そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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2018.4.16 

パートナーのおじいちゃんが入院している。

もう、先はそんなに長くないと言われている。本人もそのことを知っているし、

自分自身で感じている。

 

おじいちゃんとは、よくおしゃべりをしたし、

いつもたくさん話を聞かせてくれて、自分のじいちゃんみたいだ。

 

そんなじいちゃんのお見舞いに行った。

おじいちゃんが、こういう状況になると、

自分はこの人生で何を残すことができたのだろうか。と考えるといっていた。

 

だけど、そんなことどうでもよくて、

生きてきた、生き抜いてきたこと自体が、

もうそれだけで意味あることなんだって言っていた。

 

生きる意味を探したり、

生きた証を残そうとする前に、

生きていること自体を忘れるなと言われた気がした。

 

 

2018.4.14 今日はべてるの家の上映会 予告編⑧

今日はべてるのドキュメンタリー予告編⑧の上映会だった。

2016年の8月に予告編①の上映会を開催し、

そこから2ヶ月に1回のペースで開催し、

予告編②・④・⑤・⑥・⑦・⑧と上映会を実施した。

 

今日は、予告編⑧の上映会であったので、

一応、最終回という位置付けであり、

これまで予告編①からの上映会を振り返る機会にもなった。

 

上映会では、毎回参加してくださる方も多く、

この上映会をやったことで生まれたご縁もたくさんあった。

 

そして、予告編①〜⑧にかけて、べてるの人たちの変化が映像を通して

感じられるのと同じように、2ヶ月に1度の上映会で

感想や学びをシェアしあった方々も同じように変化し、

それをみんなで感じることができたことも、とてもよかったと思う。

 

最初に行った時には全く予想もできなかったご縁や、

参加者の方々の感想や、実施の変化を感じることができて、

とても上映会を開催してよかったな。という気持ちになった。

 

そして、最終回の今日は、振り返りのセッションのファシリテーターも務めさせてもらった。城さんが、今日の映画の中で「踊りはやったことがないけど、舞台に立ったら自分の中から出てきた」という言葉にあるように、その立場に立つと、やっぱり自分の中から出てくるものがあった。

 

振り返ってみると、またたくさんの学びが書けそうな気がする。

また、この上映会をゆっくりと振り返りたいと思う。

 

 

2018.4.13 しない」を決めることは、「すること」よりもメッセージ

組織の中で働いているときに、

自分が「しないこと」を自分で決めることができれば

人は安心できるような気がした。

 

「する」ことと、「しない」ことを僕たちは

なぜか比べてしまっているように思う。

そして、「しない」よりも「する」ことの方が

大切で、いいことのような錯覚がある。

 

でも、よく「する」ことと「しない」ことを見てみると、

「する」ことの方が簡単な気がする。

「する」ことは、ただやればいいのだ。

(どのようにやるか、その質や工夫を考えていけば簡単なことではないけれど)

 

でも、「しない」ということを決めることは、

自分や団体の現状を把握できていないと

なかなか自分で決めることが難しいのではないかと思う。

 

組織の中で安心して、個々が活動できたり、

団体の活動に参画するには、個人が「しないこと」を

自分で決めることができるようになることが重要なのかもしれない。

 

団体の中で、私が「しない」と決めることは、

仲間に「任せる」ということを決めることでもあるかもしれないし、

「しない」を決めることは、

「すること」よりもメッセージ性のある行動なのだと思った。

2018.4.12

 

パソコンに向かって、今日は書けないと思う。

そうやって書きながら、

1日のどこかで「書く」ことを思い出していないことを思い返した。

 

もし、「毎日書く」と本当に決めていたら、

「今日は何を書こうか?」とアンテナを張るはずだ。

 

「毎日書く」と言いながらも、

「毎日書く」と本当は決めれていなかったのかもしれない。

 

きっと心から決めることができれば、

それは日常を変化させる。

 

2018.4.10 小学相当のプリントが終了 その③

1日1枚のプリントをやることが、どれだけ難しいことか。

 

この小学相当のプリントを取り組んだ中での、
学んだことを3つあげるとしたらなんだろうか?という問いを元に、
振り返りを書いている。

今日は、その3つ目の記事です。

 

1日1枚のプリントをただやることということをはじめて、

1年半ほど経過したのだけれど、

この1日1枚のプリントをやることが、 どれほど難しいか。ということを今も感じている。

 

1日このプリントをただやるだけなのに、

それがなかなかできない。という日がすごく多く、

スッとプリントに取り組める日の方が少なかった。

 

このプリントをなぜやっているのか?と聞かれても、

これといって、決まった答えはない。

決まった答えはない。ということは、

これといった決まった 「目的」があるわけではない。という意味である。

決まった「目標」「方向」があるわけではないとも言える。

 

ただ、このプリントを続けていく中で、

自分にとって、何かしらの意味が生まれてきたことは確かであるけれど、

(“今の自分を見つめることができるため”とか言えるのかもしれない。)

それだけのため。という意識は全くなくて、

目的をもたずに、ただやり続ける ということが、

このプリントの僕なりの目的と言えることになるのかもしれない。

 

このプリント学習で、多くの記事が書けることを見てみても、

このプリントから気づけることや、発見できることは

数多くあるのだけれど、それは、この「目的」や「目標」ということを決めずに、

ただやり続けているからなのだろう。

 

これまで、「目的」をもたずに何かをやり続ける経験をしたことがあっただろうか。

 

学生時代にやっていたサッカーも、「全国大会に行くため」にやってきたし、

受験勉強だって、「目指す大学に合格するため」にやってきた。

必ずそこには、目指すところがあって、

そこに向かって頑張って続けてきた。

 

だから、毎日そのためだけにやればよかったし、

その日々が、目標に対してどうだったのかも、結果を見ればすぐ分かった。

 

けれど、この計算プリントはどこに向かってやっているのか、と考えても

その「どこへ」という目指すものはない。

 

じゃあ、なんでやっているのか。と思うかもしれないけれど、

スタート地点で目指す方向が決まっていなくても、(目的や目標が決まっていなくても)

このプリントの続ける日々の中で、その人にあった方向へ自然と向かっているのだと思う。

 

一人ひとり目標も、目的も違って当たり前で、

その過程(進むはやさも、進み方も)人それぞれである。

この1日1枚のプリントの日々は、その人の本心から向かいたい方向を

示してくれるもののように感じる。

 

この1枚のプリントから気づくこと、感じることは

その学習者によって全く異なる。

それは、一人ひとりが向かう方向やその過程が異なることを

示してくれているように感じる。

最初に決められた目的・目標のような方向が決められてなければ、

毎日自分の方向へ必ず人は向かっていく。

 

初めから方向がセットされていない分、

プリントをやっても、褒められることもないし、

何かを得ることもない。

(目標が決められていれば、周りも目標に対してどんくらい近づけたかわかる。だから褒める。)

 

だから、今まで味わったような達成感や、頑張った感を得られることが

すくないのかもしれないけれど、

この目的をもたずに、ただ淡々と続けることが、

毎日、自分の進む方向への軌跡を残してくれているのだと思う。

その日々を振り返ってみると、

自分の方向性が、見えてくるのかもしれない。

 

2018.4.7 小学相当のプリントが終了 その② 学習者と指導者の関係について

学習者という立場で、毎日プリントに取り組み、

その中で気づいたり、学んだりしていることが多いのだけれど、

学習者の立場から、指導者とは、どういった存在なのか?ということも

また考えさせられ、学んでいることが多いように感じる。

 

これまで、自分が学習者という立場に立った時、

必ずその向こう側には、先生がいた。

その先生という存在から、何かを教えてもらうという関係性の中で

僕は「学ぶ」ということをしてきたのだけれど、

このらくだメソッドでは、これまでの「学習者」⇄「先生」という関係とは

全く違った関係性があるように感じる。

 

このらくだメソッドは、自分で決めて、自分で学ぶ教材である。

(取り組むプリントも自分で決めるし、採点だって自分でやる)

 

まさにセルフラーニングである。

では、この教材があれば、学習が成立するのか。

と学習者である自分自身に問いかけてみると、そこには疑問が残る。

 

やはり、指導者の存在は、僕の学習に欠かせない存在であるように感じている。

 

「学習者」と「指導者」の間には、

どんな関係性があるのだろうか。

 

その1つをあげるとしたら、

指導者は、学習者の「事実」をただ映し出してくれる存在なのだと思う。

そして、学習者は指導者を通して、その事実を再度確認する機会を得るように思う。そして自分で自分を掴んで、また進んでいく。

 

らくだメソッドでは、「毎日やる」という自分との約束がある。

その自分との約束を、指導者と共有している状況が学習環境の中にある。

(毎週1回、1週間のプリントの記録を指導者に共有をする)

 

この時に、指導者は、プリントの記録に関して何か評価することもなく、

ただ、記録を確認してくれる。

(やっても褒められないし、やらなくても怒られない)

 

それは、そのプリントは指導者との約束ではなく、

学習者自身が自分と約束したことである。

だから学習者は、その指導者との記録の共有の時間に、自分の事実に向き合うことになる。

(自分との約束をどのくらい守れたか、守れなかったか)

 

でも、もしこれが自分ひとりでやっていたとしたら、

おそらく自分との約束を守れなかったとして、

そこに理由や、意味を勝手に付け加えてしまうのだろう。

そうやって、本当の事実を捻じ曲げて、

自分の色眼鏡で、物事を捉えてしまう。

 

でもこうやって、指導者という存在が、

自分との約束を共有してくれると、

(ただその事実に評価や判断をつけず“確認”してくれる存在でい続けてくれる)

自分が自分の事実を、より明確に見つめることができるように思う。

 

だから、より明確に進んでいけるようになるのだろう。

 

大人がなぜ、計算プリントをやっているのか、

これはとっても不思議なのだけれど、

「学習の主体者」になることと、

「学習の指導者(支援者)」になることは、

表と裏のようなものなのだろう。

 

この振り返りを書いていて、大人がこの学習をたくさん始めているということが

少し納得できたような気がした。