そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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「できない」体験を大切にできると、「できる」という体験もまた不思議な体験になってくる。

プリントが長らくできなかったのに、

徐々に、以前のようなペースで取り組めるようになってきている。

 

基本的には1日1枚のプリントだけれど、

10月に入ってからは、1日1/2枚と決めてやっていることもあり、

1日に解く問題数は、以前よりも少ないのだけれど、

1日の中でプリントに向き合う時間を作れていることがまず大きな変化のように思う。

 

生活のスタイルは特に目に見える変化はないのけれど、

すこし気持ち的にも落ち着いてきたように感じている。

 

その大きな要因は、何であるのかはわからないのだけれど、

以前プリントができなかった体験があることで、

プリントができるようになった時にも、

自分の変化に敏感になれていると改めて感じた。

 

 

できない→できる できる→できない の連続によって、

自分を捉えようとする意識が生まれるように思う。

その意識というのは、問いと言い換えることもできるのかもれない。

 

なぜ自分は今できないのか、また、なぜ今できるようになったのか?

 

そうやって、できない⇄できる の反復のなかで、

その変化を生み出している自分を観察しようと思えてくる。

 

その変化の要因は、基本的にはみえないし、これが要因だとは言い切れない。

でもそうやって、時間と空間をより広げていって今の自分の状況を捉えようとしていく。

 

これが「できる」だけであったら、きっとこの意識・問いは生まれない。

「できる」の連続だったら、時間はずっと流れていく。

 

でも「できない」という体験は、時間を止めてくれる気がする。

一度立ち止まることができる。

そして、振り返ることができる。

 

「できない」体験を大切にできると、

「できる」という体験もまた不思議な体験になってくる。

 

セルフラーニングとは何か?

☆ セルフラーニングとは何か? ☆
 
平井雷太(すくーるらくだ主宰・セルフラーニング研究所代表)
 
 セルフラーニングは自学自習ではありません。自学自習の場合、学ぶものが何であっても自学自習になるからです。学校で先生から、「これをやっていなさい」と全員に同じ課題を提供されても、自学自習。先生から、与えられるのではなく、自分で学びたいものを好きに選んでやっても自学自習。ですから、そんなやり方の自学自習は自分勝手学習であって、それが確実な学力を保障することにはならないのです。ちょっとでもわからないところがあるとそこで学習はストップしたりしますから、気分学習になる傾向が強いのです。ですから、セルフラーニングという学習システムが成立するためには、教材(らくだ教材、考現学、インタビューゲーム)が不可欠です。その教材で学ぶにあたって、どう学ぶかは自分で決めることができますが、自分だけで決めるわけではありません。自分だけで決めると、気分に左右されて、「できないこと」には挑戦せず、「できること」だけをやる傾向があるから、セルフラーニングには、常に見守ってくれる人の存在が不可欠となるのです。これが「セルフラーニングは一人ではできない」のゆえんです。そもそも、学びの本質はセルフラーニングなんだと思います。「できないこと」だと思い込んでいることであっても、たんたんとやっていくと、その人なりに、必ず「できる」方向に向かっていくのです。セルフラーニングは毎日学習が基本です。その上で、学ぶものを指導者と相談しながら、最終的には自分で決めていきますから、そのことで自分を律する力が育っていきます。つまり、セルフラーニングは、「自学自習プログラム」を自分で作っていく学習と言っていいでしょう。そして、その結果を常に記録表に記入していくことで公表していきます。つまり、セルフラーニングには自己情報を開示するシステムがあるのです。したがって当然、ここには評価は必要ないのです。起きている現実があるだけで、それに対してどう対策を立てていくのかを指導者と相談しながら、自分で考えていきますから、「セルフラフーニングには、自分に起きた問題を解決していくプログラム」があるのです。だからこそ、セルフラーニングの学習にかかわる指導者は、学習者の問題を指摘する人ではなく、学習者に問題の自覚を促す人でなくてはならないのです。
 
(自分流子育て読本 Vol.11より)

返送日

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未だに僕の記録表は、空白が多い。

今日は、らくだのプリントの返送日。
毎月約2回 ・記録表 ・やったプリント を名古屋の中村教室へ郵送する。

そして、記録表の確認と、必要なプリントを補充してもらい、

また僕の元に記録表と、計算プリントが返ってくる。

そうやって、通信形式でこの学習を継続しているのですが、
この「返送日」という区切りがなければ、

きっと、らくだメソッドの1日1枚のプリントは、僕の中で消えていくのだろうなと思う。今まで僕は、何かを続けると言って、続かなかった経験がたくさんある。その自然と続かずに消えていく感覚がなんとなくわかる。

できなかった日は、できない理由をさがして、
自分を納得させて、できない日々が続いていく。そうやって、自分で続けると決めたことも、いつか自然と終わっていたことなんて、たくさん経験している。

 

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このらくだメソッドでの、「返送日」というのは、とても大きな役割を果たしてくれている。返送する(プリントと記録表を郵送する)というのは、この学習のルールだ。

プリントを全くやっていなくても、空白の記録表は送らなければいけない。だから、必ず返送日には、自分の学習の記録をみることになる。

今までは、毎日毎日言い訳して、自然とやらずに過ぎ去っていた毎日が、らくだメソッドでは記録表の空白として、確認することができる。空白だらけのこの記録表は、これまで、できない理由をさがして、自分を納得させて、いつしか見なくなっていた毎日であって、それを記録表のおかげで残すことができ、返送日にはその事実と向き合うことができる。

これはとても大きな意味はあることだと思う。

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続けるということは、その行為が続くということだと思っていたけれど、
(プリントでは毎日プリントの学習ができること)

そうではなくて、できない事実を見つめ続けることなのだと思う。

 

朝の早起きを続ける のではなくて、

朝起きれなかった事実を見つめ続ける。

スタートは「できない」のだ。

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きっと僕は心の中で、「プリントができる」と思っている。だから言い訳が生まれてくる。「仕事が忙しいからできない」というのは、「仕事が忙しくなければできる」という意味で、自分はできると思っているんだ。

それは、本当に勘違いなのだと思った。

この空白の記録表にあるように、自分は今、できないのだ。だから、できない存在として、学習を続けていくしかないのだと思う。
できない自分が、今ここにいて、それを受け入れる。その事実を受け止め続けていく。

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この空白の記録表は僕にとっては希望なのだと思う。この空白が残っていなかったら、僕はこのできない現実と向き合うことすらできない。

きっとこれがスタートなのだと思う。できない自分を否定するわけでもなく、ただ今の自分はできないのだと実感して、毎日取り組む。それを続けていくしかないのだと改めて気づいた。




 

 

8月末〜今までを振り返ってみる

とりあえず、8月末〜今までを振り返ってみる。

 

らくだの計算プリントは、8月末から9月中旬までは
全くの手つかずで、9月の後半から徐々にプリントに取り組めるようになってきてはいるが、未だに記録表の空白欄は多い。(10/12時点でプリントに取り組めた日は6日)

畑の作業も、イレギュラーが多く、
毎日毎日何をどうするのか考えて動いている毎日で、
なかなか考えずに1日が流れていくことがない。

そういった今の現状は、引越し前とは全く違った状態である。だからこそ、今を振り返った方がいいなとここまで書いて感じた。

だから、こういう今の状況から、
引越し前の日常を振り返ってみようと思う。

今の日々の生活は、
過ぎていく毎日が日々違うから、
1日の中での変化もあまり分からないのかもしれない。
以前のような、違和感が生まれてこない。という感じがする。

日常を落ち着かせるというのは、
毎日を最低限考えないようにまでしてしまうことなのかもしれない。

毎日、自然と体が動くまでにしてしまうこと。そこまで持っていくことができたら、きっと違和感は自ずと生まれてくるような気がする。

まずは日常を落ち着かせることが何よりも大事なのかもしれない。
その日常があるからこそ、違和感が生まれる。

こうやって引越しを通して、環境の変化を経験して、
これまで自分がただ生活していた毎日、
考えなくても仕事に行き、体を動かして、家に帰り、ご飯を食べて寝る。
振り返ってみると、なんともない毎日なのかもしれないけれど、
そうゆう普通の、ただある日常の支えの中で、
自分が感じてしまう違和感があったのだと思う。

そして、そういう違和感から自分で問いや気づきを生み出してきたように思う。

今は自分が小学生だったころの通学路沿いに住んでいるけれど、
いつもこの道をみて、自分が6年間もこの道を歩いていたことなんて、
思い出そうとしても一部分、ちょっぴりしか思い出せないのだけれど、
きっと、考えずとも1日1日が過ぎ去っていて、
考えないからこそ何か自分が感じて、自分で気づいてきたことがあったのかもしれないと思った。

 

だから、やっぱしそういう毎日、
自分が意識できないくらい普通で、ただやっていることだけのことを、大事にしていきたいなと思った。

 

— — — — — —

 

こうやって書くことをすると、
どんな形であれ結局書けてしまうものですね。

自分で考えて生まれてくるものとは
また違ったものが生まれてくるように感じがします。

それは、この文章でも書いたような
考えて出てくるものではないものが生まれてきている感じです。

結局、書けないといっているときは、
頭で考えて書こうとしていて、頭で考えられないから「書けない」と思っているだけで、書くことをすれば、体から言葉が生まれてくるんですね。

という感覚を、こうやって書くたびに感じるのだけれど、
どうしてこれを忘れてしまうのだろうか。

それもやっぱり書く前に、頭を働かせているからだろうか。
人はすぐ考えてしまう。頭が動いてしまう。

2018.8.17 引っ越しとらくだの学習

先日、中村教室に通っている仲間のみんなが

引っ越し祝いの会を開いてくれました。

 

みんな、らくだの学習に取り組んでいて、

毎週1回の通塾の際には、誰かが教室にいて、

いろんな話をしてきたみんなです。

 

引っ越しするにあたって、

この通塾というスタイルで

らくだの学習をすることはできなくなります。

 

ただ、らくだの学習は通信もありますので、

引っ越し後は、通信というスタイルで学習は今後も継続していきます。

 

通塾ができないという点で、

少し寂しい気持ちがありますが、

通信というスタイルで学習をしていくにあたって、

どんな工夫や、考え方が新たに必要なのだろうか?と考えていました。

 

— — — —

 

この、らくだの学習を自分一人ではなく、

日常の中で学ぶ、同じツールを使って学んでいる仲間とのつながりは、

僕にとっては大きな存在だと思っています。

 

みんなの気づきや、想いに触れられることで、

自分が何か気づいたり、学んだりすることがたくさんあります。

同じツールだからこそ、語り合えることもたくさんあります。

 

そういった人とのつながりの中で、

1日1枚のプリントが僕の日常の中に存在しています。

 

このつながりを距離は離れていても

大切にしていきたいと思うし、

この関係性を継続するための工夫をすることは、

今後の自分の課題・テーマのような気がしてきました。

 

これまでは、毎週中村教室に通うことができて、

週末には何かの学習会やイベントを通してそういった仲間と顔を合わせることが自然とあったので、

自分が意図的に何かその環境づくりのために何かする必要性は感じていませんでした。

 

引っ越しすることで、

距離は離れているけれど、

人とのつながりとともに、1日1枚のプリントがあるということを忘れないでいたいです。

同じ学習ツールで、それぞれが学びたいことを学んでいる仲間とのつながり、

ネットワークの中で自分が学びの主体となれる環境づくりを工夫できたらと思います。

 

その点で、SNSがこんなに発達していて、

ブログも書きている仲間がたくさんいること、

フェイスブックでは、いつでも発信できる環境があること、

そういった点では、

距離が離れていても「通信」という環境でも、

できることはたくさんあるように感じています。

 
この学習環境が変化する過程の中で、
新たな気づきや学びが生まれてくることを楽しみに、
日々1枚のプリントを通して、自分を掴んでいけたらと思います。
 
引き続き、皆様よろしくお願いします♩
 

2018.7.30 自然と内から答えが湧いてくる。

自然と内から答えが湧いてくる。

自然農の川口さんのところへ、
農学友の会の仲間7人で見学に行って来ました。

自然農をこれからやっていこうか?
自然農を自分の暮らしにどこまでやろうか?

それぞれさまざまな葛藤の中に生きる僕たちと
おしゃべりするなかで、「いろいろ体験されたらいいですよ。そしたら、自然と内から答えが湧いてきますからね」と言われた言葉が心に残りました。

自分の道を決めなければならない、と思わずに、
自然に内から湧いてくるまで、待てるか。その姿勢でいつもいることができれば、いつか内から自然に湧いてくるのだと思いました。

その待つという姿勢が、葛藤状態だったり、
悩み状態と見えるかもしれないし、自分自身もすっきりしない状態なのかもしれないけれど、そんな状態だからこそ、自然と湧いてくるものがあるのだと思います。

そして、そういう状態だからこそ、自然と湧いてきたものを掴めるのだと思いました。

 

ルールがあるから自由になれる。

インタビューゲームには、3つのルールが決められている。

そのルールのおかげで、
今、どんな話し方をしているのか、どんな聞き方をしているのか、
相手はどんな話し方をしているのか、どんな聞き方をしているのかと言うように、
自分のコミュニケーションにおける現状を把握することができるように思う。

 

以前、書いたインタビューゲームのルールについての記事

taroshio.hatenablog.com


そこから考えてみると、ルールは何のためにあるのか?
ルールや決まりごとに対して、
どういった意味を見いだすことができればいいのか?と思った。

これまで、ルールや決まりは僕にとって苦痛や、我慢といつもセットで、
ルールは僕に不自由しか与えてくれない。なんて思ったりもしていた。

振り返ってみると、そのほとんどは、
学校生活や部活動でのルールや決まりだったように思うけれど。

でも、インタビューゲームの3つのルールは、
不自由ではなく、自由をあたえてくれる。
3つのルールがあるから、僕は自分の状況を把握できるし、
こうしてみようとか、これはやめておこうとか自分で動くことができる。

それはなぜだろうか。と思ったときに、ルールは
自己確認のツールに過ぎないのかもしれないと思った。

ルールや決まりごとのおかげで、
自分がより見えるから、相手もより見えるから、
自分なりのアクションが生まれてくるのかもしれない。

ルールがなければ、相手も見えないし、
自分の現状も把握しづらくなる。
そうなると、自分はどこに向かっていけばいいのか、
何をどうやって工夫すればいいのかすら、
わからないのかもしれない。

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どうしてもルールがもたらす結果にとらわれてしまう。

この行いは、ルールや決まりの上で、
セーフとか、セーフじゃないとか。

でもルールの本来の意味合いは、
ルールがもたらす結果ではなく、
ルールの上で、それぞれが自己をよく認識し、相手を認識し、
その上で、どうアクションを起こすか。
そこにそれぞれのアイディアや工夫が生まれてくる。
そこに自由が生まれてくるのだろう。

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そう思うと、ルールとか決まりって、ただそれだけのもので、
ルールがあるからみんなが自分や相手を認識できる。
そのための指標なだけであって、
そのルールや決まりが正しいとか、倫理的にどうだとか、
あまりそこにこだわらなくてもいいのかもしれない。

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サッカーのオフサイドとか、
あんな複雑なルールは、
きっとサッカーをラグビーやアメフトとかとは
また違った楽しさを見出すために作られたルールなのかもしれない。

でも、今はそういうルールもビデオ判定で正しく判断しようとする。
本当は、そのルールから生まれる選手の創造性や判断力、
そういうところを楽しむためだけのものだったのが、
いつしか、ルールがもたらす結果の方が優先されてしまったのかもしれない。

ルールがあると、ルールに対しての正しい、正しくないは
生まれてしまうのは仕方がないことだ。
だけど、そこにこだわることは、
ルールの本来の役割ではないのかもしれない。

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自分の身の回りにあるルールや決まりごと、
これから作っていく、ルールや決まりごと、
それのもたらす結果ではなく、
そのルールの本来の意味やあり方をいつも問いながら進んでいければと思う。