そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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なんのために勉強しますか?

なんのために勉強しますか?

 

子どもたちが、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するのかわからない。と言って、

なかなか勉強に気持ちが向かない状況は多くあるように思う。

 

その時に、なんて答えればいいのだろうか?という話になった。

 

その答えは色々あると思うけれど、

今の僕にとって自分自身が納得いく言葉をここに残しておこうと思う。

 

「意味」というのは、

いくらでも見出せるものなのだと思う。

 

それは勉強だけでなく、
すべてのことにおいていえる。

たとえば「食べる」ということでも。

 

生きていくために食べる。

美味しいから食べる。

食べたいから食べる。

楽しい時間を誰かと分かち合うために食べる。

野菜を作る生産者を応援したいから食べる。

健康でいたいから食べる。

 

食べるということでも、何百もの意味を見出せるのだと思う。

意味というものは、そういうものなのだと思う。

 

だから、勉強する意味だって、何百もの意味が存在するのだと思う。

 

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じゃぁ、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するかわからない。と言う子どもにどのように対応すればいいのだろうか?

 

たとえばゲームが大好きな子どもがいるとする。

その子に「なんのためにゲームをやるの?」と聞いたとする。

それは、「楽しいから」とか、「夢中になってできるから」と答えるだろう。

もしかしたら、「意味なんてないよ」と答えるかもしれない。

 

そもそも、「ゲームをする」という行為をする前に、

子どもたちは、ゲームをすることの意味を考えたりはしないだろう。

 

「ゲームをすること」は、「なんのために」という意味とは切り離されているのだと思う。

 

きっと「勉強をすること」も、この「ゲームをすること」と同じなのだと思う。
意味は後から生まれてくることだってある。

 

だから、勉強する意味を子どもにどのように答えられるか?という視点よりも、

どうして、「勉強する意味」を子どもは考えてしまうのだろうか?

その「意味」を求める背景には、何が隠されているのだろうか?という視点で、

子どもと向き合うことが大切なのかもしれないと思った。

 

振り返ってみると、僕がスクールで子どもたちと関わっていて、

「なんで勉強するの?」という言葉に出会う時、

それは、その子が本当に苦手な教科をやっている時であったり、
なかなか集中できていないときなのだと思う。

きっと、その言葉の背景には、その子なりの行きづまりがあるのだと思う。

 

そういう視点で子どもの言葉を受けとってみると、

自分が子どもに対してどのように関わったほうがいいのか、関われるのか。ということがすこし見えてきたりする。

 

「なんのために勉強しますか?」という言葉の字のままに、その答えを探すのではなく、

その問いが、その子からどうして生まれてくるのだろうか?

という視点こそ、もしかしたら大切なのかもしれない。と思った。