そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

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1月ふりかえり その3

2/1に教材を返送しました。

・中学プリントあともう少し
中学プリントも残りわずかとなってきました。少し問題の形式が変わり、解けない問題が出てきました。
解けない問題に出会ったときに、自分はどうしてできないのか?という問題の間違いに対する見方が、中・高時代の自分とはやっぱり変わっていて、同じ数学の中でも、問題の捉え方、間違いに対する見方など、ものの見方って変わるもんだなーと実感しています。

 

・空き家を借りることになりました
今年に入って、空き家探しをしていたのですが、ようやくお借りできるお家が見つかりました。ここから引っ越しや、少し空き家を自分たちで手直しなどしたいと思っています。

・先を見つめるからこそよく振り返る
今回の引っ越しは、僕にとって1つの区切りとなる。
地元に戻ってきて1年半が経とうとしている。この1年半は準備期間のようなものだと捉えていた。地域の由緒ある建物に住ませてもらうことで、地域の人とも繋がることができた。さまざまな情報にも出会えた。

次の引っ越しはまた新たな段階へと入っていくように思う。

だから、この先について話したり、考えたりする時間が多くなっている。けれど、やはりこの1年半もしっかり振り返ることの重要性も実感してる。
振り返ることで、今の自分の置かれている状況は明確に見えてくる。

地域の中にいれば、自分以外の人の活動も自分にとっては大きく関わってくるし、そのことでより自分の役割もまた明確に見えてくることもある。

自分自身を振り返っていくこと
地域の視点に立って振り返っていくこと
家族の視点で振り返っていくこと

自分ひとりではなくて、あらゆる人との関係性の中に自分がいる。
だからより多くの自分視点をもって、
今の状況を振り返っていくと、自分の先がまた具体的に見えてくるような気がしている。


説明しなければ教えられないのだろうか。

らくだメソッドの学習は、三平方の定理にはいった。
中学相当の教材はあと数枚となってきた。

このらくだメソッドの教材は幼児相当(数字を学ぶ)から体験しているけれど、
「説明する」ということがほぼなく、
プリントには問題しか書かれていない。
にもかかわらず、ここまで足し算も、掛け算も、割り算も、因数分解も、
二次方程式も、平方根もできてしまう。

説明をしなくても、できるようになる。
つまり、説明をしなくても教えられる。教材なのである。

そもそも、「わからなくてもできる」ものであるし、
「できること」と「わかること」は別であり、
「わかるから」「できる」わけではないし、
「できるから」「わかる」というわけではない。ということが、
この学習を進めていく中でかなり腑に落ちてきた。

だけれど、僕自身の数学を学んできた体験を振り返っても、
何か数学の概念の説明を受けて、頭で理解して、
問題を解いて、できるようになったプロセスをたどってきたように思う。

だから、「わからなければできない」というものだと思い込んでいた部分がある。
わからない=できない のだと。

このらくだメソッドで算数・数学を学ぶプロセスは、
「わからなくてもできる」というプロセスで、
僕が算数・数学をこれまで学んできた体験とは真逆のプロセスを歩んでいる。

** ** ** **

らくだ教材で、
「わからなくてもできる」というプロセスで
算数・数学を学習する体験をここまで歩んできて、

「説明する」ということに関しての捉え方も
僕自身の中で変化してきたように思う。

いま子どもと関わっていて、
「説明して教える」とか「解説して教える」とかいうのが
ものすごく厄介なものなのだと感じてしまうときがある。

それは、説明とか解説をするということは、
自然と「立場」をうみだしてしまうからだ。

説明・解説する人=わかっている人
説明を受ける人=わかっていない人 という風に。

 

説明を受ける子どもは、説明して教える人の存在によって、
自動的に「わかっていない人」という立場を取らざる負えなくなる。

そして、「わからなければできない」というものだと思い込んでいる子どもにとっては、「説明をされる」ということは、とても苦痛を感じさせていることもあるように感じる。

説明を受けて、わからなければわからないほど、
「自分はできない」という実感が強まってしまう。

もちろん、子どもがここが分からないから、「説明してください、解説してください」と求めていれば、問題はないことなのだと思うけれど、それを求めていない子に対して「説明をする、分からせる」ということは、順序が違うのだと感じるようになってきた。

** ** **

らくだメソッドは、この順番をものすごく繊細に守っているのだと思う。
不必要な言葉=説明を省き、言葉なしで伝えていく。

僕はずっと算数や数学は、言葉(説明や解説)を頼りに学んできたから、わかって理解して、できるようになるものだとばかり思っていた。けれど、この教材をやっていると、算数とか数学って、ここまで言葉がなくても(説明がなくても)、できるようになって、理解できるものだったんだなと感じる。

指導者として、言葉に頼らず子どもと地道に向き合いながら試行錯誤したプロセスが、
このらくだのプリントには込められていると感じざるおえない。

言葉(説明すること)に頼らず、目の前の人にとって何ができるのか?目の前の人の学ぶ権利を守るためにどのような関わりが自分にはできるのか?ということを日々問い続けたいと思う。

1月のふりかえり その2

・説明しない教材

三平方の定理のプリントに取り組んでいる。三平方の定理は、いくつか角度に対しての3辺の比のパターンが決まっているから、覚えておくとスムーズに問題が解ける。

久しぶりに問題を解いていたから、その比のパターンを忘れていた。

だから調べようと思っても、らくだメソッドのプリントには問題しかない。

教科書や参考書では、「解説」や「解説」が載っているだろう。だけれど、らくだのプリントには「説明」や「解説」というものがほとんど無い。

説明しない、解説しない教材なのだと改めて感心する。

子どもと関わっていて、この「説明して教える」とか「解説して教える」とかいうのがものすごく厄介なものなのだと感じてしまうときがある。

説明とか解説って、自然と立場を生み出してしまうように感じる。

説明・解説する人=わかっている人
説明を受ける人=わかっていない人

この関係性は「説明する」「解説する」時点でどうしても生まれてしまう。
だから、説明を受ける子どもは、
説明して教える人の存在によって、
自動的に、「わかっていない人」という立場を取らざる負えなくなる。

もちろん、子どもがここが分からないから、「説明してください、解説してください」と求めていれば、何にも問題はないことなのだと思うけれど、それを求めていない子に対して「説明をする」ということは、順序が違うのだとも思う。

らくだメソッドは、この順番をものすごく繊細に守っているのだと思う。
不必要な言葉=説明を省き、言葉なしで伝えていく。

僕はずっと算数や数学は、言葉=説明をしてもらって、わかって理解して、できるようになるものだとばかり思っていたけれど、この教材をやっていると、算数とか数学って、ここまで言葉がなくても(説明がなくても)、できるようになって、理解できるものだったんだと感じる。

逆にいうと、算数・数学に限らず、自分が教える立場に立った時、
「説明すること、解説すること」の前に、何かできることはないか?
「説明すること、解説すること」で自然と自分が強い立場に立っていないか?と振り返ることは大切かもしれないと思った。

 

 

・引っ越し
6月にはまた引っ越しをしなければなりません。あっという間に一年半が過ぎようとしています。ここ最近は、貸してくれる家や、空き家を人づてに聞きまくっています。空き家はめちゃあるけれど、なかなか貸してもらえず、、、、結構落ち込みます。笑

でも、引っ越し先を探すという目的ではあるのでけれど、そのおかげでいろんな爺さん、ばあさんと仲良くなったりして、地域のつながりはかなり広がりました。

なかなかうまくはいかない現状ですが、「いい苦労してるね」とか「できない体験こそ大事なんだ」とかいう言葉がよく浮かんできて(笑)、この学習のおかげでうまくいかない現状の中でも、過度に落ち込まなかったり、楽しみを見出せたりしている自分がいることもまた、以前の自分との変化を感じています。

このべてるスタンプもなかなか日常の中でいい仕事しています。おすすめですよ( ̄▽ ̄)

bethel-net.jp



「教えない」指導者は「問い」に対して何を返せるのだろうか?

1/10に、昨年の6/3ぶりに中村教室へ足を運んだ。

 

久しぶりに実際に教室に行って、

今までとはまた教室の見え方が違ってみえた。

 

それは、自分自身の半年間での変化も意味しているようにも感じた。

 

 

・「教えない」指導者は、「問い」に対して何を返せるのだろうか?

 

らくだメソッドの学習は、学習者それぞれが自分自身の課題やテーマを自覚し、学んでいく。

指導者が、学習者の答えを持っているのではなく、学習者自身が答えを持っている。

 

だから指導者は、明確な「答え」を学習者に教えることはできない。

 

そんな学習の中で、教室には指導者と学習者の間に「なんでも質問してもよい」という共通認識がある。

 

「教えない」けれど、「なんでも質問していい」という状況の中で、

教えない指導者は、「問い」に対して何を返せるだろうか?

 

久しぶりに中村教室に行ったあとの自分を振り返ってみるとそんな「問い」が生まれてきた。

教室にいた時の自分は、井上さんの問いに対する向き合い方や、教室に生まれる「問い」がどんなところに広がり、深まっていくのか?ということを観察していたように思う。

 

教室に生まれてくるひとつひとつの「問い」には、学習者自身の状態が必ず反映されている。

 

「どんなにくだらなくても、些細な質問でも、なんでも質問してOKです。」とよく井上さんはおっしゃるけれど、

その問いの中には、その人の状態が必ず反映されている。だから全く同じ「問い」に聞こえても、

問いが生まれる学習者の状況は必ず違う。だから「同じ問い」というものはないのだと思うし、

どんなにくだらない質問でも、必ずその学習者の状況がその「問い」には含まれている。

 

 

1つの問いに対して指導者は、1つ1つ臨機応変に、

その学習者の状態を観察し、感じ、問いに対して応答していく。

 

問いに対して決しての答えを、押し付けず、命令せず、強制しない。

 

学習者が指導者に、自分の問いを発することで、

自分自身の問いがさらに深まっていく。広がっていく。

そんな応答を、学習者に対して臨機応変にできる力が、

教えない指導者には必要になってくるのかもしれない。と感じた。

 

教室では、たくさんの問いが生まれてくる。

その1つ1つの問いに対して、教えない指導者は1つ1つ学習者に沿って応答をし続けていく。

その姿勢をみながら、教えない教育を実践する指導者が、

教室の中で一番実践し続け、学んでいるのだと感じた。

 

よく「学び続ける教師」とかいう言葉も聞くけれど、

その言葉がはじめてリアルに実感できた。

 

1月の振り返り その1

1月の振り返り

 

今年の年末年始は、今までで最も年越しの実感が湧かない年末年始となったような気がする。

 

昨年を振り返ってみると、

らくだの学習はなかなか思うように進まなかった。

 

ただ、らくだの学習が思うように進まなくても、

らくだの学習を通して学んだこと、気づけたこと、

さらにはこれからやっていきたいと思えることなど、

プリントの学習を通して生まれてきたことが

たくさんあったように思う。

 

それがこの学習の面白いことだと思うし、

学習というものはそういったものなのだとも思う。

 

もちろんプリントに取り組めない日々や、

合格できない日々は心地よいものではないし、

「もっとプリント取り組めた日があっただろ」とか、

「ペース遅すぎるだろ」とか思うこともけれど、

この1年を振り返ってみても、

らくだのプリントを続けようと取り組んできてよかったなと思う。

 

 

昨年は、子どもの学習に関わる場を得たことも、

らくだの学習から学ぶこと、気づくことをさらに深めることができた要因なのだと感じている。

 

らくだのプリントとは直接関係なくても、

自分の環境がこうやって変化すれば、

これまで積み重ねてきたらくだプリントの体験が、

また違った見え方や、意味や気づきを見出してくるのだと

実感した大きな機会だった。

 

ただ取り組むこと、「できない」と思える自分を受け入れて、切り替えて続けていく。

ただそれだけで、自然といろんな価値が見出されていく。

 

そのことをいつでも実感していられたらいいのだけれど、

その実感はいつも味わっていられるわけではないし、

続けていると必ず、できない行き詰まりがあって、

そういうときに意味とか気づきとか求めてしまいがちである。

 

だからこそ、つながりの中で学習を続けていくことの重要性を感じる。

もし自分一人だったら、できない行き詰まりの中にいられなくて、

もうプリントはやめてたかもしれない。

 

できない行き詰まりの中でもやめずに、続けられたのは

自分の続けようとする意志ではあるのだけれど、

それはきっと、つながり(寺子屋塾のみなさん)の中に身を置いていたからにちがいない。

 

これも、セルフラーニングは一人ではできない。という言葉におさめられるように思う。

 

そんなつながりと、つながりを継続できるシステム・教材があることが

もう学習を始めて3年になるので当たり前になってきてはいるのだけれど、

3年経ったからこそ、このつながりの中で学習できていることが

すごく貴重なことなのだと感じられるようにもなった。

 

まだ中学プリントではあるけれど、

1日1日、1枚1枚のプリントと、そして自分自身と向き合っていく日々を

これからも積み重ねていけたらと思う。

 

寺子屋塾のみなさま、本年もどうぞよろしくお願い致します!

 

 

 

なんでも自己決定すればいいのだろうか?

なんでも自己決定すればいいのだろうか?

 

 

自分で決めることはとても重要だと思う。

じゃあ、「なんだって自分で決めなさい」というように、

自己決定を尊重することが果たして重要なのだろうか?

 

その問いに対して、YESと

自信を持って言うことはできない自分がいる。

 

というのは、

「どのように」自分で決めるのか?

「何をもって」自分で決めるのか?ということが、

自己決定を支える重要な要素なのだと感じる。

 

 

スクールの子どもたちとの関わりを通してそんなことを強く感じている。

 

 

** ** ** **

 

 

スクールで子どもの学習に関わるようになって、

子どもの学習の状況を観察する中で、

子どもたちの自己決定の様子に目がいくようになった。

 

らくだメソッドの教材では、「記録表」の存在が、

この学習者の自己決定を支える重要なツールとなっている。

 

ただ、今のスクールではらくだ教材は使用できない中で、

どうしたらこの記録表での役割を見出せるのか?ということを考えていた。

 

まずこの2ヶ月で、学習した教材をストック&記録していくことを試みてみた。(子どもたちが取り組んだプリントを、1日の終わりに必ずまとめる)

 

 

まとめ方は、1日の最後にやったプリントをまとめて、その最上部のプリントに ・日付 ・プリントの内容(因数分解とか) ・どのくらいできたか(◎:答えをみないで完全できた ・△:できない箇所あり ・×:まったくできない) を書いておく。

 

いきなり子どもに学習した教材をストック&記録してもらうのはハードルが高いので、まずは僕がこっそりとはじめてみた。そして、翌週子どもと会ったときは、その記録をみながら今日はどこをやろうか?(先週・先々週はここやったね)ともちかけてみる。

 

らくだの記録表ほど学習の記録の正確性はないけれど、この学習記録を共有することで、子どもたちとの関係性や、子どもの学習に向かう姿勢が変わったように僕は感じている。

 

今までは、子どもが学習内容を自己決定していたとしても、その日その日の気分で教材を決めていたように感じるけれど、自分の学習の記録をもとに、今日の自分の学習の選択をしていく経験はこれまでになかった「選択方法」なのだと思う。

 

先週の記録をもとに、今日の学習の選択をすれば、自分の選択の自覚も深まる。今までは適当に、気分で決めていた選択が、少しだけ今の自分に最適だと感じる選択につながっていく。そこに選択の自覚が生まれてくる。

選択への自覚があれば、学習に対する姿勢も変わってくる。

 

 

本当にわずかなことなのだけれど、

そうやって少しだけ、学習の環境(仕組み)を変えるだけで、人の学ぶ姿勢って自然と生まれてくるのかもしれないと感じている。

 

自分のこれまでの軌跡がより鮮明残されていれば、

自分のこれから進みたい方向が自分の中に見えてくる。

自分の進みたい方向がイメージできたら、

自然と進みたくなる。

 

それが学習の姿勢に現れてくるだろう。

 

だからこそ、「自己決定」を支える

「どのように」自分で決めるのか?

「何をもって」自分で決めるのか?という視点で、

子どもの学習に関われたらと思う。

 

映画『あん』 徳江さんの言葉

 

あんを炊いているときの私は、いつも小豆の言葉に耳をすましていました。それは小豆が見てきた雨の日や晴れの日を想像することです。


どんな風に炊かれて小豆がここまでやってきたのか、
旅の話を聞いてあげること、そう聞くんです。


この世にあるものは全て言葉を持っていると私は信じています。
日差しや風に対してでさえ、
耳を澄ますことができるのではないかと思うのです。


・・・


私たちは、この世を見るために聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくても
私たちは、私たちには、生きる意味があるのよ。

(映画 「あん」)

 

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