そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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5月のふり返り その2 

5/1-5/11の前回は、5日プリントができない日があった。
今回、5/12-5/25の期間は1日だけできない日があった。
プリントに取り組む時間帯も朝の時間帯にできるようなってきた。

◯前回のふりかえりを読んでみた
前回のふりかえりを読んでみると、前回までは記録表に結果を記入することも正確にできない状態だったようだ。その状態からすると、すこしプリントに落ち着いて向き合える状態になってきたように感じる。

◯中学3年のプリントに入った
幼児のプリントからはじめて、ようやく中学3年のプリントに突入した。毎日プリントにできない日もあるし、なかなかプリントに合格できない時もあるけれど、なんだかんだここまで進んできた。
そういう事実はきっと大きな経験になるように思う。

大体の学習は、いつまでにどこまでクリアさせるとか、どこかに目標やゴールを決めて進んで行くスタイルが多い。僕の小・中・高までの学習の経験を振り返っても、「いつまでにどこまでできるようになっているか」が決められていた。
そこに向かって学習を進めていった。

けれどこのらくだメソッドのプリントは、そういった進み具合の見通しがたてにくいように感じる。今、中学3年生のプリントに突入したけれど、学習をスタートさせた時は、こんなにも時間がかかるとは思っていなかった。
その時と同じように、自分が高校3年生のプリントをいつ頃までにできるようになるか?という検討はたてにくい。

それはどうしてか?と思うと、それは「できる」ということが基準にある学習だからだと思う。サッカーでも、この技術を習得するまでに、どのくらいかかるのか?ということの目安は立てづらい。いつまでたってもできない時もあるし、一瞬にしてできるようになってしまう時もある。
「できるようになる」ということは、きっとそういうことなんだと思う。

これまでは「わかる」という基準での学習が多かった。
だから学習の進捗具合もみんなで足並みそろえて進んでこられた。
でも、この学習は「できる」という基準の学習だということを改めて実感した。


◯観察量
らくだプリント1枚から、どれだけ気づきを生み出すことができるか?ぼくはこれまでらくだのプリントから多くの気づきをもらったように思う。
だけれど、ここ最近はあまり記事が書けていないという状態である。

それはなぜなのだろうか?

それは自分の観察量なのだと思う。観察量は意識をどのくらい向けているのか?ということとも言い換えることができるように思う。

このところ仕事のことでも、プライベートのことでも考えなければいけないことがあったりで、なかなか自分のなかに余裕がない。だからプリントに意識向けること。プリントを通して自分を観察する量が少ないのだと思う。

考えなくてもいい時に、考えてしまう。
意識をしないでいい時に、意識をむけてしまっている。

らくだメソッドのプリントが、どれだけ自分の状況を映し出してくれていても、
その映し出された現状を、自分が見つめなければ、見つめる余裕がなければ、
その事実は事実のまま過ぎ去ってしまうのだと感じた。