そのまんまたろうのブログ

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【まなゆい】相手の言葉をそのまんま大切にすることは、相手の世界を大切にすること

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相手の言葉をどのように扱うかは、
相手の世界をどのように扱うか?ということなのだと思いました。
 
いろいろ本を読んだりセミナーを受けている時に、
「オウム返し」という言葉がよく出てきます。
この「オウム返し」ということの、
 やり方はわかるけれど、
どこか手法化していて、
自分の中にしっくり落とせていないと感じていました。
 
ただ、今回まなゆいインストラクター講座のアシスタントをして、
この「オウム返し」と言うのはまさに、
相手の言葉を大切に扱うためのものであり、
それは、相手の世界を大切にしていることなのだと思いました。
 
** ** **
 
「言葉」ということを考えた時に、
言葉というのは、かなり「曖昧なもの」であって、
言葉の意味がなんとなく同じでも、
一つ一つ言葉によって世界のくくり方、
 区切り方は違ってきます。
 
以前、言語の性質についてこんな記事を書きました。
 
 
 
そう思うと、相手が発した言葉と意味がほぼ同じでも、
他の言葉に置き換えて返してしまうと、
返された相手は
すでに自分の世界との「ずれ」が生じてしまいます 。
 
相手の発した言葉と同じ言葉をそのまま返してあげることによって、
返された相手はそのまま自分の世界を
受け取ることができるということです。
 
** ** **
 
オウム返しというのは、
 「手法」の中の一つだけれど、
それは、本当に相手の世界を大切にしていることなのだと思います。
 
相手の言葉の意味を大切にしがちだけれど、
相手が発した言葉をそのまんま大切にすることが、
相手の世界を大切にすることなのだと思いました。

 

これまでの自分を、そして今の自分を支えている「日常」をどう扱うか

 

毎日仕事をして、

洗濯して、
ご飯を食べて、
眠って、
 
僕たちにとっての日常というのは
その自分自身の行為に対して
特に強引に意味づけをしたり、目的を意識したりするのではなく、
ただ流れていく時間の方が多いように思う。
 
そういう、自分では意識しない、見えない時間や事柄が
これまでの自分を、そして今の自分を支えている。
 
そう思うと、「日常」というのは
何気ないものなのだけど、
それはとっても大きなもののように感じる。
 
そんな目に見えない、意識しずらい「日常」に気づき、
そこから学んでいくことはとっても難しいように思う。
 
けれど、その自分を支えている「日常」
少しでもつかむことができれば、
うまく扱うことができれば、
それは大きな力なのだと思います。
 
** ** **
 
らくだメソッドのプリントの学習は、
1日1枚の計算プリントをやるという点で、
この「日常」というテーマが自然と結びついてくるように思います。
 
この「日常」ということについて、
以前、「日常の中で学び続ける」という記事を書いてみましたが、
 
らくだメソッドを通しての気づきや学びは、
この「日常」というものに対して
今までにないアプローチができるものだと感じ始めています。
 
** ** **
 
なぜ、僕の中にこの「日常」というテーマが生まれてきたのか?
それは、「プリントに対する意識の向かい方」によるものだと思う。
 
僕がこのらくだのプリントをやっている理由は、
特に何か目的があるわけではありません。
 
目的をもってやることが大事ということ同じくらい、
目的を持たずにただやることも大事という認識でいます。
 
この「目的」もなく、強引な意味づけも無く、
でも僕の毎日の中に存在し続けるという点は、
まさに「日常」の性質と重なります。
 
その点で、この1枚のプリントが自分の「日常」ということに
アプローチできるきっかけとなってくれているように思います。
 
** ** **
 
これまで、なぜ自分の日常の中で学ぶことが難しかったのか?
それは、「日常」だから、
自分には見えない、意識できない領域であったのかもしれない。
そして、その日常へのアプローチの仕方、近づき方を知らなかった。
 
でも、1日1枚のプリントは、
その見えない「日常」に近づいたり、
意識できるためのツールのような感じだ。
 
だから、今まで見えなかった、意識できなかった部分が徐々にみえてくる。
その気づきや学びはこそ、この学習の楽しみなのだと思う。
そして、自分の日常がだんだんと豊かになっていく。
けど、その日常すら僕たちは気づかずに、
意識できずにずっと「日常」に支えられて生き続けていくのだと思う。

 

情報ってなんだろうか。

情報ってなんだろうか。

 
去年の10月から今年の7月までの記録表を見つめてみた。
記録表の「メモらん」には、
その時の気づきや、自分の状態をメモ書きとして残している。
 
このメモ書きは、僕の「情報」と言えるように思うのだけれど、
このメモを読み返した時に、
かなり自分の「情報」の曖昧さ、というか、
「情報」って一体なんなんだろうか。という疑問・疑いみたいなものが湧いてきた。
 
そもそも、このメモを残した時の「自分の情報」は、
いつの自分の情報なのだろうか。
 
例えば「今日の自分」の情報といってメモを残していても、
「今日」と「明日」という24時間単位で「自分」を分けることすら変な話のように思えてきた。
 
24時間単位で、「自分」という存在が区切られているわけでもない。
 
そこから考えると、自分がメモとして残した「自分の情報」は
いつの自分の情報なのか?
そう思うとはっきりと答えることができない。
 
という点からも、かなり曖昧な情報になってしまっているように思う。
 
** ** **
 
時間はいつも流れていて、
いつもその中に自分は存在している。
 
けれど、その動いている自分というのを
そのまま言葉として認識することや、
記録することは不可能で、
情報は、どこかで区切ったり、止めたりしたものをが「情報」となっているのだろう。
 
** ** **
 
「情報」はたくさん溢れているけれど、
それらの情報は、「どこかで止められた、区切られた情報」であって、今の現実そのままの「情報」ではない。と言えるのかもしれない?
 
情報は止まっているけど、
現実はいつも「時間」の流れの中にあり動き続け、変化しつづけている。

日常の中で学び続ける

らくだメソッドの学習を開始して
もう少しで1年になります。

1日1枚計算プリントをやるということを続ける中で、
毎日「できる」「できない」とか
「何分でできた」「ミスは何個だった」とかいう事実が生まれてきます。

そういう事実への向き合い方や感じ方が
毎日毎日違います。
そういう中に日々変化している自分が映し出されてくるのだと思います。

そんな風に、日々の日常の中で自分の状況を掴みながら、
気づき学んでいきたいと思います。

そのためには、自分の日常を外へ持ち出したり、
他者と共有する機会を持つ。

そうすることで「日常」が、
僕の日常の中に馴染むことなく、埋まることなく、
僕の「日常」に存在してくれるように思いました。

せっかくフェイスブックでこれだけの人と繋がれているのだから、
もう少しこういう環境を生かしながら、
学んでいけたらなと思いました。

それは、今の時代だからできる学び方でもあるのだと思います。
自分の身の回りの環境や、
時代に合わせて自分で学んでいけるような力を、知恵をつけていけたらなと思いました。

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日常の中で学び続ける

 
「日常」の中で自分の事実を把握し、
日々、自分で自分に気づき、学んでいけたらな。と思う。
 
らくだメソッドの「1日1枚というプリント」というのは、
まさに僕の「日常」の中にあり、
毎日の自分を映し、認識できるツールであるように思う。
 
けれどここ最近、プリントを通して現れてくる
「事実」に対する自分の実感が、
以前よりも薄れてきているように感じていた。
 
プリントをやった日も、
「プリントをやった」という実感、
プリントをやらなかった日は
「プリントができなかった」という実感が薄い。
 
** ** **
 
「1日1枚のプリント」は半年前も今も、
同じように僕の日常の中にある。
けれど、半年前の「プリントをやった」「プリントをやらなかった」という事実が、自分に与える実感の重みが、
今と半年前とでは少し変わってきているような気もする。
 
「1日1枚のプリント」というものが、
僕の日常に徐々に馴染んできているのかもしれない。
 
だからこそ、その事実による実感の重みが
薄れているのかもしれない。
 
日常の中で、事実を見つめることの難しさが
ここにあるように感じた。
 
** ** **
 
毎週1回、中村教室に足を運ぶことの意味合いを深く感じた。
(毎週1回、中村教室へ足を運び、1週間の記録表のシェアをし、向こう1週間のプリントを持って帰ります。)
 
自分の日常を外へ持ち出す。他者と共有する機会を持つ。
そうすることで、1日1枚という「日常」が、
僕の日常の中に馴染むことなく、埋まることなく、
僕の「日常」に存在してくれるように思う。
 
** ** **
 
日常の中でいかに自分をみつめていくのか?
ということを考えると、らくだのプリント以外にも様々な工夫ができるように思う。
 
SNSがこれだけ発達し、
フェイスブックでも、インスタグラムでもツイッターでも
たくさんの人と繋がれている。
 
そういう環境の中に、
自分の日常を持ちだしてみたい。
そうすることで、自分の日常に埋まってしまう「事実」もとどめることができるのかもしれない。
 
時代はいつも変化している中で、
その時代にあった学び方を、
自分なりに模索しながら進んでいきたいと思った。

歎異抄とらくだの学習

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歎異抄とらくだの学習

 
小5-23,24,25
 
** ** ** 
 
 念仏申し候へども、踊躍歓(ゆやくかん)喜(ぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、
いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、
 親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。
 
そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。と説くのです。
 
** ** **
 
 
小5-23,24,25
 
1枚のプリントの計算量が多くなり、
1枚のプリントで15分〜30分くらいかかるようになり、
プリントをやること自体ができない日があった。
だから、プリントが合格できない日が増えてきた。
 
だけどいつの間にか。できないなりにも続けていると、
「できる」ようになっている。
 
この「できるようになる」というのは、
自分の努力でも、自分の根性でもなんでもなくて、
ただ「できる」ようになってしまっているという感じに近い。
 
自分が自覚している自分の力を超えて、
「できない」から「できる」に移り変わる。
「できない」が「できる」ようになるというのは、
どういうことなのか?と考えると、
自分のはからいではないところの力が働いている。
 
そんなことを思った時に、この歎異抄の第9条の内容が、
このらくだの学習で学んでいることにとっても近いんじゃないか。という気持ちが生まれてきました。
 
** ** **
 
「できない」という中にいること。
その「できない」をごまかさずにいれば、いつか必ず「できている」
 
これは、「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」ということに、とっても近いような気がした。
 
根性も努力もいらないこの学習は、自力で「できる」こと目指す学習ではなくて、「できない」というものを受け入れて、いつも見つめ続ける。すると、自然と「できる」方向へ向かっていく。それは、「他力」ですすむ学習とも言えるのかもしれない。
 
自分の努力や根性のような、自分のはからいを超えたものが、「できる」という方向へと導いてくれる。
だから、自分の思いもしなかったプリントができるようになったり、自分の思いもよらぬ速さで解けるようになる。
 
「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」という言葉は、
「できないからこそ、できるようにしてもらえるのだ。」とでも言えるような。そんな気がした。
 
** ** **
 
・中村教室で吉本隆明さんの本や話に触れていること。
・今年、祖父を亡くしたこと。
(昔から我が家浄土真宗であることは知っていたけれど、改めて知る機会があった)
・おじいちゃんが親鸞好きであること。
 
いろんなことが重なり合って、親鸞という人や歎異抄というものに繋がりました。親鸞とか、歎異抄というものは学生時代に無理やり暗記したものに過ぎないものだったものに、こうして改めて出会い、自分なりに大切だなと思うことを受け取っているということは、なんだか面白いな。と思います。
 
歎異抄が書かれた意義からも分かるように、親鸞という人が考えてきたこと、向き合ってきたことは、とてつもなく大きくて果てしないもので、そう簡単なものではないと思うけれど、この先もずっと読み続けて、深めていきたいと強く思っています。
 
*** *** ***
 
100分で名著で再放送が来月?予定されているようです♩

 

『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

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『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

 

坂本:科学の… あの価値観

 
 福岡:(科学は)再現性
 
坂本:反対ですよね?
何度繰り返しても同じ結果が得られることに信を置くのが科学。
それと反対で(音楽は)一回しか起こらないから良い。一点しかないから良いとかね。
 
坂本:そういうところにアウラがあるという…
ベンヤミンに言わせればアウラという言葉 オーラですけどね。
そこに価値がある。
 
 福岡:そうすると毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとかたくさん同じものがある。
 
坂本:複製技術時代ますますそれが高まっているわけですけどその時に一回性の問題は今、真剣に考える必要のある問題だと思っているんですね。
 
 福岡:印象的な一文があって、今回の「async」を作られた時に「誰にも聴かせたくない、自分だけで聴いていたい」という風に書かれているんですよ。これっていうのはCDに焼いてみんなに共有してもらうというところで同一性というものにとらわれてしまうんで、そうならないままの…一回限りのものとして慈しんでいたいなという感じ?だと思ったんですが。どうですか?
 
坂本:鋭いですねえ。極端に言うと生まれて初めてそう感じたことなので自分でも不思議だなと思っていたし… 終わり方というのはとても大事だと作りながら思っていたんです。
地図がないし、ゴールもないからどこで終わるかもわからないわけですね。だけどその瞬間というのがあるはずなんだよね。一番いい筆を置く瞬間がある。うっかりしていると自分でも気づかないで過ぎてしまう。…で余計なことを足していってしまうっていう。とてもそれを恐れていて今か今かと自分で作りながらもやめる瞬間を察知しながら作っていたというね、ちょっとかわった状態なんですけども。なるほど。それ一回性という問題に大きく関わるのかもしれないですね。う〜ん面白い。
 
 
*** *** ***
 
 福岡:シグナルとノイズ サウンドとノイズの関係は、科学の世界でも同じような構造というか問題があって、本当は世界はノイズと名付けられる前のノイズだけの空間だった。夜空の星々みたいなものですよね。でも人間の脳はめぼしい点を結んで星座にする。別に星座って平面に張り付いている星の点じゃなくて、全然距離が違う奥深さが違うものを「図形(星座)」としてみているだけだし、それは今そうして見えているだけでその光だって何万光年も前から来ているものなんで、今はもうない光なのかもしれないし、そういったものをある種の図像、秩序として検出する。それがシグナルの抽出。シグナルを取り出すのが科学の営みな訳ですけど、ついついそういうことは忘れてシグナルが本当のものだと思ってしまうわけですけれども、音楽の分野でもそういった考えというか、感じっていうのはありますか?
 
坂本:大いにありますね。音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作っているので、すこし数学に似たところもある。ノイズは排除。ノイズは意味がないもの。地と図で言えば、図の方が意味のあるもの図をいかに美しいものに仕上げていくか、排除されるのは地でありノイズである。そのように何百年も変化、進化というか発達してきたわけですけども、面白いことにちょうど僕が生まれる頃ですかね、20世紀後半に入った頃にアメリカの作曲家のジョン・ケージっていう大変素晴らしい人がですね、もう一回、その地の方に耳を傾けようと。図ばっかり取り出すのではなくて地を見てみよう。ノイズを聴いてみよう。と。多分そういう事だと思うんですが、そういう事に挑戦をした。これは本当に大事な事で、いまだに、あるいはもうますます今、大事だなと僕は感じていて。
 
*** *** ***
 
◯理屈だけで世界を見ない
 
坂本:我々人間のね、脳の特性としか言いようがないんですけども、どうしても何かの意味ある情報を受け取ろうとする。見ようとする、聴き取ろうとする。病み難くありますね、人間にはね。
 
 
 福岡:星座を取り出すというのは言葉の作用。人間の場合は特に、ロジックというかロゴスの作用ですよね。言葉による、分ける力。文節の力っていうのはすごくて、そのことによって本来、ノイズだらけの世界から星座、シグナルが切り取られていくわけで、あまりにもロゴスの力によって切り取られすぎると、やっぱり本来の自然というものは非常に変形するというか、人工的なものになってしまってもともと物理学のフィジックス、あるいは生理学のphysiologyの最初のphysis フィシスっていうのが、(physisフィシス=自然・ありのまま)本来の自然という意味で、プラトンとかソクラテスが出る前までの、もっと前のヘラクレイトスの時代に、自然というのは混沌としてノイズからできている、けれども豊かなものだというビジョンがあったわけですれど、まあプラトンソクラテスが、イデアみたいなものを言い出して、
 
坂本:まあ、ロゴスの人ですからね。
 
 福岡:そうですね。なんというか、ロゴスの強力さに辟易することがありますよね。
 
坂本:ありますね。ありますね。だからどれほど星座に囲まれているかというのを、意識もできなほど、そういう網の目にとらわれている。
 
 福岡:認識の牢屋ですよ。
 
坂本:そうなんですね。そのことにいつも考えさせられることが多くてですね。一度、思考実験として名詞を使うのをやめてみようと、1日努力したことがあるんです。これはほとんど不可能。生活できないというか、ほとんど話もできないし考えることすら難しい。
 
 福岡:できない。ええ。
 
坂本:でもね、僕はこれ大事なことなんじゃないかと。やりながら。
 
 (2人)名付けない。
 
 福岡:名付けるということは、星座を抽出するっていうことですからね。
 
坂本:まさにそのとおりなんですね。
 
 福岡:シグナルとしてとりだされたものじゃない… その本来のノイズとしてのフィシス(自然)の場所に下りていくためには、客観的な観察者であることを一旦止めて、フィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないと、そのノイズの中に入れない訳ですよね。
 
坂本:はい。まず、自分もノイズだと認識しないといけませんね。だから自分と外に、あるいはその観察対象、自然に何か差があるとかですね、自分がまるで自然の外にいて、観察しているかのような認識の枠組み自体が間違いですね。
 
 福岡:そうなんですよね。
 
坂本:自分自身は木と同じ自然。自然なんです。
 
 福岡:生命体 自然物ですよね。
 
坂本:ところが果たして、どれだけの人がそれに気がついているだろうか。僕らが扱っている楽器もそうです。もちろん。
 
 福岡:そうですね。
 
坂本:この大きな図体のピアノなんていうものは、よく見ると木だし中は…
 
 福岡:鉄だし。
 
坂本:鉄だし。もともとは自然の中にあったものを取り出してきて。図のように取り出してきてですね。
 
 福岡:こう構成した。
 
坂本:加工してですね、音階まで人工的に考えて。本当に人工に人口を重ねたもの。これを僕は元に戻してあげたい。
 
 福岡:なるほど。
 
坂本:という欲望が最近強くてね。それで実はたたいたりしてるんです。こすったり。これはね、元のフィシス側の自然物としてモノが発している音を取り出してあげたい。という気持ちがとっても強いのね。
 
 福岡:今の話で私がふと思ったのは、音楽の起源ということなんですねよね。音楽の起源ってどこにあったとお考えですか。
 
坂本:とても難しい問題ですね。楽器の起源ということを考えると、実は音楽の起源と、楽器の起源は非常に近い。あるいは、もしかしたら同じことなのかもしれませんが。まぁどの時点か分かりませんけども、そこに落っこっていた鹿の骨か何かを乾かしてみてそこで人口的に穴を開けようと。これはもう完全に自然の改変ですよね。穴をここに開けたほうが自分は好きだ。気持ちいい。洞窟に入って吹いてみるとよりいい感じだと。みんなでやってみようか。やりだすということは、まぁ容易に想像できるわけですね。なぜそうするか。
そこがフィシスとロゴスの始まりでもあるのかもしれませんけど。なぜそういう欲動を持つのか。ここがもう僕にはわからないところなんですね。
 
 福岡:もっとも大事な自然物は我々の生命だというのは、音楽の起源とどこか重なっているような気がするんですよね。生物学的には、音楽の起源って、例えば鳥の求愛行動みたいに、鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに、語られることは多いんですけども、私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ。この自然物に囲まれている私たちの中で、絶えず音を発しているものがあるじゃないか。それは、我々の生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって10ヘルツくらいで振動しているしまあその、セックスだって律動があるわけですよね。そういう、生命が生きていく家で絶え間なく音・音楽を発しているわけですよね。ロゴスによって切り取られたこの世界の中では、我々の生命体自身も生きていることを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているということを思い出させる装置として音楽というものが、生み出されたんじゃないかなって思うんですよ。
 
坂本:非常にロマンティックですね。それはね。おもしろい発想ですね。仮にそうだとしても、それなのにやることは、やはりロゴス的なことしかできない。
 
  福岡:そうなんですよね。
 
坂本:そっちの方に持っていってしまう。よりコントローラブルというか、コントロールしやすい
 
 福岡:で、楽譜に書くっていう。
 
坂本:秩序立って。オーガナイズされたものにしていく。正確にやりたいんでコンピューターを使ったりとかっていうふうに。どんどんそっちの方に行く。おもしろい発想です。

 

『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』
NHK Eテレ 6月3日(土)午後10時00分〜 午後11時00分

 

「事実」はいつも「一回性」をもつ。

 

自分の日常の中で、「事実」ということを見つめることが、
以外にも難しいのかもしれない。
 
できる・できない
わかる・わからない
知っている・知らない
美味しい・まずい
綺麗・汚い
良い・悪い
 
なにが事実なのだろうか。
自分が事実だと思っていることは、
事実というよりも自分自身が形作っているものにすぎない。ということが意外にも多い。
 
ということに気づいたときに、
「じゃぁ、事実ってなんなんだろう?」という問いを考えたとき、
「一回性」という言葉が浮かんできました。

 

 

「言葉」によって、僕たちは状況を「掴む」ことができる。その起きている状況というのは、常に一生に一度の出来事であって、その出来事を再現することはできない。だけど、その状況を「掴む」ための言葉はその逆の性質にあり、何度でも使い回しが出来てしまう。

*** *** ***

 

「事実」ということを考えると、

「事実」の奥深いところには必ず「一回性」という性質がある。

 

らくだの記録表には「数字」による事実の記録が残っている。

このデータは、二度として浮かび上がらないデータである。

 

「言葉」を用いて、この「一回性」という性質を浮かび上がらせるのはとても難しい話になってくる。

 

** ** **

 

「今を生きる」ということは、

「事実」をつかむことでもあるのかもしれない。

 

「今」とは「この瞬間」のことであり、

「この瞬間」は2度と訪れないものである。

つまり「一回性」である。

 

** ** **

 

事実を見つめるということは、

「一回性」を掴み、感じ、生きていくことになる。

 

一回性の世界に生きる僕たちもまさに、

一回性の存在であり、いつも同じ自分は存在しないはず。

 

いつもいつも自分は、

ずれていくはずの存在なのである。

 

言葉は時に、「一回性」を忘れさせる。

言葉でこの今ある「一回性」を浮き彫りにさせることは、

とっても難しいこと。

 

だから、言葉を使って生きる僕たちは、

「一回性」を忘れてしまうのかもしれない。