そのまんまたろうのブログ

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2018.4.7 小学相当のプリントが終了 その② 学習者と指導者の関係について

学習者という立場で、毎日プリントに取り組み、

その中で気づいたり、学んだりしていることが多いのだけれど、

学習者の立場から、指導者とは、どういった存在なのか?ということも

また考えさせられ、学んでいることが多いように感じる。

 

これまで、自分が学習者という立場に立った時、

必ずその向こう側には、先生がいた。

その先生という存在から、何かを教えてもらうという関係性の中で

僕は「学ぶ」ということをしてきたのだけれど、

このらくだメソッドでは、これまでの「学習者」⇄「先生」という関係とは

全く違った関係性があるように感じる。

 

このらくだメソッドは、自分で決めて、自分で学ぶ教材である。

(取り組むプリントも自分で決めるし、採点だって自分でやる)

 

まさにセルフラーニングである。

では、この教材があれば、学習が成立するのか。

と学習者である自分自身に問いかけてみると、そこには疑問が残る。

 

やはり、指導者の存在は、僕の学習に欠かせない存在であるように感じている。

 

「学習者」と「指導者」の間には、

どんな関係性があるのだろうか。

 

その1つをあげるとしたら、

指導者は、学習者の「事実」をただ映し出してくれる存在なのだと思う。

そして、学習者は指導者を通して、その事実を再度確認する機会を得るように思う。そして自分で自分を掴んで、また進んでいく。

 

らくだメソッドでは、「毎日やる」という自分との約束がある。

その自分との約束を、指導者と共有している状況が学習環境の中にある。

(毎週1回、1週間のプリントの記録を指導者に共有をする)

 

この時に、指導者は、プリントの記録に関して何か評価することもなく、

ただ、記録を確認してくれる。

(やっても褒められないし、やらなくても怒られない)

 

それは、そのプリントは指導者との約束ではなく、

学習者自身が自分と約束したことである。

だから学習者は、その指導者との記録の共有の時間に、自分の事実に向き合うことになる。

(自分との約束をどのくらい守れたか、守れなかったか)

 

でも、もしこれが自分ひとりでやっていたとしたら、

おそらく自分との約束を守れなかったとして、

そこに理由や、意味を勝手に付け加えてしまうのだろう。

そうやって、本当の事実を捻じ曲げて、

自分の色眼鏡で、物事を捉えてしまう。

 

でもこうやって、指導者という存在が、

自分との約束を共有してくれると、

(ただその事実に評価や判断をつけず“確認”してくれる存在でい続けてくれる)

自分が自分の事実を、より明確に見つめることができるように思う。

 

だから、より明確に進んでいけるようになるのだろう。

 

大人がなぜ、計算プリントをやっているのか、

これはとっても不思議なのだけれど、

「学習の主体者」になることと、

「学習の指導者(支援者)」になることは、

表と裏のようなものなのだろう。

 

この振り返りを書いていて、大人がこの学習をたくさん始めているということが

少し納得できたような気がした。