そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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朝起きて、朝食を済ませて、僕はまず何に取り組むのだろうか。

朝起きて、朝食を済ませて、まず何に取り組むか。

仕事に取り掛かるのか、それともプリントに取り掛かるのか、
それともフェイスブックをなんとなく開くのか、、

その選択肢の中で、どれを選ぶかで、その時の自分の状態を
なんとなく把握することができる。

計算プリントをはたしてやりたいのか?と問われたら、
そんなにやりたいとは思わない。

でも、やりたいことだけやっていることが、
自分にとって大切なことなのか?と問われると、
それはなんとなく違うように思う。

やりたいことだけやっていたら、
やりたいことの中でしか、自分を生きることはできない。

やりたくないことでも、
めんどくさいと思うことでも、
意味を感じられないことでも、
目的のないことでも、
すっと身体が動いて、体験できる自分でいることが、
僕にとっては大切なことのように感じる。

だから、1日のはじまりに、プリントに取り組める自分でいることは、
きっとプリントの学習という範囲を超えて、
僕の人生にとって大きな意味を持つことなのだと思う。

朝の何気ない選択に意識的になることは、
その1日の自分の状態をつかむことになる。
そして1日の自分の状態を掴んで、
どういう自分として1日をスタートさせたいのか決めることができる。

自分の状態を把握することができれば、
1日1日を自分で選択して進んでいけるように思う。




朝プリントに取り組めるようになった。

1日1枚のプリントに取り組む。と決めていると、
1日の中でプリントをいつやるのか、という自分と向き合うことになる。

僕はこれまで2年2ヶ月間、学習を続けてきて、
ずっと朝にプリントができたらいいのに。と思っていた。
けれど、ずっと朝プリントに取り組むことができずにいた。

だけど、この2週間は毎朝プリントに取り組むことができている。

自然と朝、プリントに取り組めるようになった。

あまり頑張ろうと思わずに、朝やろうと意気込むこともなく、朝できるようになった。
これまであんなに「できたらいいのに。」と思っていたのに、できなくて、
あまりそう思っていない時に、できるようになったことが面白い。

今、「朝できたらいいのに」と思っていた自分を振り返ってみると、
「朝できたらいいのに」と思っていた自分は、
実は本当にはそれを求めていなかったのかもしれない。
というよりも、「朝にプリントに取り組むこと」が、
自分にとって必要なことではなかったのかもしれない。
(ここまで書いて、過去の自分は、「朝にプリントができること」がいいことだと思っていたことに気づいた。)

「朝にプリントに取り組むこと」はきっと今の自分にとって、必要なことなのだと思う。
この2週間くらいは、自分自身が次のステップにいく時期なのだろうと感じている。
また何かを決めて、また進んでいく時期なのだと。

そういう現れが、このプリントにも大きく出ているように思う。

毎日毎日プリントをやっていれば、
そのプリントを通して生まれてくる自分は、もちろん違う。
毎日の変化に気づかなくても、
今の自分のように、あるタイミングでプリント自体が変化してくる。
それは確実に自分の変化なのだと思う。

プリントに取り組む前、取り組むとき、取り組んだ後、
ただの1枚のプリントなのだけれど、毎日毎日そのプリントを通して自分が見える。

そういう意味で、このプリントの学習は僕にとって自分を見つめる、
自分に気づくツールに確実になってきているように感じた。

宿題を終わらせてサッカーにいく。

今週から、らくだのプリントに朝から取り組めている。
今まで学習を続けてきて、朝できたらいいな。と思っていたけれど、
結局できずに夜やる流れができていた。

夜、できてしまっていたから朝やらなかったのだと思う。
だけれど、ここ数ヶ月、思うようにプリントができずにいたこともあって、
自分なりに、毎日できていないという事実に対しての
できない実感がより生まれているような気がする。

ちょっとできない自分に落胆というか、情けなさを感じていたのだけれど。

だからなのか分からないけど、
朝やろうと意気込んでいないけれど、朝できている。
できるように頑張ろうと努力するのではなくて、
できないという実感、できない自分に絶望したほうが、
できる方向へ向かっていくような気がする。

まだ一週間だし、今週はずっとひとりだったこともあって、時間の所有感もまたいつもと違う感じがしている。

引き続き、自分を観察していきたい。

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朝にプリントができると、1日の流れ方が違う。
やることやって、1日を過ごせている。という感じだ。

その感覚を振り返ってみると、僕は小さいころ片道30分ほどかけて、
サッカーの練習にほぼ毎日通っていた。
両親が送り迎えをしてくれたこともあった。

その時のルールは、必ず宿題を終わらせてあること。
これが我が家のルールだった。
宿題を済ませていなければ、サッカーにはいけなくて、
自然と宿題を済ませていた自分を思い出した。当時の自分はすごいと思う。笑

そういうルール決めは、僕が心地よくサッカーができたことにつながっていたのかもしれないと思う。
両親との関係がうまくいっていなければ、
もしかしたら送り迎えをしてくれなかったかもしれないし、
サッカーにとことん打ちこめていなかったかもしれない。

そうやって思うと、宿題を済ませてからサッカーにいくという我が家のルールは、
なかなかいいルールだったように思った。

 

久しぶりに外に出てみて思うこと。

久しぶりに外に出てみて思うこと。

 
昨日は静岡に帰省して初めて全く知らない場にいってみた。
イベントの概要はチラシに書いてあることしか知らず、
講師の方の経歴も全く知らない中での参加だった。
 
自宅から下道で1時間20分ほどかかるし、
そこまで行く必要があるのか正直わからなかったけれど、
天気も良かったし、予定もちょうど空いたので参加してみた。
 
今、そのときの自分を振り返ってみると、
そういう場に足を運ぶ前に、
自分の目的や、学びたいこと、聞きたいことを先に自分の中で設定して、それに対して行く必要があるのか、それとも行く必要がないのか。と判断をしている自分がここ最近いたように思う。
 
だけれど、あまりそういうことを考えずに、今回はとりあえず行ってみた。
そうさせたのは、静岡でも人との繋がりをつくっていきたいと思っている自分がいたり、蒲原にもどってきて、地域の中でどう自分として活動していこうか考える中で、いろんな問いが浮かんでいるということもあると思うけれど。
 
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イベントの講師の方のお話しも面白かったし、
なによりそこに参加されている方々とお話できて繋がれて、
行く前には想像していなかった1日になった。
 
姉の同級生が、そのイベントのコーディネーターだったり、
牧之原で自宅を学び場として開いている方のご自宅での懇親会にも連れて行ってもらえた。
 
そうやって、実際に体験しないければ分からないことの方がほとんどで、
行く前の自分では決して想像できなかったことが、実際にリアルの場に足を踏み入れれば起きてくる。
そういう体験の積み重ねを大切にしていきたいと思った。というよりも、そういう体験がより必要な時期なのだと思った。
 
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名古屋では、貴重な繋がりがたくさんできた。
それは、自分がつくろうと思ってつくったものでもなくて、
自分が大学生のときから、何もわからず、とりあえずいろんな場所に足を運んで、分からないなりにも、いろんな人の話をきたり、いろんな人と話したりする中で自然とつくられた繋がりなのだと思う。
 
大学生のときは、本当に何も考えていないところからのスタートだったし、「とりあえず行ってみよう」の連続だった。
だけど、この1・2年は、そういった参加の仕方がなかったように思う。
 
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きっと今の僕の状況は、大学生のときの自分に似ている。
だから、あまり考えずに、いろんなところに足を運んでみることからスタートしてみようかなという気持ちになった1日だった。
 

プリントに取り組むときは、ひとりになれる。

1週間、自宅を離れていました。
その間は、プリントが全くできませんでした。

 

もう何度も、こういう体験をしているから、
こういう状況のできないことに対して慣れてきているような自分がいる。

そういう状況を、こうやって書くことで振り返る。

頭の中で振り返るよりも、書いて振り返るこうが、
こうやって起きている現実をただ受け入れて振り返ることができている感覚がある。この事実を肯定的に捉えながら振り返ることができる。

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プリントを1日1枚やるというのは、確実に自己完結できることなのだけれど、
自分が生み出すできない理由は、自分ではなく、自分に関係するあらゆるものにひも付けているような気がする。

自宅を離れることで、いつもと1日のリズムが違うし、
帰宅場所も、寝る場所も違うし、一緒にいる人も違う。

だけど、プリントを1日1枚やるということだけ考えると、
そこには自分以外の誰かが入ってくることはできなくて、
自分一人で完結できる。

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プリントに取り組む時間は、ひとりの時間だ。いつでも、プリントができるということは、いつでもひとりになれる。ということなのかもしれない。

プリントができないときは、必ず何か自分以外のものに引っ張られている。

何か気になっているものが必ず自分の中にあって、
自分が「ひとり」ではなくて、何かと関係づけされている。

何かを考えたり、行動したりするとき、
必ず自分には、自分以外の何かが関係している。
それは常識とか、規範意識とか、簡単にいえばそういうものなのかもしれないけど、
ほんとうは自分はどう思っているのか、何を感じているのか?

そこと向き合うには、自分の外との関係を絶って、
ひとりになれる時間が必要だろう。

らくだの1日1枚のプリントがすっとできるということは、
そういうところにもつながっていくような、そんな気がした。

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「できない」体験を大切にできると、「できる」という体験もまた不思議な体験になってくる。

プリントが長らくできなかったのに、

徐々に、以前のようなペースで取り組めるようになってきている。

 

基本的には1日1枚のプリントだけれど、

10月に入ってからは、1日1/2枚と決めてやっていることもあり、

1日に解く問題数は、以前よりも少ないのだけれど、

1日の中でプリントに向き合う時間を作れていることがまず大きな変化のように思う。

 

生活のスタイルは特に目に見える変化はないのけれど、

すこし気持ち的にも落ち着いてきたように感じている。

 

その大きな要因は、何であるのかはわからないのだけれど、

以前プリントができなかった体験があることで、

プリントができるようになった時にも、

自分の変化に敏感になれていると改めて感じた。

 

 

できない→できる できる→できない の連続によって、

自分を捉えようとする意識が生まれるように思う。

その意識というのは、問いと言い換えることもできるのかもれない。

 

なぜ自分は今できないのか、また、なぜ今できるようになったのか?

 

そうやって、できない⇄できる の反復のなかで、

その変化を生み出している自分を観察しようと思えてくる。

 

その変化の要因は、基本的にはみえないし、これが要因だとは言い切れない。

でもそうやって、時間と空間をより広げていって今の自分の状況を捉えようとしていく。

 

これが「できる」だけであったら、きっとこの意識・問いは生まれない。

「できる」の連続だったら、時間はずっと流れていく。

 

でも「できない」という体験は、時間を止めてくれる気がする。

一度立ち止まることができる。

そして、振り返ることができる。

 

「できない」体験を大切にできると、

「できる」という体験もまた不思議な体験になってくる。

 

セルフラーニングとは何か?

☆ セルフラーニングとは何か? ☆
 
平井雷太(すくーるらくだ主宰・セルフラーニング研究所代表)
 
 セルフラーニングは自学自習ではありません。自学自習の場合、学ぶものが何であっても自学自習になるからです。学校で先生から、「これをやっていなさい」と全員に同じ課題を提供されても、自学自習。先生から、与えられるのではなく、自分で学びたいものを好きに選んでやっても自学自習。ですから、そんなやり方の自学自習は自分勝手学習であって、それが確実な学力を保障することにはならないのです。ちょっとでもわからないところがあるとそこで学習はストップしたりしますから、気分学習になる傾向が強いのです。ですから、セルフラーニングという学習システムが成立するためには、教材(らくだ教材、考現学、インタビューゲーム)が不可欠です。その教材で学ぶにあたって、どう学ぶかは自分で決めることができますが、自分だけで決めるわけではありません。自分だけで決めると、気分に左右されて、「できないこと」には挑戦せず、「できること」だけをやる傾向があるから、セルフラーニングには、常に見守ってくれる人の存在が不可欠となるのです。これが「セルフラーニングは一人ではできない」のゆえんです。そもそも、学びの本質はセルフラーニングなんだと思います。「できないこと」だと思い込んでいることであっても、たんたんとやっていくと、その人なりに、必ず「できる」方向に向かっていくのです。セルフラーニングは毎日学習が基本です。その上で、学ぶものを指導者と相談しながら、最終的には自分で決めていきますから、そのことで自分を律する力が育っていきます。つまり、セルフラーニングは、「自学自習プログラム」を自分で作っていく学習と言っていいでしょう。そして、その結果を常に記録表に記入していくことで公表していきます。つまり、セルフラーニングには自己情報を開示するシステムがあるのです。したがって当然、ここには評価は必要ないのです。起きている現実があるだけで、それに対してどう対策を立てていくのかを指導者と相談しながら、自分で考えていきますから、「セルフラフーニングには、自分に起きた問題を解決していくプログラム」があるのです。だからこそ、セルフラーニングの学習にかかわる指導者は、学習者の問題を指摘する人ではなく、学習者に問題の自覚を促す人でなくてはならないのです。
 
(自分流子育て読本 Vol.11より)