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べてるの家ドキュメンタリー映画 ベリー・オーディナリー・ピープル(V.O.P) 上映会のまとめ

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[不思議の家のべてる]

1995年から、回復した精神障碍者たちの生活拠点である「べてるの家」の日常を撮った『ベリー オーディナリー ピープル』というビデオの連作を作っている。圧倒的に面白いビデオである(と、作った本人が言っているのだから当てにならないが)。少なくとも、毎日を生きている日常が今までとは違った世界として見えてくる。

発端はプロデューサーの清水義晴さんとの出会いだった。早くに父親を亡くした清水さんは、若くして家業の印刷会社を継ぎ、社長として腕を奮ってきた。会社のため、従業員のためと、懸命に仕事をしてきたつもりだったが、ある日、社員たちの造反を受けた。それがショックだった。それから清水さんは、人が人として大切にされる企業のあり方を模索していった。そして、管理職から支援職へ、一人一職、一人一研究、ナンバーワンよりオンリーワンへなどと、様々な企業改革を進めていった。今から二十年以上も前のことである。

その清水さんが、15年ほど前、縁があって「べてるの家」と出会った。そしてそこにある、“弱さ”を大切にした 生き方の斬新さに感動した。清水さんは、そこに、自分が模索してきたものと重なるものを見た気がしたからだ。 そこでべてるに、本を出版しようと呼びかけた。

べてるのメンバーはびっくりした。精神障碍という病気を持った自分たちの存在が、いったい本にする価値があるのかといぶかった。こうして誕生したのが『べてるの家の本』であり、それは口づてに広がって、すでに一万数千冊を超えている。本の出版のために、或は本を出版してからも、清水さんはたびたびべてるを訪ねた。そして、いくつもの感動のシーンに立ち会った。だが、その面白さや素晴らしさは文字では伝え切れなかった。そこで映画を作ろうと思い立ち、私に協力を求められた。

私は「べてるの家」のことは何も知らなかったが、清水さんの話を聞いて一つだけ条件をつけた。感動的なシーンは 撮れませんよと清水さんに言った。清水さんはそれでいいと言う。それで私は引き受けた。その頃すでに私には、 いい映画や素晴らしい映画を作ろうという気が消えていた。対象が面白ければ、或は対象が何かを発信していれば、 それをそのまま撮れば、見る人はそれぞれに何かを感じとることができるだろうという考え方をしていた。

感動的なシーンを撮ろうと狙って待ち構えていると、撮る側の心性に歪みが生じてしまう。するとその歪みが、見る人に歪んだ観念を植えつけてしまうのを恐れたのだ。対象にカメラを向けて、ただだらだらと撮るのが私の手法だった。そしてそうした撮り方に、ビデオはフィルムより向いていた。

べてるの家」へは、何の準備も何の勉強もしないで出かけていった。たいていの記録映画の監督さんは、しっかりと事前の調査や勉強をして、自分なりの考え方や映画の構想を確立してから撮影の現場に乗り込む。しかし私は、そうしたやり方を好まない。何も知らない方が先入観を持たないですむからだ。何も知らないまま現場を訪れ、そこで自分が見て、知って、感じたことを、そのまま映像としてつないでいく。そのことで観客も多分、私と同じ距離感で現場に触れ、対象に迫り、何かを感じることができるのだと思っている。

それでも正直のところ、最初は、精神障碍者と呼ばれる人たちとどういう顔をして話せばいいのか戸惑いがあった。 差別や偏見を持っていけないと意識すること自体が、すでに差別する心の始まりだという自覚があった。それでいて、 そんな意識は拭いようもなかった。しかし「べてるの家」を訪ねてみると、そんな意識は忽ち払拭されてしまった。

べてるのメンバーたちはカメラを手くすねひいて待ち構えていた。到着するとすでに宴会の準備が整っていた。 どうやら、我々の歓迎の宴らしい。撮影の機材を置いて、ニコニコして席について、ビールを二口も飲まないう ちに、メンバーの自己紹介が始まった。あわてた。どうも私たちに向かって喋っているらしい。私たちは取材に 出かけて行ったのだからお客さんという意識がなかった。しかしその席には、お客さんらしいのは私たちしかい なかった。『べてるの家の本』の出版という体験をしていたべてるのメンバーたちには、語りたいことがたく さん溜まっていたのだ。あわててカメラを構えて、撮りはじめた。

その時の様子を、そのままつないだのが『ベリー オーディナリー ピープル』の予告篇その1である。 二泊三日の第一回ロケからの帰り道、清水さんから予告篇を作ってくださいと頼まれた。清水さんは予告篇を持って全国を行脚し、べてるの“映画”を作るための製作資金を集めよう、という心づもりだった。(清水さんの妄想はふくらんで、カンヌのグランプリを受賞した時に備えて、授賞式に着ていく羽織袴の心配までもしていた。)

私は、名刺代わりの予告篇を作ろうと思った。一つは、カメラに向かって自己紹介をして くれた映像をそのまま活かして、“私たちがべてるですよ”と観客に差し出す名刺である。もう一つは、 私がべてるのメンバーに差し出す名刺である。私がどんな感じ方をして、どんな映画を作ろうとしてい るのかを、まず先に、べてるのメンバーに知ってもらいたいと思ったからだ。それが、これからの映画づくりの、べてるとの長い付き合いには必要だと思ったからだ。

最初の清水さんの注文は十五分から二十分の予告篇だった。しかし、実際に編集をし始めるといっこうに短くならない。それよりも、そもそも短くする気が失せてしまうのだった。精神障碍でも、生活保護でも、それでも子ども生みたい! という山崎薫ちゃんの言葉をそのまま伝えたかった.。今は精神病であることを誇りに思っている! という坂本さんの破天荒な言葉もそのまま伝えたかった。すると、どうがんばったところで短い予告篇などはできっこなかった。長くてもいいですか、と清水さんに尋ねると、それでいいと言う。そこで60分の予告篇その1が誕生した。

初めて訪ねた「べてるの家」は、私が今までに出会ったこともないような異様な世界だった。そこには笑いが 渦巻いていた。自分の幻聴や妄想を、或は病気の発症している時のパフォーマンスを、明るく大きな声で語り 合い、自慢し、からかい、笑いあっていた。みんながいきいきと輝いていた。生きるエネルギーに満ちあふれ ていた。それが不思議でならなかった。

(もちろん、調子の悪い人は沈痛な表情で落ち込み、体調を崩した人は自ら浦河赤十字病院へ再入院していくの だが。しかし、再入院もべてるでは不名誉でも何でもない。ちょっとかかりつけの医師に見てもらい、薬をもら って、からだを休めるために別荘に出かけていくようなものだった。)

一度は絶望を味わった人たちがである。発病した時に、一度は、これで自分の人生は終わったと思った人たちが である。その人たちが、楽しそうに、幸せそうに暮らしている。それが不思議だった。

べてるの家」は北海道浦河町にある。人口一万六千人の小さな町である。千歳空港から苫小牧を経て、海岸線 をひた走って二時間半。森進一のヒット曲で有名な襟裳岬の少し手前である。一帯は、日高昆布と競走馬サラブ レッドの産地である。新聞やテレビでも紹介されて、病気で苦しんでいる人が全国から集まってくる。

浦河赤十字病院精神科の川村先生の診断を受け、入院し、退院してから「べてる」のメンバーになる。「べてる」には不思議な“場の力”がある。いや別の言い方をすると、べてるのメンバーが作り出す場の力が、べてるの“不思議さ”を演出しているのかもしれない。

六年も七年も被害妄想で苦しみ 、人間不信に陥り、引きこもりをしていた人が、「べてる」に来たとたんに、数か月もしないうちに、人の前に出ることが出来、自分のことや病気のことを語り出す。カメラを向けるとごく自然に語ってくれる。その人は、カメラの前で、今は、人の前で話し、人の話を聞き、人とコミュニケーションが取れる自分をとても幸せに感じている、と語ってくれた。もし病気でなかったら、こんな幸せは味わえなかっただろう、とも言う。かつて、病気と戦い、自分を責め、周りを傷つけていた頃は、こんな自分を想像することもできなかったと言う。

しかしこれは、川村先生が名医であるからでもなんでもないと私は思った。病院での治療や薬が効いたわけでもない。 私は、それが「べてる」の“場の力”だと思っている。メンバーと一緒にずっと「べてるの家」を支えてきた医療 ソーシアルワーカーの向谷地(むかいやち)さんは、予告篇その1で、それを「べてるはホクホクした黒土のよう なところです」と語っている。

べてるには、いい人ばかりがいるわけではなく、怒りっぽい人も、だらしない人も、騒々しい人も、風呂の嫌いな人も、実にいろいろの人がいる。そしてその人たちが、それぞれの味を出し、それぞれの味を活かして「べてる」という場の豊かさを作り出しているように感じられる。大原則は、ありのままの自分をそのままを受け入れようという考え方である。それが、他人を受け入れ、支え合うという次の関係性を生み出していく。

最近、新しく入ってきたメンバーにインタビューすると、誰もが “べてるに来て安心できた”とか、“ここには 自分と同じ匂いや同じ色の人がいるなと感じた”と語る。どうしても自分の病気を認めたくなかった人や、家族が 自分の子どもの病気を世間から隠したくて病気と認めてもらえなかった人や、或は病院の扱いがひどくて転々と 変わったり、入院するのをかたくなに嫌っていた人たちが、べてるに来ると、すっとなじんで、なごんで、居つい てしまう。自分を守っていた固くて厚い殻を自然に脱いでしまうのだった。

病気があっても、あんなに楽しく幸せそうに生きている人たちを見て、ここでなら自分もやっていけそうだと安心するようだ。誰に強制されるのでもなく、またそうしろと薦められるのでもないのに、ここに来るとありのままの自分を愛おしみ、認めてやることができるようになるようだ。

予告篇その1で、日赤病院精神科の川村先生は「治せない医者、治さない医者を目指しています」と語っている。 川村先生も、若い頃は、患者さんの病気を治すことに一所懸命な良い医者を目指していたという。しかし患者さん に治ることを期待させ、治ることを強制する医療に虚しさを感じて、病気を持ったままでも楽しく幸せに生きられる 道はないものかと模索しはじめた。

精神病というのは、医療の世界に収まり切れない部分が途方もなく大きいと川村先生は語る。確かに精神病は、 発病のプロセスからして、その人の暮らしや生き方や人間関係に大きく左右されている。それを、狭い医療と いう世界だけで解決しようとするのには限界があるという気づきである。そこから、例えば、幻聴を消すこと のために一生を費すよりも、たとえ幻聴があっても、その病気を抱えたままで毎日をいきいきと暮らせるよう な幻聴とのつきあい方を身につけようとする。

べてるでは、幻聴は“幻聴さん”と呼ばれている。幻聴を敵にしないためである。生活の中の色どりとまでは言えないにしても、なんとか “幻聴さん”と上手につきあえないものかと工夫していく。他人の前で自分の幻聴や妄想のことをおおっぴらに語ることはまず手始めである。他人の話を聞けば、自分のつきあい方の参考にもなる。べてるでは、毎年の総会の席で「幻聴&妄想大会」があって、ユニークな幻聴や妄想の持ち主には賞が与えられる。幻聴に限らず、川村先生はよくメンバーに向かって、“病気は治ってないけど、ずいぶん良くなったよね”という言い方をしている。

しかし、ありのままの自分を受け入れるということは、安直な現状肯定やプラス志向とは決定的に異なるような気がする。ありのままを認めるのは、今のままでいいということでもない。ありのままの自分を受け入れるには修行が必要なような気がする。多分、その修行が病気の体験だったのだろうと思う。向谷地さんはメンバーによく、“いい苦労をしたね”とか“今、苦労してるのがいいんだよ”という言い方をしている。多分、その苦労が修行なのだろうと思う。

べてるのメンバーの日常を見ていると、彼らは、瞬間瞬間を輝いて生きているんだなあとつくづく感じる。なにかの ためにとか、なにかの目標を目指してせっせと生きているのではなく、ただ輝いて生きているのである。予告篇その2 のべてるの総会の場面で、メンバーの山崎薫ちゃんが「生きてきてよかった」と語る姿がある。私は、なにか憂鬱な ことやつらいことがあるとすぐにその場面を思い出す。

予告篇その1では、働き者の坂本さんが、ゴミ入れのポリバケツに無駄のないビニール袋の取り付け方をカメラに向かってていねいに説明してくれる。ふだんは寡黙な住岡さんが黒い煙を出さないためにいかに気を配ばってゴミを燃しているのかを熱っぽく語ってくれる。そんな姿に、メンバーたちが生きている今という時間の重さを感じた。メンバーたちが瞬間瞬間を実にていねいに生きている、それが私には輝きとして感じられたのだ。

予告篇その1は、余儀なくして長い長い予告篇になった。しかしその2からは、私は意図して長い予告篇を作ろうと考えた。そして予告篇はその8までを数えている。だいたい一時間から一時間半、短くても三十五分、最長で二時間の予告篇である。ギネスブックに載せてほしいくらいである。

本編という一本の作品を作ろうとすると、どうしても完結性が求められてくる。作る側も見る側も完結性を求めてしまう。 感動がほしくなり、結論がほしくなり、意味づけがほしくなり、素晴らしさがほしくなり、立派さがほしくなる。 しかし、毎日毎日をただひたすらに生きていることには限りがない。

生きることは、完結しない。生きることは死ぬまで続く。瞬間瞬間を輝いて生きているメンバーたちの姿を映像として定着していくのには、完結性が邪魔になったのである。生きることは、毎日毎日変わっていく。べてるもどんどん変わっていく。だから“べてるはこうです”とは、いつだって言い切れない。だからいつまでも予告篇なのだった。

べてるは素晴らしいという讃歌ではなく、ただ生きているべてるのメンバーたちの今を描くことで、同じ生きている時間を共有したいと思ったのである。そして今、予告篇その9も計画中である。

 

引用元: 


 

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その1 (60分)
    『ようこそ べてるの家!』
    カメラが「べてるの家」を訪ねると、メンバーが一人ひとり、カメラに向かって自己紹介をしてくれた。精神障碍者であることを誇りに思っていると言う坂本さん。障碍者でも生活保護でも赤ちゃんは産めるんですと語る山崎さん。「希望者は申し出てください、みんなのパパになります」と下野くん。入院歴三十四回という記録を持つアル中の向井さん。一等航海士だった向井さんは、ずっと“後悔”ばかりしているそうだ。

→2017年上映会の感想・振り返りセッションの記事はこちら

→2020年上映会の感想・振り返りセッションの記事は こちら

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その2 (90分)
    『三度の飯よりミーティング』
    べてるでは、うまく行かなかったり困ったり、問題が発生すると盛り上がる。その度にメンバー全員でえんえんと議論して、それも笑いのうちに話が進んで、立派な結論はいっこうに出てこないのだが、自然に問題解決の方向へと流れが生まれる。どんなに深刻な議論をしていても、なぜか笑いが絶えない、実に不思議なミーティング風景である。

→上映会の感想・振り返りセッションの記事はこちら

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その3(120分)
    『そして伊吹さんがいなくなった』
    一九九五年春、「伊吹光彦社会復帰大プロジェクト」が始った。夜間に非常ベルを鳴らしたり、消火器を振り回したり、自殺未遂をくり返したり、病院をさんざんてこずらせてきた伊吹さんを、もう一度、川村先生や向谷地さんが看護婦さんたちと一緒に、伊吹さんもプロジェクトチームに入れて付き合い直そうとする。「伊吹はドロボーするからイヤだ!」と反対していたべてるのメンバーも、伊吹さんを受け入れてくれた。はじめは神妙に、そして自由に行動できる喜びを手に入れた伊吹さんだったが・・・。

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その4 (90分)
    『安心してさぼれる会社づくり』
    浦河赤十字病院のゴミ回収や生協の掃除、紙おむつの配達や栄養科の食器洗いなど、べてるのメンバーは地域の人たちの困っているところへ出かけていっていろいろな仕事を開拓する。隙間産業は大繁盛。しかし、あくまでもべてる流。けっして無理をしたり、頑張ったりはしない。なにしろ「安心してさぼれる会社づくり」がべてるのモットーなのだから。

→上映会の感想・振り返りセッションの記事はこちら

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その5 (90分)
    『キヨシどん斯く語りき』
    べてるの最初からのメンバーである早坂潔さんが出張販売に行くと、そのキャラクターのおかげで不思議と昆布がよく売れる。その早坂さんが、しゃべって、しゃべって、しゃべって。90分間しゃべり続けます。AVビデオの借り方から、商売の秘訣まで。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その6 (35分)
    リハビリテーション商売』
    メンバーのひとりの失敗がきっかけに自前で昆布を売ろう! とべてるの商売が始まった。商売だから、役場の福祉課や保健所に行くのではなく、町の漁協や観光課に相談に行った。商売だから、苦労が多い。しかし、やらされてやる仕事ではないから、昆布の袋づめも販売も、おもしろくて、たのしくて、それがべてるのエネルギーの源になっていく。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その7 (50分)
    『96年秋、スケッチ・オブ・浦河』
    浦河という地域にすっかりなじんでいったべてるのメンバーたちのスナップ集。入院中はお酒を飲まないので体調のいい一級山菜士の神田さんは、お月見のススキをJRの土手からとってきてあちこちに配っている。介護用品の店「ぱぽ」も病院のすぐそばに店を構えて、店長の山崎さんはいつもお店で横になったまんまの店番。村上さんは、開店してから車イスを十台も売ったそうだ。

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その8 (60分)
    『さをり in 浦河』
    第五回「いのちを活かすフォーラム」は、「さをり織り」の城みさをさんを迎えての講演会とファッションショー。「さをり」は、自分の思いや気持ちを素直にぶつけ、織り方が自由で決まりがないのがべてるの生き方と共通している。はじめはモデルになることを恥ずかしがっていた成田のカアさんも、ロックのリズムに乗って舞台の中央へ。「たのしかった! 来年もやるベ!」と成田さん。

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【まなゆい】相手の言葉をそのまんま大切にすることは、相手の世界を大切にすること

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相手の言葉をどのように扱うかは、
相手の世界をどのように扱うか?ということなのだと思いました。
 
いろいろ本を読んだりセミナーを受けている時に、
「オウム返し」という言葉がよく出てきます。
この「オウム返し」ということの、
 やり方はわかるけれど、
どこか手法化していて、
自分の中にしっくり落とせていないと感じていました。
 
ただ、今回まなゆいインストラクター講座のアシスタントをして、
この「オウム返し」と言うのはまさに、
相手の言葉を大切に扱うためのものであり、
それは、相手の世界を大切にしていることなのだと思いました。
 
** ** **
 
「言葉」ということを考えた時に、
言葉というのは、かなり「曖昧なもの」であって、
言葉の意味がなんとなく同じでも、
一つ一つ言葉によって世界のくくり方、
 区切り方は違ってきます。
 
以前、言語の性質についてこんな記事を書きました。
 
 
 
そう思うと、相手が発した言葉と意味がほぼ同じでも、
他の言葉に置き換えて返してしまうと、
返された相手は
すでに自分の世界との「ずれ」が生じてしまいます 。
 
相手の発した言葉と同じ言葉をそのまま返してあげることによって、
返された相手はそのまま自分の世界を
受け取ることができるということです。
 
** ** **
 
オウム返しというのは、
 「手法」の中の一つだけれど、
それは、本当に相手の世界を大切にしていることなのだと思います。
 
相手の言葉の意味を大切にしがちだけれど、
相手が発した言葉をそのまんま大切にすることが、
相手の世界を大切にすることなのだと思いました。

 

これまでの自分を、そして今の自分を支えている「日常」をどう扱うか

 

毎日仕事をして、

洗濯して、
ご飯を食べて、
眠って、
 
僕たちにとっての日常というのは
その自分自身の行為に対して
特に強引に意味づけをしたり、目的を意識したりするのではなく、
ただ流れていく時間の方が多いように思う。
 
そういう、自分では意識しない、見えない時間や事柄が
これまでの自分を、そして今の自分を支えている。
 
そう思うと、「日常」というのは
何気ないものなのだけど、
それはとっても大きなもののように感じる。
 
そんな目に見えない、意識しずらい「日常」に気づき、
そこから学んでいくことはとっても難しいように思う。
 
けれど、その自分を支えている「日常」
少しでもつかむことができれば、
うまく扱うことができれば、
それは大きな力なのだと思います。
 
** ** **
 
らくだメソッドのプリントの学習は、
1日1枚の計算プリントをやるという点で、
この「日常」というテーマが自然と結びついてくるように思います。
 
この「日常」ということについて、
以前、「日常の中で学び続ける」という記事を書いてみましたが、
 
らくだメソッドを通しての気づきや学びは、
この「日常」というものに対して
今までにないアプローチができるものだと感じ始めています。
 
** ** **
 
なぜ、僕の中にこの「日常」というテーマが生まれてきたのか?
それは、「プリントに対する意識の向かい方」によるものだと思う。
 
僕がこのらくだのプリントをやっている理由は、
特に何か目的があるわけではありません。
 
目的をもってやることが大事ということ同じくらい、
目的を持たずにただやることも大事という認識でいます。
 
この「目的」もなく、強引な意味づけも無く、
でも僕の毎日の中に存在し続けるという点は、
まさに「日常」の性質と重なります。
 
その点で、この1枚のプリントが自分の「日常」ということに
アプローチできるきっかけとなってくれているように思います。
 
** ** **
 
これまで、なぜ自分の日常の中で学ぶことが難しかったのか?
それは、「日常」だから、
自分には見えない、意識できない領域であったのかもしれない。
そして、その日常へのアプローチの仕方、近づき方を知らなかった。
 
でも、1日1枚のプリントは、
その見えない「日常」に近づいたり、
意識できるためのツールのような感じだ。
 
だから、今まで見えなかった、意識できなかった部分が徐々にみえてくる。
その気づきや学びはこそ、この学習の楽しみなのだと思う。
そして、自分の日常がだんだんと豊かになっていく。
けど、その日常すら僕たちは気づかずに、
意識できずにずっと「日常」に支えられて生き続けていくのだと思う。

 

情報ってなんだろうか。

情報ってなんだろうか。

 
去年の10月から今年の7月までの記録表を見つめてみた。
記録表の「メモらん」には、
その時の気づきや、自分の状態をメモ書きとして残している。
 
このメモ書きは、僕の「情報」と言えるように思うのだけれど、
このメモを読み返した時に、
かなり自分の「情報」の曖昧さ、というか、
「情報」って一体なんなんだろうか。という疑問・疑いみたいなものが湧いてきた。
 
そもそも、このメモを残した時の「自分の情報」は、
いつの自分の情報なのだろうか。
 
例えば「今日の自分」の情報といってメモを残していても、
「今日」と「明日」という24時間単位で「自分」を分けることすら変な話のように思えてきた。
 
24時間単位で、「自分」という存在が区切られているわけでもない。
 
そこから考えると、自分がメモとして残した「自分の情報」は
いつの自分の情報なのか?
そう思うとはっきりと答えることができない。
 
という点からも、かなり曖昧な情報になってしまっているように思う。
 
** ** **
 
時間はいつも流れていて、
いつもその中に自分は存在している。
 
けれど、その動いている自分というのを
そのまま言葉として認識することや、
記録することは不可能で、
情報は、どこかで区切ったり、止めたりしたものをが「情報」となっているのだろう。
 
** ** **
 
「情報」はたくさん溢れているけれど、
それらの情報は、「どこかで止められた、区切られた情報」であって、今の現実そのままの「情報」ではない。と言えるのかもしれない?
 
情報は止まっているけど、
現実はいつも「時間」の流れの中にあり動き続け、変化しつづけている。

日常の中で学び続ける

らくだメソッドの学習を開始して
もう少しで1年になります。

1日1枚計算プリントをやるということを続ける中で、
毎日「できる」「できない」とか
「何分でできた」「ミスは何個だった」とかいう事実が生まれてきます。

そういう事実への向き合い方や感じ方が
毎日毎日違います。
そういう中に日々変化している自分が映し出されてくるのだと思います。

そんな風に、日々の日常の中で自分の状況を掴みながら、
気づき学んでいきたいと思います。

そのためには、自分の日常を外へ持ち出したり、
他者と共有する機会を持つ。

そうすることで「日常」が、
僕の日常の中に馴染むことなく、埋まることなく、
僕の「日常」に存在してくれるように思いました。

せっかくフェイスブックでこれだけの人と繋がれているのだから、
もう少しこういう環境を生かしながら、
学んでいけたらなと思いました。

それは、今の時代だからできる学び方でもあるのだと思います。
自分の身の回りの環境や、
時代に合わせて自分で学んでいけるような力を、知恵をつけていけたらなと思いました。

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日常の中で学び続ける

 
「日常」の中で自分の事実を把握し、
日々、自分で自分に気づき、学んでいけたらな。と思う。
 
らくだメソッドの「1日1枚というプリント」というのは、
まさに僕の「日常」の中にあり、
毎日の自分を映し、認識できるツールであるように思う。
 
けれどここ最近、プリントを通して現れてくる
「事実」に対する自分の実感が、
以前よりも薄れてきているように感じていた。
 
プリントをやった日も、
「プリントをやった」という実感、
プリントをやらなかった日は
「プリントができなかった」という実感が薄い。
 
** ** **
 
「1日1枚のプリント」は半年前も今も、
同じように僕の日常の中にある。
けれど、半年前の「プリントをやった」「プリントをやらなかった」という事実が、自分に与える実感の重みが、
今と半年前とでは少し変わってきているような気もする。
 
「1日1枚のプリント」というものが、
僕の日常に徐々に馴染んできているのかもしれない。
 
だからこそ、その事実による実感の重みが
薄れているのかもしれない。
 
日常の中で、事実を見つめることの難しさが
ここにあるように感じた。
 
** ** **
 
毎週1回、中村教室に足を運ぶことの意味合いを深く感じた。
(毎週1回、中村教室へ足を運び、1週間の記録表のシェアをし、向こう1週間のプリントを持って帰ります。)
 
自分の日常を外へ持ち出す。他者と共有する機会を持つ。
そうすることで、1日1枚という「日常」が、
僕の日常の中に馴染むことなく、埋まることなく、
僕の「日常」に存在してくれるように思う。
 
** ** **
 
日常の中でいかに自分をみつめていくのか?
ということを考えると、らくだのプリント以外にも様々な工夫ができるように思う。
 
SNSがこれだけ発達し、
フェイスブックでも、インスタグラムでもツイッターでも
たくさんの人と繋がれている。
 
そういう環境の中に、
自分の日常を持ちだしてみたい。
そうすることで、自分の日常に埋まってしまう「事実」もとどめることができるのかもしれない。
 
時代はいつも変化している中で、
その時代にあった学び方を、
自分なりに模索しながら進んでいきたいと思った。

歎異抄とらくだの学習

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歎異抄とらくだの学習

 
小5-23,24,25
 
** ** ** 
 
 念仏申し候へども、踊躍歓(ゆやくかん)喜(ぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、
いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、
 親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。
 
そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。と説くのです。
 
** ** **
 
 
小5-23,24,25
 
1枚のプリントの計算量が多くなり、
1枚のプリントで15分〜30分くらいかかるようになり、
プリントをやること自体ができない日があった。
だから、プリントが合格できない日が増えてきた。
 
だけどいつの間にか。できないなりにも続けていると、
「できる」ようになっている。
 
この「できるようになる」というのは、
自分の努力でも、自分の根性でもなんでもなくて、
ただ「できる」ようになってしまっているという感じに近い。
 
自分が自覚している自分の力を超えて、
「できない」から「できる」に移り変わる。
「できない」が「できる」ようになるというのは、
どういうことなのか?と考えると、
自分のはからいではないところの力が働いている。
 
そんなことを思った時に、この歎異抄の第9条の内容が、
このらくだの学習で学んでいることにとっても近いんじゃないか。という気持ちが生まれてきました。
 
** ** **
 
「できない」という中にいること。
その「できない」をごまかさずにいれば、いつか必ず「できている」
 
これは、「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」ということに、とっても近いような気がした。
 
根性も努力もいらないこの学習は、自力で「できる」こと目指す学習ではなくて、「できない」というものを受け入れて、いつも見つめ続ける。すると、自然と「できる」方向へ向かっていく。それは、「他力」ですすむ学習とも言えるのかもしれない。
 
自分の努力や根性のような、自分のはからいを超えたものが、「できる」という方向へと導いてくれる。
だから、自分の思いもしなかったプリントができるようになったり、自分の思いもよらぬ速さで解けるようになる。
 
「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」という言葉は、
「できないからこそ、できるようにしてもらえるのだ。」とでも言えるような。そんな気がした。
 
** ** **
 
・中村教室で吉本隆明さんの本や話に触れていること。
・今年、祖父を亡くしたこと。
(昔から我が家浄土真宗であることは知っていたけれど、改めて知る機会があった)
・おじいちゃんが親鸞好きであること。
 
いろんなことが重なり合って、親鸞という人や歎異抄というものに繋がりました。親鸞とか、歎異抄というものは学生時代に無理やり暗記したものに過ぎないものだったものに、こうして改めて出会い、自分なりに大切だなと思うことを受け取っているということは、なんだか面白いな。と思います。
 
歎異抄が書かれた意義からも分かるように、親鸞という人が考えてきたこと、向き合ってきたことは、とてつもなく大きくて果てしないもので、そう簡単なものではないと思うけれど、この先もずっと読み続けて、深めていきたいと強く思っています。
 
*** *** ***
 
100分で名著で再放送が来月?予定されているようです♩

 

『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

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『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

 

坂本:科学の… あの価値観

 
 福岡:(科学は)再現性
 
坂本:反対ですよね?
何度繰り返しても同じ結果が得られることに信を置くのが科学。
それと反対で(音楽は)一回しか起こらないから良い。一点しかないから良いとかね。
 
坂本:そういうところにアウラがあるという…
ベンヤミンに言わせればアウラという言葉 オーラですけどね。
そこに価値がある。
 
 福岡:そうすると毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとかたくさん同じものがある。
 
坂本:複製技術時代ますますそれが高まっているわけですけどその時に一回性の問題は今、真剣に考える必要のある問題だと思っているんですね。
 
 福岡:印象的な一文があって、今回の「async」を作られた時に「誰にも聴かせたくない、自分だけで聴いていたい」という風に書かれているんですよ。これっていうのはCDに焼いてみんなに共有してもらうというところで同一性というものにとらわれてしまうんで、そうならないままの…一回限りのものとして慈しんでいたいなという感じ?だと思ったんですが。どうですか?
 
坂本:鋭いですねえ。極端に言うと生まれて初めてそう感じたことなので自分でも不思議だなと思っていたし… 終わり方というのはとても大事だと作りながら思っていたんです。
地図がないし、ゴールもないからどこで終わるかもわからないわけですね。だけどその瞬間というのがあるはずなんだよね。一番いい筆を置く瞬間がある。うっかりしていると自分でも気づかないで過ぎてしまう。…で余計なことを足していってしまうっていう。とてもそれを恐れていて今か今かと自分で作りながらもやめる瞬間を察知しながら作っていたというね、ちょっとかわった状態なんですけども。なるほど。それ一回性という問題に大きく関わるのかもしれないですね。う〜ん面白い。
 
 
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 福岡:シグナルとノイズ サウンドとノイズの関係は、科学の世界でも同じような構造というか問題があって、本当は世界はノイズと名付けられる前のノイズだけの空間だった。夜空の星々みたいなものですよね。でも人間の脳はめぼしい点を結んで星座にする。別に星座って平面に張り付いている星の点じゃなくて、全然距離が違う奥深さが違うものを「図形(星座)」としてみているだけだし、それは今そうして見えているだけでその光だって何万光年も前から来ているものなんで、今はもうない光なのかもしれないし、そういったものをある種の図像、秩序として検出する。それがシグナルの抽出。シグナルを取り出すのが科学の営みな訳ですけど、ついついそういうことは忘れてシグナルが本当のものだと思ってしまうわけですけれども、音楽の分野でもそういった考えというか、感じっていうのはありますか?
 
坂本:大いにありますね。音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作っているので、すこし数学に似たところもある。ノイズは排除。ノイズは意味がないもの。地と図で言えば、図の方が意味のあるもの図をいかに美しいものに仕上げていくか、排除されるのは地でありノイズである。そのように何百年も変化、進化というか発達してきたわけですけども、面白いことにちょうど僕が生まれる頃ですかね、20世紀後半に入った頃にアメリカの作曲家のジョン・ケージっていう大変素晴らしい人がですね、もう一回、その地の方に耳を傾けようと。図ばっかり取り出すのではなくて地を見てみよう。ノイズを聴いてみよう。と。多分そういう事だと思うんですが、そういう事に挑戦をした。これは本当に大事な事で、いまだに、あるいはもうますます今、大事だなと僕は感じていて。
 
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◯理屈だけで世界を見ない
 
坂本:我々人間のね、脳の特性としか言いようがないんですけども、どうしても何かの意味ある情報を受け取ろうとする。見ようとする、聴き取ろうとする。病み難くありますね、人間にはね。
 
 
 福岡:星座を取り出すというのは言葉の作用。人間の場合は特に、ロジックというかロゴスの作用ですよね。言葉による、分ける力。文節の力っていうのはすごくて、そのことによって本来、ノイズだらけの世界から星座、シグナルが切り取られていくわけで、あまりにもロゴスの力によって切り取られすぎると、やっぱり本来の自然というものは非常に変形するというか、人工的なものになってしまってもともと物理学のフィジックス、あるいは生理学のphysiologyの最初のphysis フィシスっていうのが、(physisフィシス=自然・ありのまま)本来の自然という意味で、プラトンとかソクラテスが出る前までの、もっと前のヘラクレイトスの時代に、自然というのは混沌としてノイズからできている、けれども豊かなものだというビジョンがあったわけですれど、まあプラトンソクラテスが、イデアみたいなものを言い出して、
 
坂本:まあ、ロゴスの人ですからね。
 
 福岡:そうですね。なんというか、ロゴスの強力さに辟易することがありますよね。
 
坂本:ありますね。ありますね。だからどれほど星座に囲まれているかというのを、意識もできなほど、そういう網の目にとらわれている。
 
 福岡:認識の牢屋ですよ。
 
坂本:そうなんですね。そのことにいつも考えさせられることが多くてですね。一度、思考実験として名詞を使うのをやめてみようと、1日努力したことがあるんです。これはほとんど不可能。生活できないというか、ほとんど話もできないし考えることすら難しい。
 
 福岡:できない。ええ。
 
坂本:でもね、僕はこれ大事なことなんじゃないかと。やりながら。
 
 (2人)名付けない。
 
 福岡:名付けるということは、星座を抽出するっていうことですからね。
 
坂本:まさにそのとおりなんですね。
 
 福岡:シグナルとしてとりだされたものじゃない… その本来のノイズとしてのフィシス(自然)の場所に下りていくためには、客観的な観察者であることを一旦止めて、フィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないと、そのノイズの中に入れない訳ですよね。
 
坂本:はい。まず、自分もノイズだと認識しないといけませんね。だから自分と外に、あるいはその観察対象、自然に何か差があるとかですね、自分がまるで自然の外にいて、観察しているかのような認識の枠組み自体が間違いですね。
 
 福岡:そうなんですよね。
 
坂本:自分自身は木と同じ自然。自然なんです。
 
 福岡:生命体 自然物ですよね。
 
坂本:ところが果たして、どれだけの人がそれに気がついているだろうか。僕らが扱っている楽器もそうです。もちろん。
 
 福岡:そうですね。
 
坂本:この大きな図体のピアノなんていうものは、よく見ると木だし中は…
 
 福岡:鉄だし。
 
坂本:鉄だし。もともとは自然の中にあったものを取り出してきて。図のように取り出してきてですね。
 
 福岡:こう構成した。
 
坂本:加工してですね、音階まで人工的に考えて。本当に人工に人口を重ねたもの。これを僕は元に戻してあげたい。
 
 福岡:なるほど。
 
坂本:という欲望が最近強くてね。それで実はたたいたりしてるんです。こすったり。これはね、元のフィシス側の自然物としてモノが発している音を取り出してあげたい。という気持ちがとっても強いのね。
 
 福岡:今の話で私がふと思ったのは、音楽の起源ということなんですねよね。音楽の起源ってどこにあったとお考えですか。
 
坂本:とても難しい問題ですね。楽器の起源ということを考えると、実は音楽の起源と、楽器の起源は非常に近い。あるいは、もしかしたら同じことなのかもしれませんが。まぁどの時点か分かりませんけども、そこに落っこっていた鹿の骨か何かを乾かしてみてそこで人口的に穴を開けようと。これはもう完全に自然の改変ですよね。穴をここに開けたほうが自分は好きだ。気持ちいい。洞窟に入って吹いてみるとよりいい感じだと。みんなでやってみようか。やりだすということは、まぁ容易に想像できるわけですね。なぜそうするか。
そこがフィシスとロゴスの始まりでもあるのかもしれませんけど。なぜそういう欲動を持つのか。ここがもう僕にはわからないところなんですね。
 
 福岡:もっとも大事な自然物は我々の生命だというのは、音楽の起源とどこか重なっているような気がするんですよね。生物学的には、音楽の起源って、例えば鳥の求愛行動みたいに、鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに、語られることは多いんですけども、私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ。この自然物に囲まれている私たちの中で、絶えず音を発しているものがあるじゃないか。それは、我々の生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって10ヘルツくらいで振動しているしまあその、セックスだって律動があるわけですよね。そういう、生命が生きていく家で絶え間なく音・音楽を発しているわけですよね。ロゴスによって切り取られたこの世界の中では、我々の生命体自身も生きていることを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているということを思い出させる装置として音楽というものが、生み出されたんじゃないかなって思うんですよ。
 
坂本:非常にロマンティックですね。それはね。おもしろい発想ですね。仮にそうだとしても、それなのにやることは、やはりロゴス的なことしかできない。
 
  福岡:そうなんですよね。
 
坂本:そっちの方に持っていってしまう。よりコントローラブルというか、コントロールしやすい
 
 福岡:で、楽譜に書くっていう。
 
坂本:秩序立って。オーガナイズされたものにしていく。正確にやりたいんでコンピューターを使ったりとかっていうふうに。どんどんそっちの方に行く。おもしろい発想です。

 

『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』
NHK Eテレ 6月3日(土)午後10時00分〜 午後11時00分