そのまんまたろうのブログ

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4月後半振り返り

止めてしまったものを動かすことの大変さ

 

3月末から4月末まで、プリントをやらなかった。

プリントに取り組んでいたことを、止めてしまった。

 

ここ最近は、だんだんとプリントに取り組めるようになった。

 

だけど、せっかく出来そうになっていたプリントもまたふりだしに戻った。

 

そして、プリントに取り組むことにもすこし大変さを感じる。
以前やっていた時のことが不思議な感じがする。

 

止めてしまったものを、

もう一回動かすことって大変だなと感じている。

 

1日1問でもいい。

名前を書くだけでもいい。

 

どんなに小さいことでもいいから、

とにかく手を動かしておけば、

また違ったのではないか?という感じがする。

 

自分が今できる範囲を見極めて実践していくこと。

今の自分に応じて、止めずに、動ける範囲で動き続けることって

ものすごく大切なのだと感じている。

 

そして、再び動かすことの大変さを、

僕は止まってしまった時には考えていなかった。

というか、止まったあとの大変さは、止まった時にしかわからない。

 

これもプリントに限らず、

あらゆることに言えることなのなのかもしれないと感じている。

 

** **

 

コロナのことで、多くのことが「止まってしまった」ように僕は思う。

 

1ヶ月前は、自分で自分の行動を制限したり、

自分で、控えたり、控えなかったり。

そうやって皆が自分自身のできる

範囲で行動していた。動ける範囲で動いていた。

 

でも、この1ヶ月で、

どこか色々なことが止まってしまったようにも感じている。

 

そして、今止まっていても、

動こうと思えば、いつだって前のように動けるように思っている場合も多い。

 

でも、そうなのだろうか?と自分のプリントを通して思う。

 

プリントは、僕だけの中で止まってしまったものであるけれど、

きっと僕と街の人たちで共通して動いていることも、

同じことがいえるのではないかとも感じている。

 

止まってしまったものを、

もう一度動かすためには、時間もかかるし、

そんなに簡単なことでもないように思う。

 

だから、この半年、1年ってなんかいろんな

苦労がこれから出てくるようにも感じている。

 

プリントでも、プリント以外でも、

自然農の田畑でも、

自分の動ける範囲の中で動き続ける。

 

どんなに些細なことでも「止めない」ことは

大事なのだと、この数カ月で自分のプリントを通して、

自分のプリントや身の周りの出来事を通して感じてる。

** ** 

5/2 ようやく中学相当最後の問題をクリアした。

最後のプリントが一番クリアまで時間(期間)がかかってしまったけれど、
最後はミスゼロでクリアすることができた。

解いていくと、ミスゼロでクリアしたい気持ちが強くなっていた。
クリアするとやっぱり嬉しいです。

この最後のプリントに取り組む中で、
自分なりに、学習の進め方に工夫が出てきたようにも思う。

1問1問の量が多い為、
解くことはもちろんだけれど、
間違い直しも時間が必要であった。

そして、間違い直しを翌日にやったり、
間違い直しも2日間に分けてやったりした。

そして、間違え直しを2日間に分けてやると、
間違い直し1日目の問題を忘れてしまうこともあったので、
間違え直し2日目は、1日目の問題の振り返りなども行った。

そうやって、自分なりの問題の直し方や、
振り返りの仕方をしていってから合格までがスムーズだったようにも思う。

問題のレベル・量が上がっていくので、
自分なりに学習の仕方を工夫して進めていきたいと思う。

** **

こうやって、自分で少しずつでも工夫して、
自分にあった学習の仕方を見つけていくのだれど、
やっぱりストップウォッチと記録表はものすごく重要だと思う。

全てが自分の工夫ではなく、
決められたツールや、フレームの中で、自分の工夫が生まれてくるのだと思う。

ストップウォッチも、記録表もなかったら
どうやって僕は自分なりの工夫を生み出しただろうか。

 

4月のふりかえり その1

4月11日に教材を郵送したが、3月末から4月10日までプリントを1枚もやらなかった。中学校最後のプリントが、なかなか合格できずにいる中で、こうやってやらない日々が続いてしまった。

3月末から引っ越し&退去する家の掃除、新居の空き家の掃除&修繕など、やることはかなりたくさんある中で、やらなかった理由付けはたくさんできる。そして、そういう記事も多くこれまで書いてきた。

今回のできなかった過程の中で、
自分が感じていたことを振り返りながら書いておこうと思う。

・失われるものがある
今回、空き家の掃除や修繕などを、早朝や、仕事が終わった後にやったりしながら毎日とにかく目の前のやらなければいけないこと(ここでいうやらなければいけないこととは、トイレ・お風呂・台所の修繕。最低限の生活に必要なところの掃除と修繕)をやって、なんとか生活はできている。

そういうことに熱中していた毎日だから、それなりに充実感もあるし、毎日疲れ果ててすぐ眠れるし、それはそれで充実して言えるといえるのかもしれない。けれど、やっぱりプリントのことが頭にあって、やらなかったなー。という気持ちは毎日あった。

そういうときに、自分が熱中したり、充実感を抱く中にも、失われているもの、後退しているものがあるんだなーってことをすごく感じた。別にプリントがなければ毎日充実した自分しかいない。結局それは、そういう自分しか自分がみれていないだけなのだと思う。
だから、この1枚のプリントが日常の中にあると、自分が自分を見つめる視点が1つ増えて、それだけ自分の見え方が変わっているのだということが、すごく納得できた。

春になって、田んぼや畑の仕事がすこしずつはじまっている。
日々の状況は変わっていくのだけれど、1日1枚のプリントは変わらない。

そういえば、まなびおむすびのインタビューで、新成人の方にインタビューしたときに、『成長って「変わる部分と、変わらない部分の両面を含めて成長」で、自分の「変わっていく部分」だけでなくて、「変わらない部分」も大事にしていきたい』って話を聞いたのだけれど、今の自分って、「変わる部分」しか目がいっていないくて、「変わらない部分」って1日1枚のプリントだなって。

今はまさに、「変わる部分」しか目がいていない。こうやって、落ち着いて記事を書くことも久しぶり。
今までやってきたことを、「変わる部分」の力に流されずにありたい。








考現学(新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について)

考現学新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について)

 

(2020.04.09) 

今日、コロナウイルス感染拡大の影響で、

世の中は大きく動いている。

 

東京をはじめとする都市は、

感染者も増え続け、僕の住んでいる街とは

全く状況は異なるようにも思う。

 

都市生活ではないけれど、僕の意識も、そして身の回りにも変化は大きく生まれつつある。

 

自分以外の誰かと、同じ危機感をもち、

世の中が何か変わりつつある状況は、

東日本大震災のときのようだ。

 

震災当時の僕は高校3年生で、

4月からは大学進学を控えていた。

3月の中旬に、国公立の後期試験を受験予定であった僕は、

まだ進学先も確定していなかった。

 

そんな中、3/11に震災が起きた。

翌々日くらいにあった国公立の後期試験も、

公共交通機関がストップしてしまったり、

大混乱の中での受験だったことを覚えている。

 

大学進学という1つの節目の時期に、

震災という体験は、今の僕にとってものすごく大きな影響を与えていると感じることは多い。

あれだけの津波によって多くの人が亡くなること、

そして原発の2次災害。そして、その中で政府の対応や、メディアの発信の仕方。

 

そしてだんだんと、皆の意識から震災が消えていくことも、

今まで感じたことのない体験だった。

 

当時の自分が何を感じ、どんな視点で世の中を見ていたのだろうか?

残念ながら、当時の僕はこうやって書くことをしていなかったから、

当時の言葉を振り返ることはできない。

僕自身はこれまでの日々と同じように、
自分自身と向き合い続けることはなんら変わらないことなのだと思うけれど、
僕自身と、世の中の関係の中で、
ここまで世の中側から変わってくる機会ってないことのように感じていて、
それは貴重な体験なのだと思う。

 

だからこそ、今この状況下において、

自分が何を感じ、何を思い、どのように世の中を見ているのか?

ということは、言葉として残しておきたいという想いがある。

 

 

◯時代が背負う問題がある

ウイルスは、あっという間に全世界に広がっていった。

これだけ人が世界中、日本中を行き来していれば、当然とも言える。

はるか昔だったら、こんな広がり方はしないようにも感じる。

 

また、それはウイルスだけではなくて、

情報だってそうだ。

 

僕は家にテレビがないため、ほとんどSNSで情報を受け取るのだけれど、

さまざまな情報がネット上には溢れていて、

一体何が本当の情報なのかがわからなくなってくる。

 

そして、物が買い占められたり、嘘の情報が出回って世の中が混乱することもある。

 

これは、今の時代ならではの問題であって、

この時代が背負わなければいけない問題なのだと感じる。

 

時代は変化していく。そしてその時代の中に生まれる問題も変化していく。

そして、また時代が変わっていく。

 

そうやって、時代は常に変化しながら、

問題を抱えながら進んできのかもしれない。と思うと、

今回のこの問題も、やはり時代の変わり目であり、

それは決して異常なものではなく、自然的なものなのだとも思えてくる。

 

 

(2020.04.10)

◯「違い」に気づく

こうやって、1つの問題を共有すると、

その人が世の中をどう捉えているのか?ということがよく見えてくる。

 

ウイルスに対しての認識だって、

政府に対する認識だって、

オリンピックに対する認識だって、

全部全部その人の見方が見えてくる。

 

今までは、自分と他者の「違い」がここまで見えてこなかったのではないだろうか?

(いつも世の中の動きに疑問を思っている人は、いつものことがより鮮明にみていると思う)

こうやって、自分の「身」に問題がかかってくることで、

他者との「違い」が見えてくる。

 

そして、他者と分かり合えないことが生まれてくる。

 

きっとそこが、他者と本当の意味で生きていくことのスタート地点なのだろう。

これまでは、その「違い」が見えずらかった。

どんな問題も、自分の「身」にかかってこなかった。

誰か1部の人がその問題を引き受けて、結局みんなが当事者ではなくなっていった。

 

今回の問題も、その終わり方だけは避けたい。どこか世の中で弱いとされている部分に、

世の中の責任が押し付けられる。そして、世の中の弱い部分が

より居場所をなくしていく。そんな終わり方だけはやだなと思う。

 

今、他者と感じている「違い」をいつまでも

抱えていくことが必要なのだと思う。

そして、その「違い」を受けいれて、

違いを力に変えて、他者とつながりって生きていきたい。

 

 

(2020.04.11)

◯情報という商品

こうやって、SNSで情報を受け取ることができるようになって、

情報もまた、さまざまな流通しているものと同じで生産されているのだと

ものすごく感じる。

 

多くの生産され、流通している品物は、

それなりに自分にとって何が合っていて、何が合っていないのか?

作った人は何を売りにして、誰に向けて作ったのだろうか?とか、

商品生産の背景が見えてくることが多い。

 

だけれ情報というものは、生産物という見られかたはされにくい。

また、情報はその背景がなかなか見えにくい。

というのか、見せていない情報というものもとても多い。

情報だからどんなデータに基づいて、どういう解釈をして、この情報に至ったのか?

その情報を生み出す過程がほとんど見えないものがおおい。

 

誰が作った、誰が発信元なのかすらわからなかったり、あやふやなものはおおい。

 

でも、SNS上ではそういった情報が、

ものすごくシェアされていたり、力を持つこともおおい。

そして、人が動かされ世の中が動いていく。。そして混乱していく。。

 

そういった時代だからこそ、ひとりひとりが情報を商品(生産されているもの)とおもって、

精査して、自分自身に生かしていかなければならない。

 

情報とはどういうものなのか、

言葉ってどういうものなのか、ということを僕たちはそれほど学んでこなかったし、

急速に情報が溢れかえってしまった。

 

何が事実なのか、どこまでがデータで、どこまでが解釈なのか?

そういった見方で情報に触れられないと、

結局は、自分自身の声に従うことはできず、誰かの声を生きることになる。

そして、世の中はより混乱していく。

 

こういった情報時代に、

主体的に生きるとか、自分を生きるためには、

こういうところが前提として大事なんじゃないのかって思う。

 

 

◯あやうい土台の中を生きている

 

なんで高校時代に勉強ができなかったのか今ならわかる。

なんで高校時代に勉強ができなかったのか今ならわかる。

 

今、こうして数学の学習を毎日やっていて、

「できない」プリントに直面した時に、

高校時代の自分を思い出す。(ものすごく思い出す)

 

僕は高校に入って勉強ができなくなった。

中学校の時は、それなりに勉強すればなんとなくできたことも、

高校に入ってからは、本当にできなくなった。

 

センター試験の勉強もしたけれど、

できない問題はたくさんあった。

問題集を解いても、できない、わからない問題があった。

 

でも、そのできなかった問題を、1問1問自分の力でできるようになるまで、

答え直しをすることもなかったし、友達に聞いたり、

先生に自分から質問することすらしていなかった。

 

そういう高校時代の自分の姿と、その時の気持ちが

すごくリアルに蘇ってくる。

そして、「そりゃできるようにならんよな」と今は納得できる。

(それは、もともとの能力とか才能とか全く関係なく。)

 

今こうして毎日数学のプリントをやっていると、

高校時代と同じように「できない」問題に直面する。

でも、今の学習は、高校時代のように、できなくてそのままにしておいたら、

いつまでも今のまま変わらない。

次に進むこともできないし、戻ることもない。

ただ、今のままである。

そうすると、自然とできたい気持ちが生まれて、

できなくても、なんとか前に進もうとする。

 

できないなりになんとかやろうとする。

(やろうとしなくも、やろうとしない自分と向き合おうとする)

 

時間はかかるけれど、地道に必ず進んでいく。

 

高校時代は、どうだっただろうか?

どれだけできない問題をそのままにしていても、

センター試験をいつしかむかえ、

いつしかできないなりの結果が届く。

そして、大学に僕は進学した。

 

「できない」体験は、試験の終わりととも僕の中から消えた。

 

「数学ができない」という高校時代の体験は、

「進学」のための手段の中にある体験の1つにすぎなかった。

 

僕はあらためて、今、高校時代の学び直しをしているのだと思う。

 

できないことを、受け入れていくこと。

できない自分を、観察すること。

できないことを、できるように工夫していくこと。

できないことが、できるようになること。

 

その体験は、ただ「勉強ができるようになった」だけでは終わらない。

自分が本当に「できない」ことと、

真剣に向き合い、自分で1問でもできるようになっていくその体験は、

「数学」を超えてきっと大きな価値があるのだと、

今の僕は感じている。

 

3月の振り返り その1

3月の振り返り その1

 

◯1問でもいいから毎日続けること

 

ものすごく当たり前なことなのだとおもうけれど、

1日に1枚のプリントができなくても、

1日に1問でも問題ができるようになれば、

プリントができるようになる日がすこしでも近づいてくるのだという実感が、

この中学校最後のプリントを通してがんじている。

 

何もやらないと、いつかのできる日が近づかないだけでなく、

近づいていたものが、また遠ざかっていくのだという実感もまた感じている。

(今の僕はこれを繰り返しているように感じる)

 

1枚できなくても、1問でいいから、取り組めること。

その1問ができることと、1日に何もやらないことに

大きな違いがあるということを、今とても実感している。

 

そうやって自分自身の体験を通して、子どもの学習の姿をみると、

30分、1時間と勉強を強制してやらせるよりも、

たった1問。自分でやろうと思ってやってみる体験を僕は大切にしたいなと思う。

 

それは難しいことなのだと感じることも多いけれど、

勉強量と勉強時間だけで子どもの状態をみるのではなく、

たった1問からでもいい。

そこからでも始められること、伝えられることはあるのだと思った。

 

 

◯やらないと気持ちわるい

できない毎日が続くけれど、

いつしかプリントができていない日は、

プリントが引っかかる。すっきりしない。

 

そうやって、プリントが引っかかるようになるということもまた、

プリントが自分の日常に入ってきた証拠でもあるだろう。

 

プリントを始めた当初、この気持ち悪さはあっただろうか。

きっとなかっただろう。

 

その気持ち悪さは、その行為によるメリット

(プリントをやって得られること)が与えているものではなくて、

その行為自体によって生まれてくるものである。

 

 

◯卒業とは

3月ということもあり、

スクールにくる子どもたちも中学校を卒業する。

 

でも、この子たちにとってみれば、卒業というのは

あまり関係がないようなもので、

興味のないもののように感じる。

(全員そうとは言えないけれど)

 

卒業ってなんだろうかと考えさせられる。

 

卒業というものは、

誰かから与えられるものでもないし、

年齢によって与えられるものでもない。

 

強制的に卒業するというものは、

本来の卒業なのだろうか。と考えさせられる。

 

本当の卒業は、きっと自分で「その時」を自分自身で感じるものなのだろう。

 

スクールの子どもたちの、

もう「アニメオタクは卒業した」という言葉の方が、

よっぽど 「卒業」 という言葉がぴったりくる。

 

 

中学校を卒業したからといって、

諦めること、変わらなければいけないこと、

やめなければいけないことなんてないのだ。

 

自分が「卒業した」と思えた時が、「卒業」の時だ。

 

その時を感じないのであれば、

とことんやり続ければいい。

「卒業」という言葉によって、

何か無理やり区切る必要などないのだと。子どもの姿をみて思った。

2月のふりかえり その2

2月のふりかえり

 

ここ最近、ずっとぐずぐず前に進まない感じです。

 

これまでは、それなりに自分が中学校で学んできた復習的な内容のプリントだったと思いますが、

中学校の最後の問題は、中学時代に解いたことのないような問題もいくつかあって、

今までの小4-41などとはまた違った「できない体験」だと感じています。

 

どこができていなかったのか、

できない理由はどこなのかを、

答えをみながら丸つけをして、

間違えも直していくのですが、これが時間がかかります。

 

そんな時も、僕の頭の中にはいつも仕事のことがあって、

はやく仕事したいって思ってしまいます。

だから、答え合わせと間違い直しがいい加減になります。

 

でも、なんで僕はいい加減になるのか?と思うと、

たぶんこれらの問題(中学校レベルの最後の方のプリント)を自分は「できる」と思っていたのだと思います。

これまでの問題は、「できる」けど「できない」状態でした。

因数分解のやり方も「できる」けど、時間内に「できない」という状態)

 

でも、今のこの状態(中学校レベルの最後の方のプリント)は、

本当に「できない」状態なのだとこうやって書いてみて、ふと気付かされました。

時間内に「できない」とかではなくて、

自分で解き方を見出せなくて「できない」

今までの問題の中で直面した「できない体験」とはまた全然違います。

 

 

だから今まで以上に間違い直しが重要で、

今までと同じように、

できない体験を扱っていたらいけないなと。

 

結局こうやって「できないという自覚」が生まれないと、

できないことができるようになっていかないですね。

 

 

****

 

僕は小中高と数学を学んできたので、

らくだの体験は、一度学んだことを学び直していくという体験しか、

今の段階ではできないのですが(高校レベルになれば話は違いますが)、

僕自身がこれまでらくだの学習の中で体験した「できない」という体験は、

僕自身の「できない体験」でした。

 

きっと、プリントを通して生まれる「できない結果」は同じに見えても、

子どもたちは、子どもたちなりの「できない体験」です。

 

だからこそ、これまで復習的な内容の中での「できない体験」ではなく、

ゼロから学んでいく中での「できない体験」が高校レベルのプリントになれば

より生まれてくるように思います。

 

そうすると、また子どもとの関わり方のヒントに気付けるかもしれないと感じました。

 

 

 

1月ふりかえり その3

2/1に教材を返送しました。

・中学プリントあともう少し
中学プリントも残りわずかとなってきました。少し問題の形式が変わり、解けない問題が出てきました。
解けない問題に出会ったときに、自分はどうしてできないのか?という問題の間違いに対する見方が、中・高時代の自分とはやっぱり変わっていて、同じ数学の中でも、問題の捉え方、間違いに対する見方など、ものの見方って変わるもんだなーと実感しています。

 

・空き家を借りることになりました
今年に入って、空き家探しをしていたのですが、ようやくお借りできるお家が見つかりました。ここから引っ越しや、少し空き家を自分たちで手直しなどしたいと思っています。

・先を見つめるからこそよく振り返る
今回の引っ越しは、僕にとって1つの区切りとなる。
地元に戻ってきて1年半が経とうとしている。この1年半は準備期間のようなものだと捉えていた。地域の由緒ある建物に住ませてもらうことで、地域の人とも繋がることができた。さまざまな情報にも出会えた。

次の引っ越しはまた新たな段階へと入っていくように思う。

だから、この先について話したり、考えたりする時間が多くなっている。けれど、やはりこの1年半もしっかり振り返ることの重要性も実感してる。
振り返ることで、今の自分の置かれている状況は明確に見えてくる。

地域の中にいれば、自分以外の人の活動も自分にとっては大きく関わってくるし、そのことでより自分の役割もまた明確に見えてくることもある。

自分自身を振り返っていくこと
地域の視点に立って振り返っていくこと
家族の視点で振り返っていくこと

自分ひとりではなくて、あらゆる人との関係性の中に自分がいる。
だからより多くの自分視点をもって、
今の状況を振り返っていくと、自分の先がまた具体的に見えてくるような気がしている。