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そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

必ずやってくる変化

必ずやってくる変化

 

僕が年齢を重ねていくにつれて、

小さかった時に考えなかったことを考えるようになったり、
考えられるようになった。
 
それと同じように、
どれだけ歳をとったとしても、
おじいちゃん、おばあちゃんも
昔では考えられなかったことを
考えられるようになっているのかもしれない。
 
でも、言葉がすっと出てこなかったり、
すぐ物忘れをしてしまったり、
何度も同じ話をしたり。
体の機能が低下し、動けなくなったり、
 
そういう姿をみると、
もうボケが始まった。とか、
衰えて、全ての機能が低下する。という風に思ってしまいがちだけれど、
どれだけ歳をとったとしても、
「こころ」は、「考えること」だけは、
 衰えず進み続けているのかもしれない。
 
僕たちから見えるおじいちゃん、おばあちゃんの姿は、
もしかしたら、「ぼけている」ように見えるのかもしれないけど、
外には表現されない言葉が、
おじいちゃん、おばあちゃんの中にはあるのかもしれない。
 
僕の年齢では、まだ考えたことや、思い浮かべたことを、
自分の外に出すこと(表現すること)がスムーズにできる方だ。
 
だからこうやって、考えたことを文字に起こしたり、
言葉として話すことができるようになってきた。
そして、それを出せることで、
すっきりしたり、自分を癒していることがあったりする。
 
でも歳をとると、思うこと、考えることはより増えていき、
 できるようになっていく一方で、
 そこの部分の自分の外へ出すこと(表現すること)の機能は衰えるのかもしれない。
 
 
おじいちゃん、おばあちゃんは
 その葛藤の中を生きているのかもしれない。
僕たちには見えない言葉が、
こころの中ではたくさんある。でも、それがなかなか外に出すことができない。
外に出ない分、自分でもすっきりしない。(それは自分を癒すことまでも、許されない状態なのかもしれない)
そしてさらに、周りの人からは「ぼけた」こととされ、
それとしての優しさだったり、気遣いをされる。
 
でも、本当におじいちゃん、おばあちゃんたちが求めていることは、
その見えない言葉のような、
いつまでも進んでいる「考える力」のような、
それをこころといってもいいのかもしれないけれど、
そういう力のような存在がまだあるということの理解なのかもしれない。
 
それは、どんなに同じことを繰り返し話したとしても、
どんなに言葉を出すことに時間がかかったとしても、
話を聞いてあげることだったり、
 
その見えない言葉のような存在を思い浮かべて、
僕たちから、おじいちゃん、おばあちゃんの言葉を、
こころを、理解しようとする姿勢が必要なのかもしれないなと思いました。
 
*** *** ***
 
時間が流れているわけだから、
僕の家族もみんな歳をとっていきます。
おじいちゃん、おばあちゃんも、
僕が小さかったときのおじいちゃん、おばあちゃんの姿から変化しているし、
僕自身も、もちろん変化しています。
 
そして、ここで言っている変化というのは、
 「考え方」とか、「価値観」の変化というよりも、
もっと大きな「衰え」とか、「老い」ということです。
 
この「変化」というのは、誰しも起こることだし、
家族という深いつながりの中で
生きているのならば、必ず直面する「変化」だと思います。
 
正直、おじいちゃんやおばあちゃんと久しぶりに会うと、
その「老い」のような変化は、
 僕の想像よりもかなり一時点を超えるとスピードが増していくし、
この先、何が起こって、どう進んで行くのか想像できない部分がたくさんあります。
 
そして、その「変化」をみんなが受け入れていくこと、
理解していくことはとっても難しいことだと思うし、
その「変化」をきっかけにいろんな問題が生まれることだってあると思います。
 
 だからこそ、僕の中でも悲しくなったり、
不安になったりすることもあるのだけれど、
 その「変化」をどう捉えて、
どうやって受け入れていくのか?ということを自分に問いかけ、
 考える続けるしかないのだと思っています。
 
** ** **
今日は、パートナーのおじいちゃん(今年90歳)と
ゆっくりお話しする機会がありました。(戦争のお話しをたくさん聞きました。)
結局、自分がおじいちゃんにならなければわからないことなんだけれど、
「沈黙も言葉」という言葉や「家族のゆくえ」、べてるの人たち、寺子屋塾で話されること、まなゆいなどで感じていることなどを思い浮かべながら、今日はこのことについて考えてみました。
 
 

 

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まなゆい 「沈黙も言葉」

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「沈黙も言葉」

 

言葉を大切にするって、
いったいどういうことなのだろうか。
 
まなゆいをやっていると、
「沈黙」の時間があります。
 
目の前の人が、言葉が出てこなくても、
ただただそんな目の前の人の姿を、
受け入れ、認め、ゆるし、愛していく。
 
それは、相手が言葉を放つことを「待っている」というよりも、
目の前の人が、自分自身に問いかけている言葉、
その人の中で生まれ、その人の中で完結する「言葉」を大切にしている時間なのだと思います。
 
誰かに何かを伝えたり、
自分の外へ表現するための「言葉」も大事なわけだけれど、
自分の中に生まれ、
自分の中で完結する、
決して音として、文字として表現されない「言葉」だって、
同じくらい大事なんだ。
 
まなゆいの中で出会う「沈黙」の時間は、
そんな相手の「言葉」を大事にしている時間なのだと思います。
 
二人の間に生まれる状況は「沈黙」といえる状態なのかもしれないけれど、
聞こえないけど、存在する「言葉」までも大切にしている、
 そんな深く優しい時間なのだと思います。
 
 
*去年の8月に書いた記事からさらに書いてみました*

 
「沈黙も言葉」という言葉は、
吉本隆明さんの「ひとり」という本の表紙に書かれていて、
その本を読んだときに、この8月の記事を思い出しました(^ ^)
 
 
 
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事実を浮かび上がらせるための「めやす」

事実を浮かび上がらせるための「めやす」

 
らくだメソッドでは、
「めやすの時間内にできること&ミス3問以内」という「めやす」が設けられています。
この「めやす」があることで、当たり前だけれど「できる」「できない」という事実が生まれてきます。
 
この2つの「めやす」は「わかるーわからない」ではなく、
「できるーできない」という基準となっています。
 
この「できるーできない」という視点からのめやすが、
より事実を詳細に、明確に浮かび上がらせてくれていると思います。
 
たとえば、
「めやすの時間内にできたけれど、ミスが3問以上の時」
この事実からみえてくる自分は、計算の正確性に欠ける自分ともいえるし、
 
「ミスはなかったけれど、めやすの時間内にできなかった時」
この事実から見えてくる自分は、
問題は解けるのだけれど、まだ頭で考えていて、
リズミカルにすらすらできない自分ともいえる。
 
このように、「できるーできない」という明確な基準があることで、
より今の自分の「事実」が浮かび上がってくるのだと思いました。
 
だからこそ、今の自分がより明確に自覚できるし、
その自分がたとえ「できない自分」であったとしても、
今のその確かな「できない現状」を把握できていれば、
人は自然と「できる」方向へ進み「たい」と思うと思います。
 
らくだメソッドではなぜできないことと向き合えるのか?
 
それはらくだメソッドの中での、
「めやす」から生まれる「できない」という体験は、
明確な「事実」を浮かび上がらせてくれます。
その事実というものが、より詳細で、明確なんだと思います。
 
だから、らくだの学習では「できないこと」と向き合えるのだと思います。
 
そして、「できないことと向き合う」という状態は、
できないことが悪いこと、できることがいいことという認識ではなく、
ただ、「自分の現状を把握している状態」
「今の自分をより掴んでいる状態」に過ぎないのだと思いました。
 
そんな状態だから、
できないことと向き合うことは辛く、苦しいわけでもなく、
何かを糧に頑張ろうと努力するわけでもなく、
ただ自然とできる方向へ向かっていけるのだと感じています。
 
** ** **
 
井上さんが補足コメントと、関連記事のご紹介とあわせてこちらにシェアしてくださいました。
 
「わかる→できる」
「できる→わかる」というアプローチの違いに関して、
とっても整理できたように思っています。
 
 
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「明確なできない状況」と出会う

なぜこのらくだメソッドだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれるのか?ということが
とっても不思議だなと思っています。
 
今までの経験でも、
「できない」ということには、たくさん出会ってきたわけだけど、
その「できない」ということからなぜか目を背けたくなったり、
できるふりをしてきました。
 
そして、「できない」ということが原動力になったとしても、
そこには必ず自分以外の誰かの存在があり、
 
あいつには負けないように、、、とか、
誰かに褒めてもらったり、
あるいは怒られないように、、、など、
 
 そんな形でしか「できない」を原動力にできずにいました。
 
 
だけど、 この1日1枚の計算プリントで、
 「できない」ということに出会えること、
そして、その体験からの気づきや発見を通して、
「できない」ということとの向き合い方が少しずつ変わってきたように思います。
 
でもなぜ、このプリントだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれ、
「できない」と向き合うことができるのか?
 
という問いがいつも生まれてきます。
 
 
*** *** ***
 
学校の勉強で「できない」ということに直面したことは、幾度となくありました。
 
そんな「わからない=できない」体験を振り返ってみると、
さまざまな「わからない」という状況があるように思います。
 
たとえば、ある問題が解けず、
なにが「わからないか?」と聞かれた時に、
自分が「わからない」と思っていることも、
そのことを理解するために、
分かっていないといけないことが、
 「わかっていない」ことだってあるし、
 
自分では、どこが分からないのか「わからない」ということだってあります。
そんな時、まわりの先生だって、親だって、本人がどこでつまづいているのかがわからない。。。。
 
「わからない」という体験を振り返ってみると、
「わからない」状況がかなり曖昧な状況にあったように思います。
一体自分はどこで、何につまづいているのか、、、と。
 
「できない」体験って、意外と曖昧だったのかも!と思います。。。
 
 
この点から考えてみると、
 らくだメソッドでは、
 自分がどこでつまづいているのか?
どこに自分がいるのか?
 
目の前の学習者が、どこでつまづいているのか、
どこから分かっていないのか?
 
ということがとてもわかりやすくできているのです。
プリントを通して出会う「できない」という状況は、
かなり「明確なできない状況」のように思います。
 
「できない」が明確であるからこそ、
「できる」ことも明確になってくるのだと思います。
 
*** *** ***
 
明確な「できない」状況を作るために。
 
この明確な「できない」という状況はどのようにしたら作ることができるのか?
 
このプリントを初めてやったとき、
かなりスモールステップで、ゆっくり進んでいくなと思いました。
1枚のプリントの中で、おさえなければいけないポイントは
ほぼ1つにまとめられていると思います。
 
初めてやったときにそのような実感があったのだけれど、
この実感こそ、明確に「できない」状況を作ってくれているのだと思います。
 
それは、このプリントが、
1つの領域を(たとえば約分とか)を徹底的に分解して、
1つ1つの要素を、丁寧に順序よくまとめてあるからだと思います。
 
そして、学習者がどんな状況にあり、どんなところでつまづくのか?
ということをみっちり考えられて作られていると思います。…ヒントの出し方が絶妙だったりします。
(平井さんは息子さんのためにこの教材を作られたというエピソードがありますが、
まさに学習者が我が息子であったからこそ、ここまで考えられたのでは!と思っています。)
 
その点から考えても、
 明確な「できない」状況を作るためには、
物事をあらゆる角度から見つめ、考えること。
物事を分解するということは、
身のまわりに起きている、「小さなこと」を大切にしていくということにも繋がるように思います。
 
明確な「できない」状況に出会えることができれば、
「できない」という自覚が芽生え、
明確な「できる」自分と出会える。
 
だからこそ、明確な「できない」状況はどのようにして生まれるのか、
ということを問い続けたいと思いました。
 
 

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「*なるべく1度で約分しなさい」

「*なるべく1度で約分しなさい」

 
小4-36
 
小4-36は、もうすでに2回やっていて、
2回とも目安の時間内に解けていました。
 
けれど、自分の中でズルしているわけではないのだけれど、
時間内に「できる」ことを意識しすぎて、
問題の中にある一つの言葉を、素直に聞いていないなという自分に
違和感を感じ、今日はその言葉を忠実にきいてもう一度やってみました。
 
その言葉というのは、
 
「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉です。
 
 
約分自体はできるのですが、
「約分がどうできるか?」ということを、
 このメッセージは僕に伝えてくれていたのだと思います。
 
たとえば、12/32。
 
1度で約分しなければ、まずは「2」で割って
6/16 … 3/8 と解いていけばよくて、
それなら時間内に「できる」のです。
 
でも、「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉の通りにやると、
最大公約数の「4」を瞬時に見つけることがまだ「できない」わけです。
 
そんなわけで、今日は以前合格できたプリントが不合格になりました。
(目安の時間内に終わりませんでした)
 
「できた」プリントが、自分の意識を変えたら「できない」プリントになるわけだから、
普段の自分は、「できない」よりも、
「できる」方向へ自然と流れてしまっていることがあるように思います。
 
でも、この段階で一度で最大位公約数を見つけることが「できる」ようになることが、
この先のプリントの課題を1つずつクリアしていくためには絶対に必要になることだと思いますし、
いつか必ず「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉をなかったことにし、
 「できる」ことを優先させたことで壁にぶつかる時がくるのだと思います。
 
 
自分をみつめるというのは、改めて難しいことだと思います。
いつも自然と「できる」方向へ流れてしまう。
自分が気づかぬうちに。
 
それがいいことで、順調なことのように思ってしまいます。
でも本当は、その「できる」ことが、
 自分を見えなくしていることがあるのです。
 
「できない」体験から、自分に気づいていくことは、
とっても楽しいことです。
新しい自分に気づけるわけだから。
 
それは「できた」経験からは得られない「新しい自分」であり、
自分の中にいた、けど気づいていなかった「新しい自分」です。
 
その自分に気づけるのは「できない」という体験からだと思います。
 
日常の中をよ〜くみれば、きっと「できない自分」に
たくさん出会えると思うけれど、
自然と「できる」方向へ流れてしまっているのだと思います。
 
なので、まずは1枚のプリントを通して「できない体験」を大切にする。
 
その体験の中で「できない」ことを通して見えてくることへの実感、
そして、その楽しさを感じ、日常の「実はできてない」体験に少しでも目をむけて、
今の自分の中にいる、「新しい自分」「気づいていない自分」を感じていきたいと思っています。
 
 
 
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家族のゆくえ

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 階層や階級の動かしようもなく見える状態も、家族の崩壊につながる家庭内犯罪の凶悪化も米欧先進社会の状態を後追いしている状態も、すでに露出し始めている。

これは希望でもあり絶望でもある必然と考えてよい。

 私が自分の貧弱な思弁と体験的な実感と、現在まで持続してきた思想的な営為とを挙げて率直に言えることは、「人間力」(人間が理想の可能性を追求する力)と「想像力」を個々人がもつことだと考え、そう述べてきた。

 米欧並みのこの負の先進性を極限まで後追いすることを可避するためには、この負の先進性を自己慰安的な意味で自意識化するほかならないからだ。社会や政治権力の文化史と文明史に基づく先進性が必要だとするなら、自己意識の底まで届く内省のほかにないとおもえる。いいかえれば、自意識的に自分たちの構想力を付け加えるべき時に至っているとおもえる。

「構想力」「理想力」、あるいは勝手な言葉を使えば「人間力」、それをもって歴史の傍流をつくり出すほかない。わたしにはいまそういう思いが蔽いがたくやってくる。

 

 

過去と未来について

「過去について考えることは、未来について考えることと同じである」

 

寺子屋塾でお世話になっている、
井上さんのFBで目に止まったこの言葉、
 
正直意味がよくわからなかったのだけれど、
この一週間でこの言葉に少しだけ近づけたような気がする。
 
僕が今この瞬間に後悔すること、
何かをしておけばよかった、、、
なんでこうなってしまったのだろう、、、
 
そうして「過去」を考えていることは、
ただ「過去」を考えているだけだと思っていた。
 
でも、その「過去」を後悔したりしながら、
「未来」も同時に存在しているときがある。
 
過去を後悔しながら、
「次は絶対〜してやる、、、」とか、
「このままいったらやばい、、、」とか、
 
かならずそこには「未来」がある。
 
「過去」と「未来」、完全にこの二つを分けて考えていて、
この二つが合わさることなんて考えたことがなかった。
 
だって、言葉として「過去」「未来」って分けられているから。
 
でも、実際は過去も未来もこの瞬間の中にある。
あるのは本当に、この今、この瞬間だけなんだ!