そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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1つ1つの事実は意外にも重たい

1/19 未来デザインWSのふり返り
〜 オンラインにて名古屋⇄静岡 をつないでもらい参加しました 〜

今日は第一局面“理念設定”と第二局面“現状把握”を行いました。

・1つ1つの事実は意外にも重たい
第二局面(現状把握)にて、今日は先月の学びを踏まえて、事実をシンプルに書くことにつとめた。そうすると、素材データを書いていく欄は自分の思っていたよりもシンプルに埋まっていった。

だから、いつもより記入欄の空白部分が目立った。
ワークを行うと、記入欄をびっしり埋めている方が、
そのワークをやっているという錯覚に襲われている自分がこれまでいたような気がした。

事実は自分が思うよりもシンプルな言葉に言い換えることができた。
でも、その1つ1つ出していく事実が、自分が思っているよりも重たいものなのだと感じた。

自分がただ流していた人との出会いや、自分の置かれている状況。
そういった1つ1つの事実を素材データとして、1つ1つ出していくと、今の自分に起きている事実はとても大きな事柄で、大切にしなければ勿体無いと感じざるおえなかった。今までその事実を真剣に見つめていなかった自分に気づいた。

この事実の重みをどうして感じられなかったのだろうか?と考えると、
やはり起こっている事実に対して自分の観念を紐付けて、
その事実を片付けてしまっているのだと思う。
それは本当にもったいないというか、この事実という重みをいつも感じることができる自分でありたい。

それがきっと、今を生きるということなのだと思うし、
1つ1つの縁を大切にしていくことなのだと思った。
(悟りはゴールではなく、スタートという言葉を思い出した)

自分はこれから何をしていけばいいのだろうか、と考えるために、
僕は未来デザインのワークを行ったのだけれど、
今ある自分の環境をしっかり事実として把握してみること、
自然と自分がやれること、やった方がいいことが見えてきたように思う。

自分の今を変えたくて、今を嘆く前に、まず自分の今を事実として掴んでみる。
そうすると、自分の今を嘆く必要なんてなくて、
自分の今を受け入れて、そこから始めようと思えてくる気がする。

今日のワークでは、この事実の重みが何より大きな気づきだった。
この気づきも先月の実践があったから感じられたことのように思う。
この第一、第二局面をまずは何度も繰り返し実践していきたいと思った。

前回(12/22)の振り返り

現状把握 観念ではなく事実を - そのまんまたろうのブログ

今和次郎と考現学 暮らしの“今”をとらえた〈目〉と〈手〉

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考現学の方法の特徴は、徹底した客観的観察にある。それもすべての実地において、実情をみる、というところにある。社会の現実がどうなっているかを、忠実に観察し、記録するのである。考古学者が古墳の発掘において、すべての出土品を綿密にていねいに調べるように、考現学者は、ひとつの部屋にあるものを、細大もらさず、綿密にていねいに調べあげるのである。

 

あるいはまた、動物の行動や習性を観察するように、考現学者は現代人の行動と習性を観察するのである。生物学者が一定区域のなかに、どのような生物がどれだけ生存しているかしらべあげるように、考現学者は、現代社会の一定区域のなかに、どのような社会現象がどれほど生起しているかを、徹底的に調べ上げるのである。

 

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そしておもしろいのは、昆虫学者が野外において昆虫を採集し、植物学者が植物を採集するように、考現学者は街頭において風俗を「採集」するのである。採集の用具として、捕虫網や胴乱のかわりに、考現学者はノートと鉛筆を持ち、ストップウォッチやカウンター、巻尺、望遠鏡をもつのである。そこにしめされているのは、徹底した野外科学者(フィールド・サイエンティスト)の姿勢である。その意味では、考現学というのは、現代の社会をフィールドにした、社会博物学であるといってもよいのだろうか。

 

今和次郎考現学 暮らしの“今”をとらえた〈目〉と〈手〉 より引用

 

https://www.amazon.co.jp/今和次郎と考現学-暮らしの“今-をとらえた%E3%80%88目〉と%E3%80%88手〉-KAWADE道の手帖/dp/4309740480/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1547734735&sr=8-2&keywords=今和次郎

 

「書いている時」って本当に「ひとり」

昨日の考現学で、以下の言葉が出てきた。

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・書きながら気づいていく、
学んでいくというスタイルは、
自分に合っているのかもしれません。

・「書く」ということは
意外と僕にとっては大切な行為なのだと
こうやって書きながら感じずにはいられません。

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書くことは、自分にとっては大切な行為なのだという実感が、
昨日の考現学を書いていてすごくあった。

なぜ、書いているといろんな気づきが生まれてくるのか?
ということがすごく不思議であり、僕の問いとしてある。

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ひとつ、「時間の所有感」が言えるのかもしれない。

書いている時は、完全に「ひとり」の時間であって、
誰にも邪魔されないし、誰にも分断されることはない。
だからこそ、継続的に自分が自分の時間を所有できる。

だけれど、日常生活において、意外とそれは難しいように思う。
他者と一緒にいれば、誰かが声をかけてくる時もあるし、
誰かのあの行為が気になって、自分の時間に「他者」が入って来る。
そう思うと、「書いている時」って本当に「ひとり」なんだと思う。

ひとりでいる時間は、時間を分断されずに、継続的に自分が所有できる。
そして、その時間が分断されずに、継続的であることは、
「書く」という行為のすごく特徴的な部分だなと思った。

この流れている時間を、果たして誰と所有しているものなのか?と意識して捉えてみたい。

そして、個人の「ひとり」の時間を守ることや作ることは、
個人が気づき、学ぶことにおいてとっても大切なのだと思う。

そういう意味で、「書く」という行為は、
自分の「ひとり」の時間を守ることのできるスタイルなのだと思う。

形さがし


みんながうまくいくように、みんなが心地よくいられるように、
そのためにどうしたらいいのかってことを一生懸命考えていた。

どういう規則で、どういうビジョンで、
どういう伝え方をすればみんなが共通認識をもって、
心地よく進んでいけるのだろうかということをテーマにここまでやってきた。

みんなひとりひとり置かれている状況も違う中で、
みんなが、そしてひとりひとりが納得できるような
「形」はどこにあるのかを探してきた。

でも、どれだけ話しても、誰かが葛藤状態になってしまう。
だから、どうすればいいのか考えて、話し合って進んできた。

でも、その葛藤状態がない「形」というのはないのかもしれない。
(その「形」というのは、ルールや規則のようなもの)
というか、逆に言えば、その「形」というのは、
もしかしたら、意外となんだっていいのかもしれない。

一番大切なことは、その「形」の中に生まれる葛藤をみんなが気づくことができて、
それを受け入れられる空気が、その「形」の中に流れているか。ということなのかもしれない。

そして、その「空気」は
「聞く」という時間と空間が用意されているか。
その時間と空間の中で、聞く人の「聞く姿勢」が保たれているのかどうか。ということがとっても大切なんじゃないかと思った。

その葛藤を「個」が「形」の中に出せること、
その「葛藤」を「形」の中にいるメンバーが受け入れて、
それを学びに変えることができる空気こそ大事なのだ。

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完璧な「形」があったら、きっとみんなうまくいっているだろう。
これまで多くの人が、その「形」を模索し、
その「形」を考えてきただろう。

その「形」を扱う対象が、固定的な(変化のない)ものであれば、
その「形」は機能するのかもしれない。
でも、その「形」を扱うのは、僕たち人間であって、
人間なんて、いつも変化していて、人の「考え」とか「想い」なんて、
1日経てば変わるなんてことはよくある。1秒でも変わる。

そんな変化が当たり前の人間にとっての「形」は、
なんでもいいのかもしれない。
というよりも、人間が変化が当たり前とする存在であるのだから、
「形」もまた常に変化しなければいけない。

だけれども、その「形」が人間と同じスピードで変化し、
対応することなんて不可能である。
だから、「形」の中に葛藤(不満とか不安ともいえる)が
生まれることは当然なのだろう。

だからこそ、「形」の中に生まれる葛藤を、どう扱っていくのか?
ということが何よりも大切になってくるのだろう。
その葛藤が「形」の中に確かに生まれてきて、
それをみんなが受け入れていけば、
自然と「形」は変化していくのだろう。

だけれども、その葛藤を個にとどめてしまい
「形」の中に生まれることがなければ、きっと「形」の中にいる
「個」という存在が消えていく、離れていってしまうだろう。
それが、よくおこる組織の崩壊、解散なのかもしれない。

だから、なにより大切なことは、
「形」というものにこだわらずに、
その「形」の中に必ず起こりうる「葛藤」をまずはキャッチすること、
キャッチできるための環境を「形」の中に整えることなのだろう。

その環境を常に整えていけさえすれば、
「形」は自然と「形」の中にいる人の変化とともに変化していくのだろう。


 

Facebookに投稿すること

Facebookに投稿してみると、
人からコメントがついたりする。
そのコメントが意外な人からだったり、
コメントの内容によって、自分自身が励まされたり、
見てくれた、読んでくれたんだという嬉しさを感じる時もある。

そうやって、自分が外に何か働きかければ、
何かしら反応が生まれてくる。
その反応を感じて、また働きかける。

何もしなければ、何も反応はないわけで、
とてもシンプルなんだけど、何かを自分から働きかければ、
何かが必ず生まれるということを、改めて感じている。

その反応は、自分では予想がつくことではないし、
自分では意図できない「反応」である。

自分の捉えられる自分という範囲を超えて
自分を認識していきたいと思うのならば、
そうやって、働きかけて、反応を拾っていけばいい。

自分では意図も予測もつかない反応を
起こす働きかけは、自分を考えていくためには大切なことなのだと思う。

答えがプリントの裏にあること

答えがプリントの裏にあること

 

らくだ教材のプリントは、答えがプリントの裏に書かれている。
僕の小学校、中学校、高校までの学習を振り返ると、よく答えの冊子をなくした。。。(笑)


大体の問題集は、答えと問題が別の冊子になっていて、
問題を解いたはいいけれど、答えの冊子がどこかに行ってしまったり、
答えの冊子があったとしても、めちゃくちゃ見にくかったりして、
答え合わせしていると、他のところの答えをみてたりする。。。


問題のレイアウトとは違うから、どこが問題の答えなのかを探すのにも時間がかかったり、答え合わせをするのにも一苦労した覚えがある。


らくだの教材は、その点、問題用紙の裏面に回答が書かれていて
すぐに答え合わせに取り組むことができる。
問題と同じレイアウトということもあって、
問題の答えの場所がすぐにわかることもとても分かりやすい。


子どもが自分で丸つけ・直しができる教材として、
かなり丸つけと直しがしやすい形になっていることがわかる。

裏面に書いていれば、子どもも答えの冊子を無くさなくて済む。
(問題と答えが分かれていたら、答えを家に忘れたとか、無くしたとかそういう問題はおきるだろう)

問題を解いて時間的にも「すぐに」丸つけに取り掛かることができることは、
自分で丸つけ・直しをすることにおいてとても大切なように感じる。
問題を解き終わった後は、自分が解いたという実感があるから、
問題ができたか、できなかったか、ということに対しての実感も残る。

もし問題を解いて、丸つけするまでに答えの冊子を探して時間が経ってしまったり、
回答用紙が見にくくて、丸つけするのにストレスがあったら、
自分で解いたという実感がどんどん薄れていく。
そうすると、丸つけ・直しに対してもだんだんと意欲がなくなるし、
丸つけしなくなったら、結局自分ができたのか、できなかったのかも曖昧になって、
学習は進んでいかないのだろう。

その点で、答えが裏に書いてある作りになっているらくだのプリントは、
子どもが自分で丸つけ・直しができるために工夫されている1つのポイントなのだと思う。
僕が、よく答えの冊子をなくしていたので、このありがたみはとってもわかる。

指導する先生だって、答えの冊子を忘れたりする子どもの対応をしなくてすむ。

その点で、答えがただ裏に書いているだけなのだけど、
ただ裏に書いてあることのもたらしていることは、かなり大きいんじゃないかと思った。