4月11日に教材を郵送したが、3月末から4月10日までプリントを1枚もやらなかった。中学校最後のプリントが、なかなか合格できずにいる中で、こうやってやらない日々が続いてしまった。
3月末から引っ越し&退去する家の掃除、新居の空き家の掃除&修繕など、やることはかなりたくさんある中で、やらなかった理由付けはたくさんできる。そして、そういう記事も多くこれまで書いてきた。
今回のできなかった過程の中で、
自分が感じていたことを振り返りながら書いておこうと思う。
・失われるものがある
今回、空き家の掃除や修繕などを、早朝や、仕事が終わった後にやったりしながら毎日とにかく目の前のやらなければいけないこと(ここでいうやらなければいけないこととは、トイレ・お風呂・台所の修繕。最低限の生活に必要なところの掃除と修繕)をやって、なんとか生活はできている。
そういうことに熱中していた毎日だから、それなりに充実感もあるし、毎日疲れ果ててすぐ眠れるし、それはそれで充実して言えるといえるのかもしれない。けれど、やっぱりプリントのことが頭にあって、やらなかったなー。という気持ちは毎日あった。
そういうときに、自分が熱中したり、充実感を抱く中にも、失われているもの、後退しているものがあるんだなーってことをすごく感じた。別にプリントがなければ毎日充実した自分しかいない。結局それは、そういう自分しか自分がみれていないだけなのだと思う。
だから、この1枚のプリントが日常の中にあると、自分が自分を見つめる視点が1つ増えて、それだけ自分の見え方が変わっているのだということが、すごく納得できた。
春になって、田んぼや畑の仕事がすこしずつはじまっている。
日々の状況は変わっていくのだけれど、1日1枚のプリントは変わらない。
そういえば、まなびおむすびのインタビューで、新成人の方にインタビューしたときに、『成長って「変わる部分と、変わらない部分の両面を含めて成長」で、自分の「変わっていく部分」だけでなくて、「変わらない部分」も大事にしていきたい』って話を聞いたのだけれど、今の自分って、「変わる部分」しか目がいっていないくて、「変わらない部分」って1日1枚のプリントだなって。
今はまさに、「変わる部分」しか目がいていない。こうやって、落ち着いて記事を書くことも久しぶり。
今までやってきたことを、「変わる部分」の力に流されずにありたい。