そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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「普通がいい」という病 はじめに より一部引用

 


 私はこの問題を社会的な問題として考えたいのではありません。社会制度上の問題をいくら解決したとしても、個々の人間に浸透してしまっている基本的価値観のろころが変わらない限り、モグラ叩きのように、問題は別のところから形を変えて噴出してくるだろうと思うからです。

 今、私たちが取り組まなければならないのは、人間という生き物の根本的な特性を深く理解し、その上で「自分を感じ、自分で考える」という基本に支えられた生き方を回復することです。

(「普通がいい」という病 はじめに より一部引用)

どこから「問い」がうまれるか

◯どこから「問い」がうまれるか

 

子どもの学習に関わる機会ができて、

あらためてこの「らくだメソッド」という教材を見直す機会ができている。

そのため、毎月の振り返りの内容も、

らくだメソッドという教材自体を見直す内容が多くなってきている。

 

最近は子どもたちとも打ち解けてきて、

少しずつ子どもに問いかける機会ができてきている。

 

その中で、「問い」がどこから生まれるか?ということが

子どもたちとの対話につなげるために重要だなとあらためて感じる。

 

らくだメソッドの場合、指導者から子どもへの「問い」はどこからうまれるだろう?と考えると、

やはり「記録表」から生まれてくるイメージができる。

 

記録表をみて、

「最近どう?」

「今日はどこやるの?」→「本当にそこでいいの?」→「進んでもいいんだよ!?」とか

「今日は何枚やるの?」→「もう1枚やってみれば?」とか

「今日は何枚持って帰るの?」→「そんなに無理して大丈夫?」とか

 

「記録表」という1つのツールから、(僕の想像でも)「問い」がここまで生まれてくる。

 

情報が子どもと指導者の間で、きちんと共有できているからこそ、「問い」が生まれてくる。

この「問い」は、記録表というツールのシンプルさ(なんの情報を残すか)と、

学習をしたら記入するという「ルール」があるからこそ生まれた「問い」である。

 

 

この「情報の共有」と、「情報を積み重ねる・残す」というルールがない場合、どうだろうか。

最近はどこをやっているの?とか、

どこがわからないの?とか、

まずは、情報確認のための「問い」からスタートせざるおえない。

対話というよりも、情報交換になる。しかもその情報というのも、お互い曖昧な情報交換の可能性が高い。

 

だからこそ、「問い」の「元」を子どもと指導者の間でつくる必要性がある。

記録表はまさにその「問い」の「元」なのだと感じる。

 

--- --- ---

 

多くのこどもは「できない」ということを避けたがる。

こどもだけでなく大人だってそうだ。

 

でも、どこができていないか分からなければ、

子どもだって指導者だって「できる」方向へは進んでいけない。

だから指導者は、こどもの「できない」を聞こうと問いかける。

 

でも、「できない」ということを受け入れられない場合、

「できない」という情報を聞かれることこそ、苦痛なのだと思う。

そういう苦痛から、嘘をついたり(できてないのにできるといったり)、

学習自体を放棄する(勉強の意味がわからないとか、なんのために勉強するのかわからないとか)ことだってありえる。

 

でも、記録表があれば、「できない」は自分で伝えなくても、聞き出されなくても記録表が伝えてくれる。

これだけでも、大きな違いなのだと思う。

(できない事実 が嫌というよりも、できない事実 を共有することにハードルがある場合があると思う)

 

子どもにとっても、指導者にとっても、

どんな情報を、どのようなやり方で残していくか、共有していくのか?というのは

とても大事な視点なのだと感じています。

 

らくだメソッドではないけれど、今ある環境の中でじゃぁどうやってその視点を生かせるのか?改善できるのか?ということは今後の課題になっていくように思います。

 

11月の振り返り その1

11月の振り返り その1

 

11月の1週目は体調を崩し、発熱し寝込んだ。

 

季節の変わり目と、この時期はいつも花粉症気味で体調を崩しやすい。

 

ただ、体調を崩してから少しずつペースが戻ってきた感じがする。

 

プリントをやっていると、「流れ」がある。

プリントがすっと取り組める「流れ」にのれば、

プリントをやることがそこまで苦でなく、

自然とできる期間がある。

 

逆に、プリントに取り組めなくなると、

その「流れ」にはまってしまう。

そんな自分に気づいていても、まだまだその流れにうまく対処できない。

 

ただこうやって、体が崩れてしまえば、その流れを断ち切れるような感覚がある。

 

頭で考えても、なかなかその流れは断ち切れない。

 

ただ、自分の体から変えていくこと、

体にアプローチしていくことは、1つのヒントになるように感じた。

 

さすがに発熱してしまうと、

いろいろなことがストップしてしまうし、

迷惑かけることも多いので、

自分なりの体との付き合い方も、

もっともっと試行錯誤しながら実験していけたらいいなと思う。

 

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◯どこから「問い」がうまれるか

 

子どもの学習に関わる機会ができて、

あらためてこの「らくだメソッド」という教材を見直す機会ができている。

そのため、毎月の振り返りの内容も、

らくだメソッドという教材自体を見直す内容が多くなってきている。

 

最近は子どもたちとも打ち解けてきて、

少しずつ子どもに問いかける機会ができてきている。

 

その中で、「問い」がどこから生まれるか?ということが

子どもたちとの対話につなげるために重要だなとあらためて感じる。

 

らくだメソッドの場合、指導者から子どもへの「問い」はどこからうまれるだろう?と考えると、

やはり「記録表」から生まれてくるイメージができる。

 

記録表をみて、

「最近どう?」

「今日はどこやるの?」→「本当にそこでいいの?」→「進んでもいいんだよ!?」とか

「今日は何枚やるの?」→「もう1枚やってみれば?」とか

「今日は何枚持って帰るの?」→「そんなに無理して大丈夫?」とか

 

「記録表」という1つのツールから、(僕の想像でも)「問い」がここまで生まれてくる。

 

情報が子どもと指導者の間で、きちんと共有できているからこそ、「問い」が生まれてくる。

この「問い」は、記録表というツールのシンプルさ(なんの情報を残すか)と、

学習をしたら記入するという「ルール」があるからこそ生まれた「問い」である。

 

 

この「情報の共有」と、「情報を積み重ねる・残す」というルールがない場合、どうだろうか。

最近はどこをやっているの?とか、

どこがわからないの?とか、

まずは、情報確認のための「問い」からスタートせざるおえない。

対話というよりも、情報交換になる。しかもその情報というのも、お互い曖昧な情報交換の可能性が高い。

 

だからこそ、「問い」の「元」を子どもと指導者の間でつくる必要性がある。

記録表はまさにその「問い」の「元」なのだと感じる。

 

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多くのこどもは「できない」ということを避けたがる。

こどもだけでなく大人だってそうだ。

 

でも、どこができていないか分からなければ、

子どもだって指導者だって「できる」方向へは進んでいけない。

だから指導者は、こどもの「できない」を聞こうと問いかける。

 

でも、「できない」ということを受け入れられない場合、

「できない」という情報を聞かれることこそ、苦痛なのだと思う。

そういう苦痛から、嘘をついたり(できてないのにできるといったり)、

学習自体を放棄する(勉強の意味がわからないとか、なんのために勉強するのかわからないとか)ことだってありえる。

 

でも、記録表があれば、「できない」は自分で伝えなくても、聞き出されなくても記録表が伝えてくれる。

これだけでも、大きな違いなのだと思う。

(できない事実 が嫌というよりも、できない事実 を共有することにハードルがある場合があると思う)

 

子どもにとっても、指導者にとっても、

どんな情報を、どのようなやり方で残していくか、共有していくのか?というのは

とても大事な視点なのだと感じています。

 

らくだメソッドではないけれど、今ある環境の中でじゃぁどうやってその視点を生かせるのか?改善できるのか?ということは今後の課題になっていくように思います。

 

できること・できないこと

できること・できないこと。

自分が じぶんは できる と思っていることがある。

自分が じぶんには できない と思っていることもまたある。

そして、

自分が じぶんには できない と思っていることでも、

他者には できる とみえていることがある。

そして実際に できる ということがある。


自分が できない と思っていても、

そうやって できる ことがある。

自分にはみえていない できる自分 がいることに気づく。

だからこそ、他者との関わり・つながりの中に身をおいたほうがいい。

自分にできることはなんだろう?と自分でじぶんを見つめても、

結局は 自分 という枠を超えて じぶん をみることはできないのだ。

 

自分の可能性、自分の できること を増やしてくれる、

見つけてくれる存在は、自分以外の存在にある。

 

だからこそ、


自分のやりたいこと


自分が じぶんはできる と思っていることにとらわれず、

 

誰かに頼まれたこと、

誰かに勧められたことに

乗っかってみることも、大事なんじゃないかな。

自分に合った学習環境・学習スタイルに出会う

今、僕がスタッフとして関わっているフリースクールには
小学生から高校生までの子たちが来ている。

その中の高校生は、通信の高校に通いながらフリースクールに通っている子たちがいる。

通信の高校に通う子にこれまで関わることがなかったのだけれど、
その子たちと話す中で、自分の高校時代を振り返る機会になる。

そして

自分から課題に取り組める子、
勉強したくないという子、
勉強する意味がわからないという子、
いろんな子がいる中で、

セルフラーニングとはなんだろうか?
学びを自分のものにするってどうゆうことなのだろうか?と問う機会になる。

通信制度は、レポート(問題を解く)をある決まった枚数を郵送することで、テストを受けられる権利を得られる。そしてテストを受験し、合格すれば単位が取れる。
そのほかにもスクーリングといって決められた回数は学校へ足を運び授業を受けなければならない。

かなり簡単な説明ではあるけれど、
このようなルールがあるため、
自分で学習進度を計画し、自分で進めていかなくてはならない。

フリースクールに通う高校生は、
教室にくると自分の学習にスッと取り掛かる。

自分の進度を把握して、自分のやるべきレポートにただ取り組む。その姿が、とても落ち着いていて、何か力が入っているわけでもなく、それが自然で、僕はいつも感心する。

(僕はらくだのプリントにスッと取り組めない自分がいるからこそ、ここに感心してしまうのかもしれない。)

彼らの学習は、自分の高校時代の学習とは全く違った学習環境の中で、全く違った姿勢があるように感じる。

僕は毎日学校に行って、授業を受けて、テストを受けて、
そうすれば必ず 卒業 はできたし、
勉強するときは、テスト前にガツガツ勉強したし、
受験勉強だって、どこか負けたくないとか、落ちたくないとか、
力がどこかに入っていたような、そんな気がする。

でも彼らの学習に向かう姿勢に、変な力というのがなくて、
すごくリラックスできているなと感じることが多い。

彼らは自分で決められたことをやれなければ、
卒業も簡単にはできない。

僕からすると、ものすごくハードルが高くて、
レベルが高くて、大変そうだなと思う。

ただ彼らに話を聞くと、確かに大変ではあるけれど、
自分にはこの通信という学習スタイルが合っていると思って
この学校を選んだという。

それを自分で決めたのだという実感を彼らから感じる。
そして、その自分に合っているという実感と、
自分で選んだという実感が、彼らの学習の姿から感じる
力のこもっていない、リラックスした姿につながっているように感じた。

だからこそ、自分に合った学習環境に出会うことや、
自分で決めるという経験が、
学習を自分のものとすることにはとても大事だなと改めておもう。

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でも、「決める」までの過程を聞くと、
それはみんなやっぱり苦労している。

大変なことが山ほどあったのだろうと推測できる。

そしてその苦労の中で、
彼らは自分に合った学習環境・スタイルに出会っている。

自分に合ったものに出会うには、
そして自分で決めるには、
今の自分の苦労の中からしか生まれないのかもしれない。

その今、目の前にある苦労から始まるのだ。

誰にだって、苦労はある。
悩みもある。課題もある。
嫌なことだって、逃げたいことだってある。

そういう子たちを前にして、
そんなこと気にせず勉強しろ。とは言えない。

きっと今抱えているものをごまかさず、
そこと向き合うこと、
無理やり解決させてあげないことが大切なのだと思う。

本当に、自分に何ができるのか?と問い続けながら、
子どもたちと関わりたいと感じる。

10月のふり返り その2

10月のふり返り その2

 

10月も今週でおわり、あっという間に11月に突入。

今年も残り後わずかとなってきた。

 

ここ数カ月は、プリントができないという記事ばかりになってしまっている。

仕事や畑や結婚パーティーの準備など、

少しいっぱいいっぱいになっていて、余裕はまったくない。

 

 

だからプリントができないという理由にはならないと思うのだけれど、

プリントができていない自分がいるということは事実である。

 

逆に以前は、プリントができていたこともあったことも事実である。

 

 

この状況が変われば、プリントができるようになるのだろうか?

仕事量が減ったり、農閑期にはいったり、結婚パーティーが終われば、

プリントができるようになるのだろうか。

 

今より忙しくなることは、来春まではおそらくないような気もするし、

もしかしたら、プリントはできるようになるのかもしれない。

 

でも、それでいいのだろうか?と思う。

 

忙しいからできない。

忙しくなくなったらプリントができる状態に戻る。

 

これは、「プリントをやる」ということが目的になってしまっているのではないだろうか。

 

今の僕が、自分のできない体験を大事にするというのは、

この状況下でも、プリントができる自分にどうしたらなれるのか?と問うことなんじゃないか。

 

 

忙しくなくなったらプリントができる状態に戻る。というのは、

すでに自分の「できる」ところに戻ることなのだろう。

 

だからこそ、僕は今のこの状況下でプリントともう一度向き合わなければと思う。

 

どんな状況下でもプリントができる自分になることは、

どんな状況にも応じることができる自分になることなのだと思う。

つまり、今の僕は、応じることができていないのだけれど、

そんな自分になれる機会が今ここにあるのだとも思う。

 

あと1カ月もすると、いろいろなことが落ち着いてくるように思う。

そうすると、自然とプリントができる自分に戻っていくのかもれない。(戻らないかもしれない)

ただ、この状況はあと1カ月くらいしかない。

 

せっかくのこの期間・そのなかで体験できる機会を大事にしたい。と思った。

 

 

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僕は家でプリントに取り組む。

だから奥さんも、僕がプリントに取り組んでいる姿を目にすることは多いと思う。

 

プリントができていない自分の状況は、

簡単に言ってしまえば、余裕がない状況といえる。

 

家でプリントに取り組む余裕がないのだから、

家で、奥さんの話を聴くという余裕もなくなる。

 

奥さんの話を聴く余裕がなくなったら、どうなるだろうか。(笑)

 

聴く余裕がない自分を自覚しても、

聴こうと思って聴けるようになるほど、簡単なことではない。

 

そんな時、らくだのプリントに還ってみる。

 

らくだのプリントができる状態へと自分を整えていく。

そうすると、余裕が生まれてくる。

 

そして、奥さんの話も聴けるようになってくる。(笑)

 

これは、僕と奥さんだけの話に限らず、

親と子の関係の中でも、いえる話かもしれないと思った。

 

らくだの教材が、子どもだけでなく、

親の学習にもつながってくる、家庭にもつながってくる感覚を、

今この自分の体験で、ちょぴりと垣間見えた。

10月の振り返り

あっという間に10月の半分が過ぎてしまった。

10月8日に9月の振りかえりをしたばかりなので、

9月のふりかえり - そのまんまたろうのブログ


10月の前半は9月の流れのままきてしまった感じがする。

9月の流れはらくだのプリントを全然やらず、
目の前にあることにとにかくひたすらやってしまった。
振りかえりの記事を書いたことで、
すこしその流れにはまってしまっていることを自覚したような気がした。

ただそのあともプリントになかなか向き合うことできなかった。

今日はようやくプリントができた。ここからまたもう一度立て直していきたい。

*** * *** * *** * *** * ***

先日のブログの記事に塾生さんからコメントをいただいた。
いつもその塾生さんは、プリントの返送時に振りかえりの記事をアップしてくれるので、僕はそのアップ記事を見るたびに、振りかえりを書いていない自分を自覚していることに気づいた。

そうやってできない自覚が生まれるからこそ、
「書く」と決めたことが「できる」につながっていく。
できない自覚というのは、そうやって他者の存在やプリントなど、自分以外の何かを媒体にして自覚できることなのだろう。

僕はずっとサッカーをやっていたけれど、サッカーでもそうだった。
自分よりも上手い奴をみて、自分がまだできていないこと、
自分がうまくできていないことを実感して、もっと練習する。
そして上達していたように思う。

そんなことに気づいて、
自分が同じ学習ツールを共有できているつながりの中にいることはありがたいことなのだと感じた。

自分以外の誰かの存在によって、
自分の現実がみえてきたり、
自分の現状を自覚することができる。

だから、自分とうまく付き合っていく、
自分を自分でつかんでいくには、やっぱり他者の存在は欠かせない。

そういう人とのつながりを
自分で作っていく、デザインしていくこともまた大切なことなのだと思う。