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加藤哲夫さんの遺した文書から考える会

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今日は、静岡駅から歩いて10分くらいのところにある、
Basecamp3776という場所で、加藤哲夫さんの遺した文書から考える会に
参加させていただきました。

参加者10人ほどで、加藤さんの「ネットワーキング宣言」という文書をよみました。
(今回は第3回目の読書会で、ネットワーキング宣言8〜12を読みました)

以下、参加してのふり返り。


・言葉も成熟していく
今日のシェアの中で何度もでてきた言葉が「つながり」という言葉だ。
この言葉が、最近は様々な場所で使われるようになってきたという。そして、その「つながり」という言葉のもつ印象や意味も、人によって、場所によってかなり違ってきているという話がでた。だからこそ、その人がその言葉を、どんな認識で、どんな意味で使っているのかを注意していく必要があるという話もあった。

言葉も成熟されていくのだろう。言葉も人と同じように、最初の言葉から変化していく。
だからこそ、人と関わるときと同じように、いま使われているその「言葉」が表現していることは、その言葉のもつ「一面」でしかないということを忘れてはいけないのだと思った。


・「わからない」からはじまる「ネットワーキング」
加藤さんが言っている、「ネットワーキング」とはどんなことなのだろうか?という意見交換があった。そのときに、ネットワーキングは「あなたのことがわからない」からはじまるものなのだと感じた。

それは、「あなたのことがわからない」=「あなたのことが知りたい。分かりたい。」とも言い換えることができる。ネットワーキングとは、そのプロセス自体のことなのかもしれないとおもった。僕たちが「あなたのことをわかった」となってしまったら、つながりはそこで終わってしまう。僕たちはわからないから、わかろうとする。わかりあいたいと願う。

その過程がネットワーキングであるように感じた。


・加藤哲夫さんは、「他者の中に自分をみていた」
加藤さんは「他者の中に自分をみていた」という言葉がとても印象に残った。市民活動ということが一体どういうことなのか。僕は正直、市民活動という言葉をこれまで全く使ってこなかった。(それだけ考えていなかったとも言える。)

だけれど、市民活動の草分け的存在の加藤さんが、この言葉を残していることがとても気になった。

僕が加藤さんの存在を知ったのは、僕が学んでいる「らくだメソッド」の開発者である平井雷太さんの通信に加藤さんがコラムを書かれていたからだ。

平井さんの研究してきた「セルフラーニング」は、自発性や主体性と大きく関わるようにおもう。市民活動こそ、この自発性や主体性が大きなテーマなのだとおもう。
今の僕は、「市民としての自分」にある課題やテーマを自分ごととして、考えることができていないことばかりである。

それは、他者(「市民としての自分」にある課題やテーマ)の中に自分を見れていないからとも言える。

自分に関係ないと思っていたり、そんなに大事じゃないと思っていたりする。

だけれど、そこに「自分」をみることができれば、僕は自分から動き始めるかもしれない。

「他者の中に自分をみることができれば」それはもう自分ごとだ。そこからセルフラーニングははじまる。どんな社会の課題やテーマだって、その中に自分をみることができれば、そこからセルフラーニングははじまる。

だからこそ、加藤さんが「他者の中に自分を見ていた」というこの言葉から、加藤さんはどのように世界をみてきたのか?そしてどうやって世界を見てきたのか?を学んでいくことは、とても価値あることなのだと感じた。


地元の静岡で、こういった場に早速参加できたことは、
とてもありがたいことのように感じています。
参加された皆さん、おつかれさまでした。