そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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9月の振り返り

ここ最近、プリントに取り組まない期間がどんどん長くなっている。

 

振り返りの記事を書くこともなくなってきている。

今こうして、久しぶりにパソコンに向かって、

書いていると、久しぶりにこの書くことの心地よさを感じている。

 

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ここ最近、自然農を長年実践されている方が

youtubeをはじめられた。

僕は自然農をはじめて5年になる。

 

自然農は基本的な種の撒き方や、定植の仕方などは、

とてもシンプルで、何度も同じ説明を聞いている。

 

でも、この方のyoutubeをみて、

僕は基本的なことが全くわかっていなかったことに気づいた。

そのことに少し気づけたおかげで、

今年の秋はいつもと違った田畑の姿になっている。

 

僕は自分がいつの間にか分かったつもりになっていた。

そんな気づきがあり、これは田畑においてだけ言えることではなく、

らくだのプリントでも、あらゆることにおいて言えるのではないか?と感じた。

 

 

1日1枚のプリントに取り組むことも、

問題を解いて記録表に記入することも

とてもシンプルで、簡単なことであって、

そのシンプルさゆえ、何かその行いを軽視したり、

その行いの意味や価値をもう「分かった」と思い込んでいる自分がいるように感じる。

 

これまで、らくだの学習を通してあらゆる気づきを得てきた。

 

そのことで、この教材のすごさや、面白さを感じてきた。

 

この学習を始める前にはわからなかったこと、

見えなかったことがみえてきた実感があるし、

ここまで続けてきた中で、わからなかったものが「わかった」という実感もある。

 

でも一回、そんなことももう一度手放して、

もう一度やり直したいと思うようになった。

 

気づいたこと、学んだことって、

その時点でもう過去のことであって、

自分で気づいたことは、自分の「身」になるのだと思う。

 

いつまでも、その気づいたこと・学んだことにとらわれてはいけないのだと思う。

 

自分はわかっている。という状態は、

過去の自分を生きているといえるように感じる。

 

気づいても、それを手放して、また挑んでいく。

 

気づいたとき、それはもう自分の身になっているのだから、

気づいたことも、学んだことも手放して、

また今目の前にあるこの瞬間を生きていけたらと思う。

 

その今というのが、目の前にある1枚のプリントなのだろう。とここで書いても、

どうしても、わかったつもりになってしまう自分は

この先必ず出てきてしまうということもなんとなく想像ができる。

 

わかったつもりにならない状態でいつもいることは難しい。

 

でもわかったつもりになっている自分に気づける自分でいること、

それならできるかもしれないと思った。

 

その役割として、このプリントがあるようにも感じている。

 

どんなにプリントに取り組むことができなくても、

僕はこの学習は続けていきたいなと思う。

プリントという1つのツールがなければ、

僕は、どんなことも「わかったつもり」となって生きていってしまうかもしれない。

 

それは、「今」を生きているといえるのだろうか。

 

今この瞬間は、「今」しかないのだから、

できることなら僕は、「今」を生きたい。

 

 

 

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今の僕は、とにかくプリントができないし、

名前すらかけていないし、

郵送も遅れてしまうし、、、、、

 

もうすべてのことがズレていってしまっている。

 

できているときは、

プリントをやることも、

郵送のために、クイックポストでラベルを作ることも、

すごくスムーズにいくのだけれど、

今は、すべての1つ1つの行いが面倒くさいと思ったり、

まだできていない、、、と感じたり、

いちいち自分の反応が生まれてくる。

 

今までプリント取り組んで、

郵送の準備して、ポストに投函することが「できていた」ことがすごいと思う。

 

今の自分が普通にできていることも、

きっと様々な「できる」ということが重なりあって、

連動して「できている」のだと思う。

 

井上さんからコメントをいただいたように、

まず返送日を守るところに照準をしぼってみることから、

もう一度はじめていきたいと思う。