今年の田植えを無事終えることができました。
2018.6.12 言葉におさまりきらない言葉
言葉に収まりきらない言葉
福岡正信91歳「いろは革命歌」抄
い 一番初めに捨てりゃよい 手錠の時計 足かせ金
2018.5.7 鉛筆削り
本当に小さなことなんだけれど、
プリントに取り組む前の「鉛筆削り」はとても重要だと思う。
今、取り組んでいるプリントのめやすの時間は15分
問題を15分も解いていたら1本の鉛筆は、
問題を解くにつれて丸まってくる。
だから、プリントに取り掛かる前に鉛筆をしっかり削ってのぞむことが
とっても重要だということは、きっと幼い子どもでも理解できる。
だけど、毎日プリントに取り組む中で、
この鉛筆を削る作業をせずにプリントに取り組むことも多い。
鉛筆の先は丸まってきて解きにくくなるのにもかかわらず、
鉛筆を削らずに取り組む日があるなんて、我ながら不思議に思う。
逆に、自然と鉛筆を削ろうと体が動く時もある。
1枚のプリントをやるだけなのだけれど、
それに対して毎日違った自分が生まれてくるのは、
このプリントの面白いところだ。
感覚を研ぎ澄ます。というのはこういうことなのかもしれない。
鉛筆に対して重要性を感じていない時は、
鉛筆にまで感覚が行きわたっていない状態なのだろう。
逆に、鉛筆を自然に削るというのは、
鉛筆に対して感覚が働いているのだと思う。
そうやって、1枚のプリントに対して、
どれだけ自分の体が働いて、
体全体でプリントに取り組めているか?
頭でなく、体全体で学べる教材ともいうことができるなと、
鉛筆削りという行為から感じた。
2018.6.2 「なんで計算プリントなんですか?」
「なんで計算プリントなんですか?」
「計算プリントでなくても、日記とか文章とか
そういうものでも、よかったのではないですか?」
という質問を、大学生がしてくれた。
「毎日何かを続ける」というやり方であれば、
らくだメソッドでなくても、いいのかもしれない。
けれど、この「らくだメソッドだからこそ」という点も
もちろんあるように感じている。
それを、「できない体験」という点から考えてみる。
たとえば、毎日文章を書くことや、
毎日掃除をすることを毎日続けた時にも、
「できない体験」は毎日続ける中で必ず体験できるだろう。
文章が書けなかった日、文章が書けても少ししか書けなかった日、
掃除ができなかった日、掃除ができても、少し雑になってしまった日。
こういった、できない体験ができるのかな?と思った。
ただ、この「できない体験」は、
どこまで明確にその「できなかった事実」を自分は自覚できるだろうか。
文章が「うまく書けた」「うまく書けなかった」
この「できる⇄できない」の境界は一体どこにあるのだろうか?
掃除が「きれいにできた」「きれいにできなかった」
この「きれいにできる⇄きれいにできない」の境界は、一体どこにあるのだろうか?
こうやってみていくと、「できない体験」というのは、
意外と曖昧な自分の認識の上に存在していて、
何ができるというのか、
何ができないというのか、が
曖昧なのにもかかわらず、できないことに落ち込み、できることに喜んでいることが多いのかもしれない。
じゃあ、「らくだめそっどだからこそ」のできない体験とはなんだろうか?
大学生に問われて、毎日続けることが
「算数」=「数字」であることでみえてくることがあるのだと思った。
らくだメソッドで、生まれるできない体験は、
「今日はプリントができたか、できないか」
「プリントは目安の“時間”でできたか、できないか」
「ミスは3問以内でできたか、できないか」
時間や、ミスの「数」を基準に自分の「できない体験」つかむことができる。
できる⇄できない の境界も、
めやすの時間や、ミスのめやすを設定することで、
自分の認識としての「基準」ではなく、(認識はいつも変わってしまう)
「数字」としてその基準を設定することができる。
だから、いつも基準はぶれずに、
できる⇄できない の現実=事実をつかむことができる。
「今の自分」がその現実を間違えなく作り出しているのだから、
その事実をつかむことで、「今の自分」をつかむことできる。
ただみてみると、
計算プリントに取り組んだ時間帯、解くまでにかかった時間、ミスの数 だけなのだけれど、自分の事実を「数字」として残すことの意味はとても大きいのだと思う。
自分がこの今の現実を生み出しているのは間違えないことなのだけれど、
その「今」の事実を、正確に見つめることは意外と難しい。
僕たちはいろんな意味づけを、自分自身にもしていて、
自分の都合のいいように自分をとらえている。
逆に、その意味づけで自分を苦しめていることだって多い。
だけれど、その意味づけすら一旦横に置いておいて、
自分の事実をただ見つめてみる。
そうすることで、自分の都合のいい見方、捉え方を超えて、
自分はどうしたいか、はじめて自分自身に問うことができるのだと思う。
この1枚の計算プリントは、
自分の事実をつかみ、そこから自分をみつめ、
自分と向き合うことができるツールとして、
大きな意味を持っているのだとあらためて感じた。
2018.5.25 5月のふりかえり
5月のふりかえり
2018.5.16 充実感を疑う
先週末も実家の静岡に帰った。
畑を正式に借りることができるようになったため、
この3日間は朝からずっと畑に足を運び、
草刈りや、畝立てなど、作付けできる状態に徐々に畑を整備していく作業をした。
やはり朝から外に出て、体を目一杯使うと気持ちがいい。
疲れも溜まるけれど、それ以上に畑をゼロから始めることの楽しさが
自分の中では、充実感として感じられる。
ただここ最近、こうして実家に帰って畑の作業を進められている反面、
らくだの1日1枚のプリントができていない。
そのできない現実をまずきっちり見つめることが
今の僕にとっては一番重要なことなのだと思う。
なぜできないのか。
それはこの「充実感」なのだと思う。
畑の作業が進んで、新しいことにチャレンジする。
これは、本当に充実感を感じられるし、楽しいことだと思う。
ただ、ここで感じられる充実感と、
らくだの計算プリントは全く別のことなのだ。
何かがうまくいっていたり、気分がよければ、
1日1枚のプリントをやらなくていいとか、
やるかやらないかを、あやふやにしていいとか、そんなことは一切ない。
でも、自分の中でうまくいっていたり、
充実感を感じられると、そこに気をとられて、
そこの気分に浸りすぎて、
全く別のことにも影響を及ぼしてしまっていることが
ものすごくあるように思えてきた。
目の前にいつもある1日1枚のプリントは、
たとえ、彼女と喧嘩をして気分が悪くたって、
何か仕事でミスをして、落ち込んでいたって、
そのこととは、全く別のことなのだ。
でも、その別のことに、持ち込んでしまう。
その充実感だって、悲しい気持ちだって、
今、この目の前にあることとはきっと関係がない。
1日1枚のプリントがすっとできるためには、
そういう自分の状態に気づき、観察するしかない。そして、自分と折り合いをつけて、
目の前にある1枚のプリント=今ここに戻るしかない。
そのためには、プリントができない。やりたくない。そういう気持ちを
きっちり受け止めることなのだろう。
そのプリントができない。やりたくない。という気持ちは、
目の前にある1枚のプリント=今ここに、
何か自分が持ち込んだり、飲まれている証拠なのだと思う。
今ここに、畑はないし、今の自分は家にいる。
なのに充実感があるなんて変な話だ。