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2018.4.4 小学相当のプリントが終了

小学相当のプリントが終了しました。

 
らくだめそっどのプリント学習を
小学1年相当からスタートして、
今日、小学校6年相当の最後のプリント(小6-31)をクリアしました。
 
らくだメソッドの教材は、
 小学1年相当の最初のプリント(小1-0:すうじの練習)から、
小学6年相当の最後のプリント(小6-31:移行)まで、
合計で214種類のプリントで成り立っています。
 
今日は通算 413枚目でのクリアとなりました。
 
この小学相当のプリントを取り組んだ中での、
学んだことを3つあげるとしたらなんだろうか?という問いを元に、
記事を書いてみようと思う。
 
⑴明確にできない事実を見つめることができれば、明確なできる状態に自然と向かっていく。だからできるようになる。
 
できない経験というのは、勉強に限らず生きていれば必ず起こってくるものだと思う。
その「できない」という体験を、自分はどのように捉えていただろうか。と
問われることが学習を通してたくさんある。
 
ほとんど、僕はできない理由をみつけて、
 その現実から目をそむけてきた。
大学の受験勉強でもそうやって勉強してきた。
 
このプリントの学習でも、
毎日やると決めても、プリントができないとき。
約分のプリントが難しすぎて、
時間内に解くことができないとき。
 
この学習をしていれば、「できない」体験にたくさん出くわす。
 
でも、この学習は、“「できない」体験こそ大事”という共通認識が塾全体であるし、
誰かに強制させられて学習を始めたわけでもないし、
誰かと競争して、学習しているわけでもない。
 
だから、誰かと比較することなく、
ただ、できないという体験ができるし、
そこに無理な理由や意味をみつけない状況で学習することができている。
 
きっと、できないという状況に、
ここまで居続けた経験は、初めてかもしれない。
ちなみに、小◯-◯ はクリアするまでに、◯回
チャレンジし、◯日間かかった。
 
でも、このできないという自覚から生まれる自覚は、
「できる」という自覚であったのこともたしかだ。
 
これまで、「できない」という自覚が曖昧であれば、
「できる」という自覚も曖昧になる。
だけれど、プリント学習の中で、プリントが合格できない毎日が続くと、
「できない」という事実がだんだんと体で自覚できるようになってくるし、
実際に、どこで自分がつまづいているのかが明確になってくるときもある。
 
そうやって、「できない」という事実がより明確になっていくと、
「できる」状況も自然と明確になってきて、
自分は自然と「できる」に向かっていくのだ。
 
だから、そこに努力もなければ、根性もなくて、
ただ毎日プリントをやること。
そして、できない事実に直面しても、無理やりできない理由を見つける必要はないのだ。
毎日できないこと体験をする。
そして、そのできない毎日を過ごすことができれば、
「できない」が明確になっていく。そして「できる」も明確になるのだ。
 
「できない」が悪いことだったり、恥ずかしいことだったり、情けないことだったり、弱いことだと思ってしまうようになってしまったのは、いつからなのだろう。
逆に、「できる」が良いことことだったり、誇らしいことだったり、凄いことだったり、強いことだと思ってしまうようになってしまったのは、いつからなのだろう。
 
きっとみんな必ず心の底で「できるようになりたい」と思っているから。
その想いは、「できない」という事実によって、溢れ出るものだと思う。
だから、自分の、そして目の前の人のできない体験を、
そっと大事に、大切に、見守れる人でいたいと思う。