そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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『「自己肯定感」の「自己」がどこにあるか』

 

らくだのプリントをやらなかった期間を振り返ってみると、

いつの間にか、自己認識が変わっていることに気づいた。

この学習を始める前に、
こうやって長く続けてきたことが、
できなくなったとき、
自分は自分とどう折り合いをつけ、
どういう選択をしていたのだろうか?という問いが浮かんだ。
きっと、僕は「できない」という毎日を過ごす中で、
プリントを続けても意味がないとか、
教材費を払っているのにやらないなら意味がないとか、
そうやって、適切そうな理由を添えて、学習をやめるという選択をしていたのではないか。と想像する。
なぜ、そういう選択になるのか?
それは、自分の認識の仕方(自己認識)によるものが大きいように思う。
できない現実を招く要因は、
自分に備わっている特性や自分の能力によって、
生まれていると思っていたし、
自分の能力を広げる(力をつけること)で、
できない現実が、できる現実に変わっていく。
だからこそ、「できない」を「できる」にするには上昇志向が必要不可欠で、
努力をすること”でしか”、できる現実を創ることができると思っていたように思う。

++ 

この数ヶ月間、僕は全くプリントには手をつけられなかった。
でも、そのできない期間の自己認識は以前とはずいぶん変わっていたように思う。
それは、今、プリントに手をつけられない自分であっても、
いつかできる自分が現れるだろう。と、自分自身が変わるその時までじっと待てるようになった。そんな感覚だ。
このプリント学習を通してできない日をたくさん体験してきた。
そのできない体験の中で、僕の目の前に現れる「できない体験」を招くその要因は、
自分が自分と思っているその枠の外にあり、
自分が自分と思っているその枠の外が変われば、
自然とできなかった体験が、できる体験へと変わる経験をたくさんしてきた。
だからこそ、僕は今の僕の能力や才能、
情熱や使命、そういう僕の内側にあるとされるものに
「できない要因」を紐づけることをしなくなった。
だからといって、できない体験を自分の外的要因のせいにするわけではない。
自分という存在を、自分が自分と思っているその自分の外側も含めて、自分という認識とする。
そういった外的要因まで主体的にアプローチできる存在であり、
そのことによって、自分はまた変容していくことができる。
そういう意味で、自己の捉え方が広がりつつあるように思う。
++
この変化は、自己肯定感が上がったということもできるだろう。
今の僕の能力や才能、
情熱や使命、そういう僕の内側にあるとされるものに
「できない要因」を紐づけることをしなくなった。と書いたように、
目の前に起こる受けいれがたい現実と向き合った時に、
その要因を自分の内に紐付けてしまうことで、
自分自身を否定する恐れもある。
でも自己認識が広がることで、
自分の内と現実に起こる事実との因果関係を断つことも可能だ。
自己肯定感という言葉を多く聞くけれど、
自己肯定感という言葉の“肯定”ばかりにとらわれてはいけない。
この自己肯定感の「自己」の認識範囲が変われば、
肯定しようと自分を褒めたり、
自分のいいところを探したりせずとも、
自然と肯定している自分が現れてくるのだ。

と書きながら、この記事のタイトルを、

『「自己肯定感」の「自己」がどこにあるか』としてみたいと思う。