の前の世界でも、べてるのほかほかが伝染して広がるといいのに~と思います。

そのためには、「ちゃんとしなきゃ病」をぼく滅させて、そのまんまで、でも自分の選択による結果は受け止めてを、日々繰り返していかねば。

 

最初の印象として、皆が生き生きしていると感じました。自分が持っていた持っていたイメージを大きく変えることができた。

話し合いの中で弱いところをなかなか人に話せることができないという話も出たけど、きっと映画を見るだけでもちがうなぁと思いました。

自分の生活のなかで、障がいにか変わらず、生きづらさは感じるけど、それは自分を良く見せたいとか、しっかりしていたいと思うからというのが大部分で、その自分の弱さ、人の弱さにこそ魅力があるのかも。

そういう部分もその人の一部って受け入れようと思ったし、自分自身もつねに誰にでも良い人でいようとは思わなくて良いと思った。

障がいが問題なのではなくて、それを受け入れる本人、周りの環境の力が、その人自身を生きる力になっていくんだなぁと思えた。見れてよかった!!◎

 

べてるの事を知ると同時に、自分の事を見つめなおしたり、社会のことを考えたりと幅広く考える時間となりました。みなさんの意見を聞けて感謝しています。ありがとうございました。

 

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『持続可能な生き方をデザインしよう』 読書会vol.1 ふりかえり

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https://www.amazon.co.jp/持続可能な生き方をデザインしよう――世界・宇宙・未来を通していまを生きる意味を考えるESD実践学-高野-雅夫/dp/475034561X

 

 

読書会お疲れさまでした。

今回はオンライン参加と対面参加という初の試みということで、

運営もなかなか難しかったと思いますが、

オンラインで参加された方とも意見交換ができましたし、

新たなつながりをいただけてとても有意義な時間でした。

ありがとうございました!

 

今回の読書会ではさまざまな世代の方々が参加されていて、

個人で感じていることや考え方も異なることは前提ですが、

自分にはない葛藤や、悩みもあることに気付かされます。

逆に、自分にしかない葛藤や悩みにも気付かされます。

 

 

本を読んでいると、今のこの社会は持続可能ではないことはよく理解できます。

だからこそ、僕たちの暮らしを変えていくことの重要性もよく理解できます。

 

ただ、僕が感じていることは、「変化」を生む要因が、

地球のため、持続可能なため、というものだけでは

動かないようにも感じていますし、何か他の問題が生まれてくるようにも感じています。

 

どんな時も、「変化」を生むのはその人自身の中にある喜びや心地よさなのだとも思っています。

というよりも、そうあってほしいなという気持ちが僕の中では強いのだと感じています。

 

何か持続可能な暮らしが「正しさ」をもつと、

それと同時に、閉塞感や生きづらさも生まれてくるような気もしています。

(今回のコロナ騒動でもそれをとても学んだように思います)

 

 

僕自身、自然農をやっているのは、やっぱり自分のためであって、

自然の中にあることの喜びや心地よさを自然農の田畑では感じることができます。

結果的に、暮らしのなかに持続可能性が生まれてきている部分もあるかもしれません。

 

 

また読書会終了後には、本の内容だけでなく、

どうやったら意見交換しやすいのか、

対話が深まっていくのか?とみんなで振り返りが

できたこともまたすごく僕自身の学びになったと思います。

 

本の内容にもあるように、外的世界をどう変えていくことによって

持続可能な社会が作られていくということももちろんですが、

「自らを省みる能力」に書かれていたように、

内的世界をひとりひとりがどう捉えていくか?という点も、

同じように重要だと感じます。

 

だからこそ、今回の読書会の終了後に

読書会での「学び方」の振り返りや意見交換自体も

僕にとってはとてもエコロジカルで、持続可能な学びとなりました。

 

また次回も参加予定です。よろしくお願いいたします!

ブックカバーチャレンジ 7日間で紹介した本

2020/6/1 DAY1

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蒲原でバックパッカーズホステルをやっていて、たくさんお世話になっている、こうせいさん さん からバトンもらったので、本の紹介と、最近近況もアップできていなかったので、近況も合わせて7日間アップしたいと思います。

 
1冊目:池田晶子 『14歳からの哲学』
大学時代に尾関さんが紹介していたのをきっかけに読んだ本です。哲学なんて全然触れたこともない自分が初めて読んだ哲学の本です。
ものすごく読みやすそうに思えて、読んでいくとよくわからなくなったり、自分が見ている世界に疑問が生まれてきたり、考えることって面白いし、不思議だし、なんか気持ちがすこし楽になったりした思い出があります。
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「自分とは誰か」
・・・
君はずいぶん混乱しちゃっただろう。でも、だとしたら、それでいいんだ。なぜって、その通りだからだ。「自分とは何か」を正しく考えていけば、必ずこういうわけのわからないことになるからだ。ああわかりました、つまり自分とは何かなんてわからないってことなんですね、なんていうようじゃ君はちっともわかってないってことなんだ。「わからない」と感じることを、どこまでも考えてゆくようにしてください。「わからない」ということは、答えではなくて問いなのです。君が毎日やっているその自分とは、本当は何なのか、知りたくないはずはないでしょう。
そんなべつに知りたくないよって言っているヘソ曲がりの君、もしも君とは、君が単純に思っているように君の体だとしたら、体が死んだら君は死ぬよね。でも、もし君とは君の体じゃないとしたら、体が死んでも君は死なないことになるのだけれども、それとも、そんなこと知りたくないかな。
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2020/6/2 DAY2

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2冊目:よしもと ばなな 『海のふた』

ぼくが書いている「そのまんま太郎のブログ」は、最初はよしもとばななさんの本の感想限定でアップするというルールでスタートしました。そうすればいつか、ばななさんの目にとまるんじゃないか!?という企みからはじまりました。結局、そのルールは自然と崩れていき、今のブログの形になっていますが、それだけ大学時代から、ばななさんの作品が好きで読んできました。

初めてよんだ『キッチン』も、『TSUGUMI』も、『サーカスナイト』も、『体は全部知っている』・・・とか、好きな作品がたくさんあります。その中でも、この「海のふた」はものすごく心に残っています。今回、こういう機会をいただいて、あらためて手に取るとやっぱり自然と引き込まれて読んでしまいますね。
最近はあまりばななさんの作品読んでないけど、今日読み返してまた読みたくなってきました。

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・・・
それでももっと大きな何かの前では、はじめちゃんが言うとおり、私は流されていくだけだ。このひとときさえ、いつかまた泣かせる思い出になっていく。
 だからこそ、大したことができるとは思ってはいけないのだ、と思えることこそ好きだった。私のできることは、私の小さな花壇をよく世話して花で満たしておくことができるという程度のことだ。私の思想で世界を変えることなんかじゃない。ただ生まれて死んでいくまでの間を気持ち良く、おてんとうさまに恥ずかしくなく、石の裏にも、木の陰にも宿っている精霊たちの言葉を聞くことができるような自分でいること。この世が作っている美しいものを、まっすぐな目でみつめたまま、目をそらすようなことに手を染めず、死ぬことができるように暮らすだけのこと。
 それは不可能ではない。だって、人間はそういうふうに作られてこの世にやってきたのだから。
 そして、そんな暗く真実に満ちた言葉を口にしながらも、はじめちゃんはいつも透明な目をして、見えるもの全部をすうっとみつめているようにも見えた。その姿勢は私の後ろ向きなぐずぐずした未練とは違って、今、まさに目の前にあることを見ようとしている強さを感じさせた。

・・・生きていることが本気で嬉しかったって本当の本気でいつも言ってくれた。だからわたしはゆがまなかった。私はどこに流れてもいいんだ。そこでいいふうにしていくから、そしてどんどん思い出を作り出す。 ・・・

2020/6/3 DAY3

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3冊目:川口由一『妙なる畑に立ちて』

大学時代に辻信一さんの書かれた『スローイズビューティフル』で、川口さんの存在を知りました。

将来のこと、仕事のこと、暮らしのこと、お金のこと、そういったことを考えざるおえない時に、その前に「生きること」「自らの答」について深く問うことからはじめよう、はじめていいんだと思わせてもらえたように思っています。

自然農の実践は、「農」という領域におさまらず、
教育や医療、芸術、自然環境など、さまざまな領域と深く繋がっていくと感じています。
今年で6年目となります。自然農の田畑でも、豊かな学びを続けたらと思っています。

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この美しい地球で、この妙なる宇宙生命の中で、人はどのように生きていくのがいいだろうか・・・。日々の食べ物を得るには、どのようなものであるのが最もいいのだろうか・・・。このことは私たち人間が好むと好まざるとにかかわらず、必ず問わねばならず、そして誰しも多かれ少なかれ、深かれ浅かれ問うており、答を出しての生活であり人生であります。
 そうしてよくみれば、一人一人が本当に正しい答えを得なければ、決して心安まらず魂救われず、心身健康にして一生を全う出来ないようになっております。
 私たちがこうして人間として生命をいただいた時にこの問題を一人一人に手渡されており、一人一人が得る答に応じて幸福をいただけるようにもなっております。

・・・ 孤独の中で、混沌また混沌の青年期には必死で人としてのあり方、生き方を問い続け救われることを求め続けて、ようやく青年期後半に至って農の道、芸術の道、医療の道、そして人の道への答を、少しずつ少しずつ見出しながら生きていけるようになってまいりました。

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2020/6/4 DAY4

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4冊目:平井雷太『「〜しなさい」と言わない教育』
大学卒業後に、ことばこ(現:学習塾「ことばこ」)のスタッフとして活動した1年目にコーディネーターとして関わった企画が、井上淳之典さんを講師として行った「教えない教育全10回講座」でした。(講座プログラムはコメント欄へ記載しました)
教育のフィールドで何十年と活動してきた井上さんの全10回講座は、今振り返ると、何かを獲得するという講座よりも、今の自分の現状を把握する、そしてそこから自分自身の問いが湧き出てくるくるような講座だったように思います。
全10回の講座を受けて、何かが「わかった」というわけではなく、「わからない」という自覚の方がより強くなりました。言い換えれば、より学びたい。という気持ちが芽生え、そこから自分自身の学びがはじまった機会だったと思っています。
そんな井上さんが主催している寺子屋塾で、主軸としていのが、この平井雷太さんが考案された「らくだメソッド」です。
コーディネーターを終えたら、とりあえずらくだメソッドやってみよう。という気持ちから、2016年10月から井上さんの主催している寺子屋塾へ通塾する流れになりました。
(らくだの学習で学びはブログで「らくだメソッド」や「考現学」というカテゴリーをつくってまとめています)
らくだメソッドも実際にやっていく中でしかわからないことがたくさんですし、この本に書かれている内容も、その体験を土台にだんだんと理解が深まっているようにも感じています。
引越し先の新たな場で、新たに場づくりもしていこうと思っています。
今後も、この本からヒントをもらいながら、進んでいけたらと思っています。
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プロローグ
・・・
この本は、この詞がどんな背景の中から生まれてきたのか、それを説明するために生まれてきたような気がしています。そう考えると、この本は「新・教育者宣言」という言葉によって書かされた本のような気がするのです。
『新教育者宣言』
人を教育によって変えられると思っている人は
教育者ではない
この子に私が必要だと思い込ませて
あなたのおかげで今があると思い込ませて
人の心をからめとっていく人も教育者ではない
人から感謝され尊敬される人は教育者ではないのだ
教育者とは、いついかなる場所に立ったとしても
そこに育ちたいと思っている人がいたとき
その人が何々ができる、できないと無関係に
その人が潜在的にしたいと思っていることを
スッと提案できる人なのだ
相手がその提案にのらなくても何の不満も残らない
相手が提案にのって
何かができたとしても決して恩を売らない
たまたま、その人が勝手にその提案に乗っただけ
私と無関係と心底思える人が教育者だ
そんな人がいる場所には主従関係も奴隷関係もできない
似たもの同志で群れることもない、セクトもできない
時間と空間を越えて、個と個の関係だけができていく
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2020/6/5 DAY5

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5冊目:四宮 鉄男 『ベリーオーディナリーピープル とても普通の人たち』
5冊目は、北海道浦河のべてるの家の本「ベリーオーディナリーピープル」です。
いつごろいろんな本で、「べてる」という言葉をよく目にするようになりました。そうしているうちに僕はだんだん「べてる」にはまっていきました。笑
名古屋にいた時には、べてるの家ドキュメンタリー映画「ベリーオーディナリーピープル」の上映会を中村教室にて、2ヶ月に1回のペースで行わせていただきました。
全8編の内7編の上映会であったので、長丁場ではありましたが、「べてる」を通して繋がれた皆さんもたくさんいて、とても貴重な会でした。
(上映会の参加者の感想はコメント欄へ)
この本は、そのドキュメンタリー映画を撮られた四宮鉄男監督が書かれた本であり、べてるに流れる空気が文章をとおしてよく伝わってくるように思います。
目次だけでも、べてるワールド全開なので、引用は、目次のみとします!
今月から、当事者研究会として細々と会を開いていく予定です。静岡でも、べてるや当事者研究に興味がある人は、ぜひメッセージお待ちしております。
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序章 べてるの家を撮りつづけて
第1章 ようこそ、べてるの家
第2章 ミスターべてると仲間たち
第3章 弱さを大切に!
第4章 リハビリテーションより商売
第5章 安心してサボれる会社づくり
第6章 治せない医者、治さない医者
第7章 幻聴、妄想、その豊かな世界
第8章 三度の飯よりミーティング
第9章 話すことから始まる回復への道
終章 不思議の家、べてる
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2020/6/6 DAY6

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6冊目:菊谷倫彦 『無名なものの詩と革命』 孫世代からみた吉本隆明
6冊目は、菊谷倫彦 『無名なものの詩と革命』です。
中村教室で吉本さんの存在を知ったのですが、
あの、ばななさんのお父さんと知ったときは、
びっくりしたけど、なるほどーと納得感もありました。
この本の中で著者である菊谷さんが書かれていることばに、
「自分で考え、自分で歩むこと。これが私が吉本さんから学んだ一番大きなことでもあるからです。」とあります。
この本は、菊谷さんなりに考え、
自分の言葉で書かれているということが
ものすごく伝わってきます。
(まだ読み解けないとこたくさんありますが)
吉本さんが残された、共同幻想論や心的現象論なども、まだ読んでもまったく読み溶けませんが、この数年で、そのフレームの大枠などを中村教室での対話や、らくだの実践などを通して深めていくことがでたようにも感じています。
そのことで、自己・他者・社会への見方や、そういったものとの折り合いのつけ方も、以前よりもすこしは上手になってきたように思っています。
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あとがき
・・・
私が吉本さんに魅力を感じるのは、その思想のすばらしさだけでなく、思想家であることよりも、暮らしや家族、生業を大切にした生き方にあります。吉本さん自身が、大衆の原像としての自分、無名なものの存在としての自分を何よりも大切にし、そこに価値を置いて生きたことを一番重く受け止めているのです。
・・・
とはいえ、私は吉本さんの思想のすべてを受け入れているわけではありません。むしろ、吉本さんの次の時代を意識しているのも事実です。その不完全なかたちは本書と、いまあてもなく書かれている次の原稿で取り組んでいる最中です。
この本で書きたかったことは、生きてあること自体が力である、ということです。そこには、有名も無名もありません。ある種の無名なものの力ということです。その力は、本来は革命的な力でさえあります。それが無名なものの革命です。
無名とは、〈自然〉のことです、無名なものの詩と革命とは、〈内なる自然〉という名の理想を感じとり、生きる個のリズムと力のことです。〈自然〉は〈自由〉と言い替えてもかまいません。
知識人や有名人が一元的価値をもつ時代は終わりました。これからは、多元的価値をもつ無名なものの時代だとおもいます。それは個による〈自然〉の時代であり、〈理想〉の時代です。本当の意味のアニミズム(人間もふくめたアニミズム)の実現の時代でもあると思います。もともと、大衆の原像も、無名なものの存在も、その本質は“〈内なる自然〉を生きている人”といえるかもしれません。そして“無名なもの”とは、私たちのなかにあるふるさとであり、ユートピアです。私たちがやってきた、懐かしい場所でもあります。
・・・
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2020/6/7 DAY7

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7冊目:古谷暢康 『最初に読む料理の本』 
7冊目は、昨年出会った『最初に読む料理の本』です。
この本は自分の感覚で自由に料理ができることを目的としており、書かれているレシピの内容は、最低限の内容になっています。
本の冒頭は、「料理が下手な人はいない」というコラムからはじまります。
このコラムをよむと、僕が日頃書いている考現学について、らくだメソッドの平井さんの「書けない人はいない」という話を思い出します。
文章が「書けない」とか「書くことが下手だ」と思っている人でも、考現学は書けてしまう。それは、何かうまく書こうとか考えずに、「今自分が感じていること、考えていること、今ここから書いてみる」
そうすると自然と書ける状態になるといいます。
「できない」とか「下手」とかいうのは、
自分自身から離れた自己への評価であることが多くて、
自分に沿って、自分自身の感じることに沿っていけばいいのだと思います。
美味しいなんて基準は、一人ひとり違うのだから、
大さじ1でも大さじ2でも、大さじ0.5でもよくて、
自分の「美味しい」と感じる、自分の体が喜ぶ量を、
自分でつかんでいけばいいのだと思います。
この本は、「料理」という入り口から、
料理をこえて、あらゆることにつながる気づきをあたえてくれる本だと思います。
発行しているまなびおむすびの「おむすび文庫」というコーナーでも紹介させていただきましたので、そのコラムも合わせてコメント欄にて紹介させていただきます。
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「料理がへたな人はいない。いい素材を手に入れさえすれば誰にでもできる。料理法は素材が導いてくれるので、常識にとらわれず自分の感覚を磨いていけばいい」
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できない体験が自然農のはじまり。できない体験とはどういうことか。

種下ろしから2週間が経過した。
1回目の草抑えを行いに、田んぼに行ったのだけれど、
オケラが苗代に入ってしまったようで、
発芽はほとんどしていなく、
このままでは苗が育たない状態となってしまった。

5月の半ばとなり、
今から種を蒔きなおして
果たしてまだ間に合うのか!?とういう感じである。

ここ4年間は毎年のように、苗が育ってきていたので、
今年も例年通り育っていくとおもっていたので、
すこし残念な気持ちもあった。

だけれど、オケラが苗代に入ったこと。
それによって種が発芽しなかったという体験を通して、
今までの自分が、どれだけ観察できていなかったか?
どれだけ狭い視野の中で判断し、
種を下ろしていたかという、
自分の見ている、感じている世界が狭かったことの自覚がうまれてくる。

それは同時に、自分の見ている、感じている世界が広がっていくことを意味する。

種下ろしをしたときの僕は、
田んぼの草の状態や、排水溝の位置、
日当たりくらいしか考慮せずに種を下ろした。

そして、表土を剥がしたときに、
オケラが何匹か遭遇したのだけれど、
そこまで気にせずに、そこで種を下ろした。

だけれど、今思えばもっとできたことがあったのだろうと思う。

オケラは乾燥を好むらしい。
僕は田んぼの中でも水周りから遠い、水はけの良いところを選択していたし、
種下ろしの際に土の湿り気などもあまり観察していなかった。

そして、オケラを数匹見かけたのだけれど、
とくに気にすることなく種をおろした。

また、今思うと田んぼが家からすこし距離があるため、
なかなか発芽状況を見に行くことは難しい。
今回も、もう1週間早く気付くことがちがったら、
また状況は違ってくる。

そう思うと、家から近い畑でも育苗しておけば、
今回のような状況になったとしても、苗は確保出来る。

そうやって、自分の力不足が田畑によって浮き彫りになってくる。

** ** ** **

オケラに入られて、発芽できなかったことへの残念な気持ちはあるけれど、「できない体験」によって、自分の状態が把握できて、
自分の見えていなかった部分、考慮できていなかった部分に気付くことができる。

そして、その見えていなかった自分に気付くことで、
自分をまた変化させることができる。

そうすることで、自分がだんだんと変化し、
応じられるようになってくるのだと思う。

だからこそ、自然農のはじまりも、
「できない体験」なのだと僕は思う。

もちろんお米も野菜も収穫こそ喜びであるのだけれど、
収穫を目標としても、
自然農の3原則「持ち込まず、耕さず、草も虫も敵とせず」の中では、いくら頑張ったとしても、根性があっても、努力しても、自分自身が適切に見極めて、判断して、応じることができなければ、収穫の目標は達成することはできない。
間違った判断の中で、努力したら、逆効果になることだってある。
(実際に草おさえを真夏に気合を入れてやっても、草がなくなり野菜が食べられてしまうことだってある)

だから、収穫を目標とせず、
今の田畑の状態に意識をむけ、田畑の様子を感じ、観察し、
その上で自分で判断し、自分で答えをだす。
その今の積み重ねが収穫へつながっていく。

だからこそ、今の自分出したその答えが、
どの視野で出されているかが重要である。

今年の僕とくらべれば、来年の僕とは、
きっと種下ろしにおいての感じ方や判断の領域はすこしだけ広がっているだろう。
もちろん、だから来年はうまくいく保証はないのだけれど
そうやって1日1日、1年1年のできない体験から、
自分がどんどん広がっていけば、
田畑の様子もまた変わってくるのだろう。

オケラが入ったことで、
4年間、なんとなく苗が育っていたことが、
どういったことだったのだろうか?ということも考えさせられる。

このできない体験によって、
ようやくスタート地点に立ったではないだろうかと思う。

そうやって、田畑を通して自分自身の今が見えてくる。
そして自分の変化も、田畑を通してみえてくる。

その楽しさや喜びが、僕が自然農で田畑をやり続けていきたいと思える理由なのかもしれない。

*** ** *** **

今回のオケラの体験は、「自然農ぼんやりと覚え書き」に書きました。

yuitaro-field.hatenablog.com

 

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「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、 「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないか

「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、

「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないか

 

 

子どもが学校から出された課題を取り組む姿をみて、

教材自体の重要性と、教材の扱い方について考えることが多い。

 

スクールに通う子どもは、

学校の進度についていけていない子どもも多いし、

自分の学年相当における内容以前のことが身についていない子もいる。

 

そんな子どもが、学校から出された課題や、教材に取り組んでいるのだけれど、

当たり前だけれど、できない問題のほうがおおい。(これは学校だけの課題に限らない話である)

そして、取り組むこと自体が嫌になってくる。

 

これは当たり前だとおもう。

 

その課題は、「自分の状況に応じて」出された課題ではないことが多い。

子どもにとってみれば、自分の状況を考慮した上で出されていることの実感はあまり湧いてこないだろう。

 

もしこれが、その子の学習状況を少しでも考慮してある課題であり、

課題と自分の現状に繋がりを感じられたとしたら、

子どもの学習に向かう姿勢は全く違ってくるだろう。

 

だから、学校の学習を学校以外のところでサポートすることの難しさがある。

「課題」の扱われ方が子どもの学習への向かい方に大きく作用してしまうが故に、

サポートする以前の問題も大きいようにも思う。

 

(その環境の中でもできることはもちろんあるのかもしれないけれど。)

 

 

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そうやって考えると、子どもの学習の姿勢は、

子どもが学習に取り掛かる前提で大きく変わってくると思う。

 

学校の宿題をやらない子どもを目の前にした時、

そのやらない原因を「子ども」だけに向けてはいけず、

課題を出した人の意図や、その課題の構成もその子の今の学習の姿勢に大きく影響している。

 

だから、宿題をやらない子どもも、もしも宿題の出され方が少し変わったりしたら、

一気に宿題をやることだってあり得ると思う。

 

だから、子どもの今の学習に向かう姿勢は、

子ども自身だけの問題ではないことだって多いのだ。

 

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課題の出され方や扱い方で、

子どもの学習の姿勢が変化してしまうと、

「子ども自身」の学習状況を掴みずらい。

 

あの人に出された課題はやる、

あの問題集の課題はやる、

あの課題はやらない、あれはやる、やらない、、、

そういった状況のなかで、

子どもの学習の状況や子どもの変化はどういやってつかめるだろうか。

そして、子ども自身も、自分の変化をどうやってつかめるだろうか。

 

そう思うと、「教材」と「教材の扱い方」の重要性を感じる。

 

 

「教材」と「教材の扱い方」の中にルールや基準(制限ともいえる)が存在すれば

子どもの学習に向かう姿勢が掴みやすくなる。

そして子ども自身も、自分の変化をより感じることができるように思う。

 

らくだメソッドの学習経験者の感想を読んでいると、

学習者である子ども自身の教材に対する信頼のようなものを感じる。

 

僕は自分のこれまでの学習体験を振り返ったなかで、

「この教材に出会えてよかった」と思えた体験はない。

もちろん大学受験とかで言えば、

試験のため、点数を取るための「出会えてよかった教材」というものは

存在するのかもしれないけれど、自分がこの教材を通して成長できたって思える教材って、

僕の体験からするとあまりないな。と感じてしまう。

 

でも、子どもの学習に関わるなかで、

「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、

「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないかと思う。

 

「この教材に出会えてよかった」って言葉には、

教材を作った人の思いと、教材を扱いながら、

子どもをサポートする人の思いの両方がのっているのだから。