とりあえず、8月末〜今までを振り返ってみる。
らくだの計算プリントは、8月末から9月中旬までは
全くの手つかずで、9月の後半から徐々にプリントに取り組めるようになってきてはいるが、未だに記録表の空白欄は多い。(10/12時点でプリントに取り組めた日は6日)
畑の作業も、イレギュラーが多く、
毎日毎日何をどうするのか考えて動いている毎日で、
なかなか考えずに1日が流れていくことがない。
そういった今の現状は、引越し前とは全く違った状態である。だからこそ、今を振り返った方がいいなとここまで書いて感じた。
だから、こういう今の状況から、
引越し前の日常を振り返ってみようと思う。
今の日々の生活は、
過ぎていく毎日が日々違うから、
1日の中での変化もあまり分からないのかもしれない。
以前のような、違和感が生まれてこない。という感じがする。
日常を落ち着かせるというのは、
毎日を最低限考えないようにまでしてしまうことなのかもしれない。
毎日、自然と体が動くまでにしてしまうこと。そこまで持っていくことができたら、きっと違和感は自ずと生まれてくるような気がする。
まずは日常を落ち着かせることが何よりも大事なのかもしれない。
その日常があるからこそ、違和感が生まれる。
こうやって引越しを通して、環境の変化を経験して、
これまで自分がただ生活していた毎日、
考えなくても仕事に行き、体を動かして、家に帰り、ご飯を食べて寝る。
振り返ってみると、なんともない毎日なのかもしれないけれど、
そうゆう普通の、ただある日常の支えの中で、
自分が感じてしまう違和感があったのだと思う。
そして、そういう違和感から自分で問いや気づきを生み出してきたように思う。
今は自分が小学生だったころの通学路沿いに住んでいるけれど、
いつもこの道をみて、自分が6年間もこの道を歩いていたことなんて、
思い出そうとしても一部分、ちょっぴりしか思い出せないのだけれど、
きっと、考えずとも1日1日が過ぎ去っていて、
考えないからこそ何か自分が感じて、自分で気づいてきたことがあったのかもしれないと思った。
だから、やっぱしそういう毎日、
自分が意識できないくらい普通で、ただやっていることだけのことを、大事にしていきたいなと思った。
— — — — — —
こうやって書くことをすると、
どんな形であれ結局書けてしまうものですね。
自分で考えて生まれてくるものとは
また違ったものが生まれてくるように感じがします。
それは、この文章でも書いたような
考えて出てくるものではないものが生まれてきている感じです。
結局、書けないといっているときは、
頭で考えて書こうとしていて、頭で考えられないから「書けない」と思っているだけで、書くことをすれば、体から言葉が生まれてくるんですね。
という感覚を、こうやって書くたびに感じるのだけれど、
どうしてこれを忘れてしまうのだろうか。
それもやっぱり書く前に、頭を働かせているからだろうか。
人はすぐ考えてしまう。頭が動いてしまう。