考現学(新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について)
(2020.04.09)
今日、コロナウイルス感染拡大の影響で、
世の中は大きく動いている。
東京をはじめとする都市は、
感染者も増え続け、僕の住んでいる街とは
全く状況は異なるようにも思う。
都市生活ではないけれど、僕の意識も、そして身の回りにも変化は大きく生まれつつある。
自分以外の誰かと、同じ危機感をもち、
世の中が何か変わりつつある状況は、
東日本大震災のときのようだ。
震災当時の僕は高校3年生で、
4月からは大学進学を控えていた。
3月の中旬に、国公立の後期試験を受験予定であった僕は、
まだ進学先も確定していなかった。
そんな中、3/11に震災が起きた。
翌々日くらいにあった国公立の後期試験も、
公共交通機関がストップしてしまったり、
大混乱の中での受験だったことを覚えている。
大学進学という1つの節目の時期に、
震災という体験は、今の僕にとってものすごく大きな影響を与えていると感じることは多い。
あれだけの津波によって多くの人が亡くなること、
そして原発の2次災害。そして、その中で政府の対応や、メディアの発信の仕方。
そしてだんだんと、皆の意識から震災が消えていくことも、
今まで感じたことのない体験だった。
当時の自分が何を感じ、どんな視点で世の中を見ていたのだろうか?
残念ながら、当時の僕はこうやって書くことをしていなかったから、
当時の言葉を振り返ることはできない。
僕自身はこれまでの日々と同じように、
自分自身と向き合い続けることはなんら変わらないことなのだと思うけれど、
僕自身と、世の中の関係の中で、
ここまで世の中側から変わってくる機会ってないことのように感じていて、
それは貴重な体験なのだと思う。
だからこそ、今この状況下において、
自分が何を感じ、何を思い、どのように世の中を見ているのか?
ということは、言葉として残しておきたいという想いがある。
◯時代が背負う問題がある
ウイルスは、あっという間に全世界に広がっていった。
これだけ人が世界中、日本中を行き来していれば、当然とも言える。
はるか昔だったら、こんな広がり方はしないようにも感じる。
また、それはウイルスだけではなくて、
情報だってそうだ。
僕は家にテレビがないため、ほとんどSNSで情報を受け取るのだけれど、
さまざまな情報がネット上には溢れていて、
一体何が本当の情報なのかがわからなくなってくる。
そして、物が買い占められたり、嘘の情報が出回って世の中が混乱することもある。
これは、今の時代ならではの問題であって、
この時代が背負わなければいけない問題なのだと感じる。
時代は変化していく。そしてその時代の中に生まれる問題も変化していく。
そして、また時代が変わっていく。
そうやって、時代は常に変化しながら、
問題を抱えながら進んできのかもしれない。と思うと、
今回のこの問題も、やはり時代の変わり目であり、
それは決して異常なものではなく、自然的なものなのだとも思えてくる。
(2020.04.10)
◯「違い」に気づく
こうやって、1つの問題を共有すると、
その人が世の中をどう捉えているのか?ということがよく見えてくる。
ウイルスに対しての認識だって、
政府に対する認識だって、
オリンピックに対する認識だって、
全部全部その人の見方が見えてくる。
今までは、自分と他者の「違い」がここまで見えてこなかったのではないだろうか?
(いつも世の中の動きに疑問を思っている人は、いつものことがより鮮明にみていると思う)
こうやって、自分の「身」に問題がかかってくることで、
他者との「違い」が見えてくる。
そして、他者と分かり合えないことが生まれてくる。
きっとそこが、他者と本当の意味で生きていくことのスタート地点なのだろう。
これまでは、その「違い」が見えずらかった。
どんな問題も、自分の「身」にかかってこなかった。
誰か1部の人がその問題を引き受けて、結局みんなが当事者ではなくなっていった。
今回の問題も、その終わり方だけは避けたい。どこか世の中で弱いとされている部分に、
世の中の責任が押し付けられる。そして、世の中の弱い部分が
より居場所をなくしていく。そんな終わり方だけはやだなと思う。
今、他者と感じている「違い」をいつまでも
抱えていくことが必要なのだと思う。
そして、その「違い」を受けいれて、
違いを力に変えて、他者とつながりって生きていきたい。
(2020.04.11)
◯情報という商品
こうやって、SNSで情報を受け取ることができるようになって、
情報もまた、さまざまな流通しているものと同じで生産されているのだと
ものすごく感じる。
多くの生産され、流通している品物は、
それなりに自分にとって何が合っていて、何が合っていないのか?
作った人は何を売りにして、誰に向けて作ったのだろうか?とか、
商品生産の背景が見えてくることが多い。
だけれ情報というものは、生産物という見られかたはされにくい。
また、情報はその背景がなかなか見えにくい。
というのか、見せていない情報というものもとても多い。
情報だからどんなデータに基づいて、どういう解釈をして、この情報に至ったのか?
その情報を生み出す過程がほとんど見えないものがおおい。
誰が作った、誰が発信元なのかすらわからなかったり、あやふやなものはおおい。
でも、SNS上ではそういった情報が、
ものすごくシェアされていたり、力を持つこともおおい。
そして、人が動かされ世の中が動いていく。。そして混乱していく。。
そういった時代だからこそ、ひとりひとりが情報を商品(生産されているもの)とおもって、
精査して、自分自身に生かしていかなければならない。
情報とはどういうものなのか、
言葉ってどういうものなのか、ということを僕たちはそれほど学んでこなかったし、
急速に情報が溢れかえってしまった。
何が事実なのか、どこまでがデータで、どこまでが解釈なのか?
そういった見方で情報に触れられないと、
結局は、自分自身の声に従うことはできず、誰かの声を生きることになる。
そして、世の中はより混乱していく。
こういった情報時代に、
主体的に生きるとか、自分を生きるためには、
こういうところが前提として大事なんじゃないのかって思う。
◯あやうい土台の中を生きている