そのまんまたろうのブログ

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2018.3.20 何かを書こうとしても、なかなかうまく書けない。

何かを書こうとしても、なかなかうまく書けない。

その「うまく書けない」のうまくは、

何を基準に「うまく」と言っているのかわからない。

 

それなのに僕は、「うまく書けない」と思って、

書いては消して、書いては消している。

 

考現学というのはきっと、そういう今の状態を観察していくものなのだろう。

何かメッセージを発信するわけでもなく、

何か気づいたこと、をうまくまとめることでもなく、

ただ自分の状況を観察していく。

 

この文章も、“何かを書こうとしても、なかなかうまく書けない。”という、

今の自分の現状を書き始めたところから、

自然発生的に言葉が生まれてきている。

 

これは、おもしろい。

 

「書く」といってもこの考現学は、かなり一般的な(僕たちが学校や仕事で行う書く)とは、全然違った「書く」ことなのだろ思う。

 

それは、書き始めの時に「終わり」が見えていないことなのかもしれない。

 

これまで僕がしてきた「書く」というのは、

始まり・終わりが決まっていて、その過程をどのようにつないでいくのか、

どうやってうまく終わりを見せようか。と考えながら「書く」ものであったのだれど、

考現学」というのは、書く「はじめ」も「終わり」特に決まってなくて、

常にLIVEだ。

 

自分が書きながらどこにいくのかわからない。

けれど、書いている中で自分の中で気づき、発見し、

各方向は自ずと見つかってくる。

そして、書き終わりも見えてくるのだ。

 

こうやって書いてみると、書き始めにいっていた、「うまく書けない」という自分の気持ちはおそらく、「はじまり決まっており、終わりが決まっていること」を書こうとしているから生まれてくる言葉である。

書いている中で、気づき、発見していけば、

書き始めにうまく書けないなんて悩むことはないのだから。

 

だから、「うまく書けない」という気持ちは、

「はじめと終わりが決まっていること」を書こうとしているから生まれる気持ちであって、「書いていく中で気づいて発見していく」という書き方をすれば、

生まれない感情なのだと思う。

 

書けないということはなくて、

まず書いてみて、書いてく中で書きたいことが見つかってくるのだ。

 

それは、話をただ聞いてもらったときに、

「自分の口からこんな言葉が出てくるんだ」とか、

「自分って、こんなこと思っていたんだ」と発見できる瞬間に

近いもののような気もした。