そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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振り返りのタイミング

べてるの家の上映会が4/14にあり、

昨日(5/8)に振り返りの感想シートと、

振り返りのセッションで使った付箋を参加者の皆さんにPDFにまとめてシェアを行った。


自分としては、上映会からかなり時間が経ってしまい、

参加者に対して申し訳ない気持ちと、

そんな自分の状態に気が重たかった。

 

けれど、実際にシェアしてみると、今まではシェアした際にほとんど反応がなかったけれど、今回はシェアに対しての反応があり、結果としてシェアしてよかったなと思った。

上映会は1日であるけれど、その体験を振り返ることはいつでもできる。
4/14から5/8までの体験があるからこそ、振り返りの中で気づけることがある。

1つの体験が、時間の経過によって、
いくつもの意味合いがうまれてくる。

1つの体験を1度きりのものとせず、大事に振り返ることも大切なことだ。
そういう振り返る機会を、
場を開く人は参加者に対して与えることができれば。と思う。

待つということ 100分de名著 生きがいについて 著:神谷美恵子

「待つ」ということは実は創造的なことなんだ。

「待つ」か「行くか」と迷ったときに、「待つ」はどちらかというと消極的で、「行く」方が積極的、かつ創造的だと思いがちだろう。

 

そうではなくて、待つということが何か新しいものを生み出す

どうしても欠くことのできない営みなんだ。

 

そのときに、自分は今何もしていないとか、

こんな自分だったら、こんな風に生きている意味がないとか、そういうことを思う必要は全くない。

 

「生きがい」は一見見えるようなものの後ろに隠れていることがある。

 

待つというのは思い通り生きることができないことであって、

思い通り生きることができないということと、

あなたの人生の創造性はあまり関係ないのだ。

 

若松英輔さんの解説から)

2018.5.6

心が疲れてしまったり、

体に異変が起こっていても、

それは、自分がまだ未熟だからとか、弱いからとか、

そうやって理由や原因を自分のせいだと決めつけて、

頑張って、努力して、なんとかしようとしてしまうことが、

きっと多くの場所で起きているように思う。

 

でも、べてるの実践では、その真逆のように思う。

 

社会に合わない自分、合わせられない自分を、

無理やり矯正するのではなく、その自分がどうやったら生きていけるのか研究する。

そして、そんな自分が生きていけるような社会をつくろうとする。

 

社会を築く、街をつくるということは、

自分を知ること。自分はどんな人間なのか?そんな自分はどんな社会なら生きていけるのか?

 

個人と社会は切り離さるものではないと思った。

プロセスの中に意味を見出せれば、どんなことでもやってみればいいんだと思う。

プロセスの中に意味を見出せれば、どんなことでもやってみればいいんだと思う。

いつも結果を考えてしまう。それは意味あることなのか。誰かの役に本当に立つのかどうか。
そうやって、結果のことを考える癖ができてしまっている。

けれど、その結果はどうであれ、その結果に向かっていく過程は必ず存在するし、その過程の中に意味を見出すことができれば、結果はどうであれ、必ず意味あることになる。

だから、どんなことでもやってみる。プロセスにこそ意味を感じることができれば、何かを始めたり、取り組むことにそんなに覚悟もいらないと思うし、気を張る必要もないのだと思う。

そうやって、いつもプロセスにこそ意味を感じていたいと思う。すぐそれを忘れてしまうから!

できることと、分かることは違う。

できることと、分かることは違う。

 

野菜を切ること。これはいつもやっていて、

考えずとも、僕にとってはできることだ。

 

けれど、そのできることが「わかっている」と言われると、

「分かっていない」のだと思った。

 

切り方を教えてあげて、と言われても、

どうやって伝えてみれば良いのかわからない。

 

でも、「野菜をきる」という1つの作業の中にも、

うまく切る為には、ポイントがいくつかあるのだということが分かった。

自分が自然的にできていることは、理解していないことの方が多いのだと感じた1日だった。

2018.5.1 一週間のふりかえり

この約一週間、静岡の実家に帰省し、
いろんなタイミングが重なり、話がすすんだ。
変化をものすごく感じた一週間だった。
 
ただ、この一週間らくだのプリントや考現学の更新が途絶えてしまった。
 
帰省をすると、いつもとは寝るところも違うし、
家にいる人も違う。日常会話の内容だって違うし、
普段の生活とは違うことばっかだ。
 
だから、いつもの日常ではなく、非日常的環境になる。
 
そういう環境の中に、らくだの学習の1日1枚のプリントという
日常性がはいっていると、たとえプリントができなくても、
自分の環境が自分に何か影響を与えているということを感じることができる。
 
プリントがなければ、「できない」経験もうまれない。
いつもと環境が違うことによって、
自分が「できない」経験をしていることが
プリントがあるから自覚することができる。
 
環境によって人は変わることができるというけれど、
環境によって、失ってしまう自分だっている。
自分は、自分の気付かぬところで変化してしまう。影響してしまう。
 
それは仕方のないことだし、避けられないことなのだけれど、
こうやって、何か定点を自分の中において、
自分を観察することができれば、
どんな環境に出会ったとしても、
どんな環境に置かれたとして
自分で自分の人生を描くことはできるのかもしれないと感じた。