学習者という立場で、毎日プリントに取り組み、
その中で気づいたり、学んだりしていることが多いのだけれど、
学習者の立場から、指導者とは、どういった存在なのか?ということも
また考えさせられ、学んでいることが多いように感じる。
これまで、自分が学習者という立場に立った時、
必ずその向こう側には、先生がいた。
その先生という存在から、何かを教えてもらうという関係性の中で
僕は「学ぶ」ということをしてきたのだけれど、
このらくだメソッドでは、これまでの「学習者」⇄「先生」という関係とは
全く違った関係性があるように感じる。
このらくだメソッドは、自分で決めて、自分で学ぶ教材である。
(取り組むプリントも自分で決めるし、採点だって自分でやる)
まさにセルフラーニングである。
では、この教材があれば、学習が成立するのか。
と学習者である自分自身に問いかけてみると、そこには疑問が残る。
やはり、指導者の存在は、僕の学習に欠かせない存在であるように感じている。
「学習者」と「指導者」の間には、
どんな関係性があるのだろうか。
その1つをあげるとしたら、
指導者は、学習者の「事実」をただ映し出してくれる存在なのだと思う。
そして、学習者は指導者を通して、その事実を再度確認する機会を得るように思う。そして自分で自分を掴んで、また進んでいく。
らくだメソッドでは、「毎日やる」という自分との約束がある。
その自分との約束を、指導者と共有している状況が学習環境の中にある。
(毎週1回、1週間のプリントの記録を指導者に共有をする)
この時に、指導者は、プリントの記録に関して何か評価することもなく、
ただ、記録を確認してくれる。
(やっても褒められないし、やらなくても怒られない)
それは、そのプリントは指導者との約束ではなく、
学習者自身が自分と約束したことである。
だから学習者は、その指導者との記録の共有の時間に、自分の事実に向き合うことになる。
(自分との約束をどのくらい守れたか、守れなかったか)
でも、もしこれが自分ひとりでやっていたとしたら、
おそらく自分との約束を守れなかったとして、
そこに理由や、意味を勝手に付け加えてしまうのだろう。
そうやって、本当の事実を捻じ曲げて、
自分の色眼鏡で、物事を捉えてしまう。
でもこうやって、指導者という存在が、
自分との約束を共有してくれると、
(ただその事実に評価や判断をつけず“確認”してくれる存在でい続けてくれる)
自分が自分の事実を、より明確に見つめることができるように思う。
だから、より明確に進んでいけるようになるのだろう。
大人がなぜ、計算プリントをやっているのか、
これはとっても不思議なのだけれど、
「学習の主体者」になることと、
「学習の指導者(支援者)」になることは、
表と裏のようなものなのだろう。
この振り返りを書いていて、大人がこの学習をたくさん始めているということが
少し納得できたような気がした。