そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

ルールがあるから自由になれる。

インタビューゲームには、3つのルールが決められている。

そのルールのおかげで、
今、どんな話し方をしているのか、どんな聞き方をしているのか、
相手はどんな話し方をしているのか、どんな聞き方をしているのかと言うように、
自分のコミュニケーションにおける現状を把握することができるように思う。

 

以前、書いたインタビューゲームのルールについての記事

taroshio.hatenablog.com


そこから考えてみると、ルールは何のためにあるのか?
ルールや決まりごとに対して、
どういった意味を見いだすことができればいいのか?と思った。

これまで、ルールや決まりは僕にとって苦痛や、我慢といつもセットで、
ルールは僕に不自由しか与えてくれない。なんて思ったりもしていた。

振り返ってみると、そのほとんどは、
学校生活や部活動でのルールや決まりだったように思うけれど。

でも、インタビューゲームの3つのルールは、
不自由ではなく、自由をあたえてくれる。
3つのルールがあるから、僕は自分の状況を把握できるし、
こうしてみようとか、これはやめておこうとか自分で動くことができる。

それはなぜだろうか。と思ったときに、ルールは
自己確認のツールに過ぎないのかもしれないと思った。

ルールや決まりごとのおかげで、
自分がより見えるから、相手もより見えるから、
自分なりのアクションが生まれてくるのかもしれない。

ルールがなければ、相手も見えないし、
自分の現状も把握しづらくなる。
そうなると、自分はどこに向かっていけばいいのか、
何をどうやって工夫すればいいのかすら、
わからないのかもしれない。

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どうしてもルールがもたらす結果にとらわれてしまう。

この行いは、ルールや決まりの上で、
セーフとか、セーフじゃないとか。

でもルールの本来の意味合いは、
ルールがもたらす結果ではなく、
ルールの上で、それぞれが自己をよく認識し、相手を認識し、
その上で、どうアクションを起こすか。
そこにそれぞれのアイディアや工夫が生まれてくる。
そこに自由が生まれてくるのだろう。

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そう思うと、ルールとか決まりって、ただそれだけのもので、
ルールがあるからみんなが自分や相手を認識できる。
そのための指標なだけであって、
そのルールや決まりが正しいとか、倫理的にどうだとか、
あまりそこにこだわらなくてもいいのかもしれない。

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サッカーのオフサイドとか、
あんな複雑なルールは、
きっとサッカーをラグビーやアメフトとかとは
また違った楽しさを見出すために作られたルールなのかもしれない。

でも、今はそういうルールもビデオ判定で正しく判断しようとする。
本当は、そのルールから生まれる選手の創造性や判断力、
そういうところを楽しむためだけのものだったのが、
いつしか、ルールがもたらす結果の方が優先されてしまったのかもしれない。

ルールがあると、ルールに対しての正しい、正しくないは
生まれてしまうのは仕方がないことだ。
だけど、そこにこだわることは、
ルールの本来の役割ではないのかもしれない。

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自分の身の回りにあるルールや決まりごと、
これから作っていく、ルールや決まりごと、
それのもたらす結果ではなく、
そのルールの本来の意味やあり方をいつも問いながら進んでいければと思う。

 

 

 

 

 

 

草おさえ “今は未来”

昨日は、夕方から草抑えの作業をしました。

その作業の中で、今は未来だなということが実感できました。

明日はしっかりやろうとか、

今度はしっかりやろうとか、

「今」と「未来」を分けて考え方ってとっても多いと思います。

僕も、そういうこと良くしちゃうんだけど、
自然農の草抑えをして感じたことは、
「今」は必ず「未来」に影響を与えていて、
「今」と「未来」を分けることは不可能なんだということです。

つまり、今は未来なんだ。と思いました。

草抑えの作業も、苗作りや、田植えとつながっています。
それらの作業が、丁寧に、絶妙にできていると、
草抑えもとってもやりやすく、絶妙に作業ができます。

けれど、今年は苗作りがあまりうまくいかなかったために、
草抑えもかなり大変で、流れがとっても悪いのです。

だから、今をおろそかにして、未来をしっかりというのは難しくて、
今の行いも、未来につながっているということを
田んぼの作業だけでなく、いろいろなところで感じられるといいなと思いました。

そして、今目の前にあることを、
さっと流れの中でやれることが、
流れを作り、その流れに乗ることができれば、
いろんなことがスムーズに、楽にできるのかなと思いました。

 

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啓発ってなんだろうか

分かっているけどできない。

 

これはらくだの計算プリントでよく向き合うテーマである。

 

昨日、防災啓発の映画をみた。

その中で出てきた街頭インタビューで、

みんな、この分かっているけどできない。という状況の中に

いるんだということを感じた。

 

地震ための準備をしなければと思っているけど、やってない」

「やらないとと思っているけど、何をしていいかわからない」

 

そういう声がほとんどだった。

そしてその気持ちも、ものすごく共感できた。

 

防災だけでなく、多くの問題がここにあって、

みんな本当はやらないといけないことは分かっている。

 

だけど、できない。

 

そういう人たちに、「大事だ」と教えることよりも、

そういう人たちが、「分かっているけどできない」という現実と、

一人ひとりが向き合えるような関わりや、機会をどうしたら作れるのか?

そういう視点で、何かの重要性を伝えたり、必要性をとければと思う。

 

なんで、できないのか、そのできないという部分に、

自分らしい課題や、自分の大切にしていることがあると思うから。

 

みんなそれぞれ違うのだから、

みんなが自分らしい防災の形を、対策を、生み出すことが、

本当の防災なのかもしれないと感じた。

インタビューゲーム会のふり返りのふり返り

6/24に参加したインタビューゲーム4hセッション終了後に記入した感想シート(セッション後の振り返り)をもう一度振り返ってみる。

 

(2018.6.24 第8回 4hセッションを終えて)

インタビューゲームをやっていくと“問い”の大切さをいつも実感する。そんんあ中でインタビューゲームを続けていくと、“さて今日は何を聞こう?”と、問いに対して力が入ってしまう自分がいたように思う。けれど、今日のインタビューゲームでは、相手に対して“一方的な問い”ではなく、“今の自分に話したいことや、伝えたいことってありますか?”と聞くことができた。そこから話は発展して言ったように思う。

きっと、聞く人・話す人に分かれて、向かい合ったときに、すでにもうその関係性が、何かを生み出してしまっている状況にあるのだと思う。今日の僕だから板倉さんが話そうと思ってくれたことが必ずあるのだと思う。だから問いに対して力まずに、そこにいるだけでもう、二人の間で、その話し手が自然と生まれてくると思う。だから、インタビューをうまくとかじゃなくて、そのときだから掴める相手を、そして自分自身を楽しみたいと思った!

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母の前の自分、

父の前の自分、

先生の前での自分、

〜ちゃんの前の自分、

〜君の前の自分、

 

誰かとの関係性が変われば、

生まれてくる自分は必ず異なる。

 

インタビューゲームのときも同じで、

自分と対峙して、生まれてくる相手は、

自分だからこそ生み出すことができる、表現し返すことのできる相手なのだと思う。

 

だから、インタビューをうまくやろうとか、

どうしたら相手が話してくれるかとか考えずに、自分から離れないことが大事だと思った。

 

自分と相手の関係性の中で生まれてくる、相手がいるのだから。

 

 

自分が相手を生み出してしまうし、

相手によって、自分が生み出されている。

そう思うと、一人ひとりとの出会いや、共有できる時間が

とても貴重な体験のように思えてくる。

 

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書きながら、以前井上さんから紹介してもらった

マリーナ・アブラモヴィッチさんの1日8時間

3ヶ月間座り続けたパフォーマンスを思い出しました。

 

www.ted.com

 

 

 

 

 

祈れない自分

純粋に祈ることができれば、祈ればいい。

だけど、純粋に祈ることができないことのほうが僕は多い。

 

だから今、この目の前にあることを、

意味も目的もなく、ただやろう。

そんな自分でいつもいることができれば。

 

それは純粋な祈りと、おなじ祈りなのだと思った。

研究的生き方

現実を受け入れない研究などない。
そんな都合のいい研究は、研究ではない。
研究は、どんな現実でも、
受け入れなければできないものだろう。

 

そして、現実を受け入れて、
正しく事実を見つめて、観察する、
その繰り返しの中で、
新たな気づきや学びが生まれてくる。

 

だから、自分自身を研究しようと思えば
どんな自分をも、まずは受け入れなければいけないのだ。

 

研究的生き方こそ、
今を受け入れる生き方のなのだろう。
自分を受け入れて、よく観察して、自分という存在の研究材料にする。

 

そうやって、自分に矢印を向けて、
どんな自分もまず受け入れてみる。

 

この世界はたくさんの研究にあふれている。
たくさんのことをこれまでも、
そしてこれからも、人間は研究を続けていくだろう。

 

だけど、人間は一人ひとり違うのに、
自分自身の研究を忘れていたのかもしれない。

 

「研究」というスタイルは面白い。
研究は、どんな今だって、
受け入れることからスタートすることできる。
良いとか、悪いとか、損とか、得とか、
そういうものを超えて、
今この事実をまず見つめることから始めることができる。

 

そうやって、研究的生き方の中で
僕たちが繋がっていくことができれば、
ただある現実に、なんとなく僕たちが持っている
良し悪しの基準なんて、
そんなに大したことではなくなって、
それぞれの基準の中で、
自分の価値を、現実に見出せるようなるのかもしれないと思った。

名古屋大会プレ企画 ちゃっかり!当事者研究 冒頭の向谷地さんのお話

ちょっとお互いが立ち位置を変えいくっていくのを
私たちの生きる知恵として生み出したものが
当事者研究だなと思っています。

 
当事者研究が大切にしているのは、
自分の正しさを相手にどう伝えるかとか、
自分の意見をいかに説得するかとか、
話し合いをしてどう決着をつけるか、
そういうこととは全く違う発想で、
お互いが情けない人間だとか、弱い存在であることを忘れてしまうと、
単なる議論とか、ぶつかり合いになってしまう。
 
忘れられないのは93年に、
浦河は人口1万人ちょっとの小さな町、
昔あった仕事も潰れていくような町、
そんな町で自分たちで、会社を立ち上げようとした時に、
みんなで話し合いをした時に、
みんなそんなことできるわけがないと言っていて、、、
 
みんなやる気が無くてですね、
無理だ無理だ無理だと。
いわゆる健常者たちでも、店やっている人たちが普通に潰れているのに、
私たちは朝起きてもですね、出勤できるかわからない私たちが
会社作ったら一体どうなるんだということで、
みんなやる気がない中で、一人の元気なメンバーさんのおばちゃんがですね
そうだよね、あんたたちみたいな頭おかしい人たちが会社をおこして
世の中うまくいったら、世の中こんなに苦労していないよねと言い放った瞬間に、
みんな心に火がつきまして会社立ち上げようということになったんですね。
 
場違いな発言とか、不規則発言がみんなの心に火をつけるとか、
何が幸いするかわからないということが起きるのが、
場の面白さでもあるんですよね。
 
その苦難を乗り越えるために、
どんなことがあっても一人一人がちゃんと自分に向かって
研究してみようとつぶやく文化を大事にしてきました。
 
 
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研究するという発想って、なんで人間って
話し合ったり、悩んだり、考えたり、いろいろするんじゃ無くて、
研究すると、なんで人間って整ってくるんだろう?ということが、
まさに今、私が研究中であります。
 
なんで人間って、対話をすると整うのか、
これは大きな一つ研究のテーマです。
 
研究の仕方をですね、研究ですからひとりひとり全部違ってていい
研究の仕方も、十人十色でそれぞれユニークな研究スタイルをみいだして、
そして発信していただければいいんじゃないかということで。
 
決して、形式化された研究スタイルをみなさんに覚えてくださいと言っているわけでは無くて、
ぜひみなさんに勝手にやって欲しいと思っています。
 
 

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