そのまんまたろうのブログ

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2018.6.2 「なんで計算プリントなんですか?」

「なんで計算プリントなんですか?」
「計算プリントでなくても、日記とか文章とか
そういうものでも、よかったのではないですか?」

という質問を、大学生がしてくれた。

「毎日何かを続ける」というやり方であれば、
らくだメソッドでなくても、いいのかもしれない。

けれど、この「らくだメソッドだからこそ」という点も
もちろんあるように感じている。

それを、「できない体験」という点から考えてみる。

たとえば、毎日文章を書くことや、
毎日掃除をすることを毎日続けた時にも、
「できない体験」は毎日続ける中で必ず体験できるだろう。

文章が書けなかった日、文章が書けても少ししか書けなかった日、
掃除ができなかった日、掃除ができても、少し雑になってしまった日。

こういった、できない体験ができるのかな?と思った。

ただ、この「できない体験」は、
どこまで明確にその「できなかった事実」を自分は自覚できるだろうか。

文章が「うまく書けた」「うまく書けなかった」
この「できる⇄できない」の境界は一体どこにあるのだろうか?
掃除が「きれいにできた」「きれいにできなかった」
この「きれいにできる⇄きれいにできない」の境界は、一体どこにあるのだろうか?

こうやってみていくと、「できない体験」というのは、
意外と曖昧な自分の認識の上に存在していて、
何ができるというのか、
何ができないというのか、が
曖昧なのにもかかわらず、できないことに落ち込み、できることに喜んでいることが多いのかもしれない。

じゃあ、「らくだめそっどだからこそ」のできない体験とはなんだろうか?

大学生に問われて、毎日続けることが
「算数」=「数字」であることでみえてくることがあるのだと思った。

らくだメソッドで、生まれるできない体験は、
「今日はプリントができたか、できないか」
「プリントは目安の“時間”でできたか、できないか」
「ミスは3問以内でできたか、できないか」

時間や、ミスの「数」を基準に自分の「できない体験」つかむことができる。
できる⇄できない の境界も、
めやすの時間や、ミスのめやすを設定することで、
自分の認識としての「基準」ではなく、(認識はいつも変わってしまう)
「数字」としてその基準を設定することができる。

だから、いつも基準はぶれずに、
できる⇄できない の現実=事実をつかむことができる。
「今の自分」がその現実を間違えなく作り出しているのだから、
その事実をつかむことで、「今の自分」をつかむことできる。

ただみてみると、
計算プリントに取り組んだ時間帯、解くまでにかかった時間、ミスの数 だけなのだけれど、自分の事実を「数字」として残すことの意味はとても大きいのだと思う。

自分がこの今の現実を生み出しているのは間違えないことなのだけれど、
その「今」の事実を、正確に見つめることは意外と難しい。
僕たちはいろんな意味づけを、自分自身にもしていて、
自分の都合のいいように自分をとらえている。
逆に、その意味づけで自分を苦しめていることだって多い。

だけれど、その意味づけすら一旦横に置いておいて、
自分の事実をただ見つめてみる。

そうすることで、自分の都合のいい見方、捉え方を超えて、
自分はどうしたいか、はじめて自分自身に問うことができるのだと思う。

この1枚の計算プリントは、
自分の事実をつかみ、そこから自分をみつめ、
自分と向き合うことができるツールとして、
大きな意味を持っているのだとあらためて感じた。

 

2018.5.25 5月のふりかえり

5月のふりかえり

 
5月のプリントの学習を振り返ってみる。
5月は、おそらくこの学習を開始して、
 プリントができなかった日が一番多かったように思う。
 
この5月を振り返ってみると、
様々なことがあった。
実家の静岡で畑と家を借りられるようになったり、
主催のまなゆい合宿イベントが予定されていたり。
 
毎週毎週実家に戻ったり、
県外へいく予定があったりと、
ばたばたした月だったように思う。
 
こういう状況下で、らくだのプリントに対して
「まぁ今日はいいか。」という気持ちになることが多い。
 
でも、らくだのプリントを忘れた日は1日もない。
 
1日のどこかで必ず、「まだ今日はプリントに取り組んでいないな」という事実に直面する。
だけれど、そのまま夜になり、
「まぁ今日はいいか」という気持ちになる。
 
1日の中で、畑の作業が進んだり、
イベントの準備を進めることができたり、
何か1日の中で「できた」という自分の中での
充足感があると、その充足感に浸り、
らくだのプリントに対して「まぁ今日はいいか」という
思いが浮かび上がってくるように思う。
 
1日の中のどこかで満足できれば、やらなくてもいい。みたいな、
そういう物事に取り組む姿勢が僕の中にはあるように思う。
 
そう思うと、自分がらくだのプリントができない理由は、
らくだの計算プリントが面倒くさいとか、
嫌とか、難しいとか、そういうプリント自体が理由ではないのかもしれない。
 
計算プリントにそのできない理由があるのではなく、
そのできない理由は、あくまでも自分の状況ができない理由を
 生み出してしまっているということがわかる。
 
今月は、さまざまな目に見える成果を得ることができた。
 
それは、畑や家を借りることができるようになった。
まなゆい合宿イベントがいい手応えで終わることができた。
 
一方で、自分の中で「できなくなった事実」が浮かび上がっていることを
常に意識していたいとおもう。
 
一時的に何かがうまくいっているときこそ、
日常の中にある何かが、おろそかになり、
うまくいかなくなっていることが多いようにおもう。
 
そういう、目に見える成果の一方で、
失われたり、おろそかになっている現状に気づかせてくれる1日1枚のプリントは、
常日頃、自分を観察し、自分で気づき、自分で学ぶために、
僕の日常の中に馴染んだ学びのツールだ。

 

2018.5.16 充実感を疑う

先週末も実家の静岡に帰った。
畑を正式に借りることができるようになったため、
この3日間は朝からずっと畑に足を運び、
草刈りや、畝立てなど、作付けできる状態に徐々に畑を整備していく作業をした。

やはり朝から外に出て、体を目一杯使うと気持ちがいい。
疲れも溜まるけれど、それ以上に畑をゼロから始めることの楽しさが
自分の中では、充実感として感じられる。

ただここ最近、こうして実家に帰って畑の作業を進められている反面、
らくだの1日1枚のプリントができていない。

そのできない現実をまずきっちり見つめることが
今の僕にとっては一番重要なことなのだと思う。

なぜできないのか。
それはこの「充実感」なのだと思う。

畑の作業が進んで、新しいことにチャレンジする。
これは、本当に充実感を感じられるし、楽しいことだと思う。

ただ、ここで感じられる充実感と、
らくだの計算プリントは全く別のことなのだ。
何かがうまくいっていたり、気分がよければ、
1日1枚のプリントをやらなくていいとか、
やるかやらないかを、あやふやにしていいとか、そんなことは一切ない。

でも、自分の中でうまくいっていたり、
充実感を感じられると、そこに気をとられて、
そこの気分に浸りすぎて、
全く別のことにも影響を及ぼしてしまっていることが
ものすごくあるように思えてきた。

目の前にいつもある1日1枚のプリントは、
たとえ、彼女と喧嘩をして気分が悪くたって、
何か仕事でミスをして、落ち込んでいたって、
そのこととは、全く別のことなのだ。

でも、その別のことに、持ち込んでしまう。

その充実感だって、悲しい気持ちだって、
今、この目の前にあることとはきっと関係がない。

1日1枚のプリントがすっとできるためには、
そういう自分の状態に気づき、観察するしかない。そして、自分と折り合いをつけて、
目の前にある1枚のプリント=今ここに戻るしかない。

そのためには、プリントができない。やりたくない。そういう気持ちを
きっちり受け止めることなのだろう。

そのプリントができない。やりたくない。という気持ちは、
目の前にある1枚のプリント=今ここに、
何か自分が持ち込んだり、飲まれている証拠なのだと思う。

今ここに、畑はないし、今の自分は家にいる。
なのに充実感があるなんて変な話だ。

振り返りのタイミング

べてるの家の上映会が4/14にあり、

昨日(5/8)に振り返りの感想シートと、

振り返りのセッションで使った付箋を参加者の皆さんにPDFにまとめてシェアを行った。


自分としては、上映会からかなり時間が経ってしまい、

参加者に対して申し訳ない気持ちと、

そんな自分の状態に気が重たかった。

 

けれど、実際にシェアしてみると、今まではシェアした際にほとんど反応がなかったけれど、今回はシェアに対しての反応があり、結果としてシェアしてよかったなと思った。

上映会は1日であるけれど、その体験を振り返ることはいつでもできる。
4/14から5/8までの体験があるからこそ、振り返りの中で気づけることがある。

1つの体験が、時間の経過によって、
いくつもの意味合いがうまれてくる。

1つの体験を1度きりのものとせず、大事に振り返ることも大切なことだ。
そういう振り返る機会を、
場を開く人は参加者に対して与えることができれば。と思う。

待つということ 100分de名著 生きがいについて 著:神谷美恵子

「待つ」ということは実は創造的なことなんだ。

「待つ」か「行くか」と迷ったときに、「待つ」はどちらかというと消極的で、「行く」方が積極的、かつ創造的だと思いがちだろう。

 

そうではなくて、待つということが何か新しいものを生み出す

どうしても欠くことのできない営みなんだ。

 

そのときに、自分は今何もしていないとか、

こんな自分だったら、こんな風に生きている意味がないとか、そういうことを思う必要は全くない。

 

「生きがい」は一見見えるようなものの後ろに隠れていることがある。

 

待つというのは思い通り生きることができないことであって、

思い通り生きることができないということと、

あなたの人生の創造性はあまり関係ないのだ。

 

若松英輔さんの解説から)

2018.5.6

心が疲れてしまったり、

体に異変が起こっていても、

それは、自分がまだ未熟だからとか、弱いからとか、

そうやって理由や原因を自分のせいだと決めつけて、

頑張って、努力して、なんとかしようとしてしまうことが、

きっと多くの場所で起きているように思う。

 

でも、べてるの実践では、その真逆のように思う。

 

社会に合わない自分、合わせられない自分を、

無理やり矯正するのではなく、その自分がどうやったら生きていけるのか研究する。

そして、そんな自分が生きていけるような社会をつくろうとする。

 

社会を築く、街をつくるということは、

自分を知ること。自分はどんな人間なのか?そんな自分はどんな社会なら生きていけるのか?

 

個人と社会は切り離さるものではないと思った。