そのまんまたろうのブログ

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「老い」について

お正月に、高校の初蹴りがあり、

久しぶりに体を思いっきり動かした結果、

翌日は全身がかなりひどい筋肉痛になった。

 

風邪をひいているわけでもないのに、

発熱してしまった。

 

インターネットで調べてみると、

ウェイトトレーニング後など、

筋肉痛がひどいと発熱を伴うことが多くあるということがわかった。

 

階段を上るにも、

歩くにも、体が痛くて、気分が自然と沈んでいく。

そんな筋肉痛に襲われている姿と、

久しぶりにあったおばあちゃんの姿が重なった。

 

おばあちゃんは、この数年で足腰が一気に弱くなってしまった。

 

心と体は繋がっている。

 

体が整えば、心も自然と整っていく。その実感はとってもわかる。

 

老い」というものは生きていれば、

決して逃げることのできない現象のように思う。

 

老い」によって体は弱まり、

体でも痛みを感じたり、うまく動かせなくなってしまうことが、自然と生まれてくる。

 

その「老い」のなかで、どのように自分の心と向き合っていくべきなのだろうか。

 

老い」を超えるような道があるのだろうか。

 

自分もいつかは「老い」を経験する。

その前に、僕の両親が先に、「老い」のなかにいつかは入っていく。

 

そんなとき、どうすれば相手を大切にできるか、

理解できるのだろうか。

 

そう思うと、「老い」に向き合うことは、

25歳の今からでも、早くはないのだと思う。

 

 

 

 

 

サッカーの美しさって?

 

昨日は、【STEP seasonⅤ】問いストーリー 〜対話ではじまる、これからの私〜

というイベントに参加しました!

 

イベント名にも「問い」という言葉が入っていますが、グループワークにて「サッカーの美しさってなんですか?」という問いから、さまざまな話が広がっていき、参加者のみなさんとさまざまな話ができてとっても楽しかったです!

 

** ** ** ** **

 

サッカーの美しさって?

 
僕はずっとサッカーをしてきた。
今もサッカーが大好きで、
サッカーの試合があればテレビで見ることも多い。
 
最近、サッカーを観戦していて思ったことを、
今日は書いてみようと思う。
 
久しぶりにサッカーの試合を見ると、
サッカーの判定に、ビデオ判定が導入されていた。
 
この制度の導入はかなり驚きで、
このビデオ判定を使ったスポーツは、
テニスくらいしか知らなかった。
 
この、ビデオ判定を見たときに、
すごく違和感を感じた。
 
ビデオ判定をすれば、
サッカーのルールにのっとった、
正しい判定が生まれる。
ルールを守り、ルールの上で、
正しい結果が生まれることは間違えない。
 
だからビデオ判定は、
ルールを守る上で大事な役割を果たしているのかもしれない。
 
けれど、これまでサッカーを親しみ、
サッカーを楽しんできた僕にとっては、
その制度の導入によって、
サッカーの楽しさが失われているような気がするのだ。
 
じゃぁ、僕は何にサッカーの楽しさを感じていたのだろうか。
絶対的な正しい結果が生まれることで
失われているものはなんだろう?と考えてみた。
 
** ** **
 
サッカーはミスが起こることが前提のスポーツであると思う。
手ではなく、足を使う時点で、
「うまくいかない」「できない」ことの方が多い。
 
パスだって、思った通りにできることの方が少なくて、
少しのズレも、周りがサポートしあって成り立つ。
 
だから、なんのズレもなく、すべてが完璧なタイミングで、
完璧なコースで、味方と呼吸があったプレーが生まれると、
それはすごく気持ちのいい気分になる。
 
きっと、サッカーの楽しさを支えているのは、
この「ミス」や「できないこと」という部分であって、
それを前提に、フォローし、支え合う部分なんだと思う。
 
** ** **
 
そうやって考えてみると、
僕にとってサッカーをより面白くしていることは、
「正しい結果」ではないということは確かだ。
 
ビデオ判定が導入される前までは、
審判のミスを、選手も、監督も、サポーターも
受け入れてきたのだ。
 
その、審判の間違えを受け入れてきたという事実は、
サッカーの楽しさの根底にある、
ミスを受け入れて、フォローしあうというところに繋がるように思う。
 
そしてその「受け入れる」ということは、
とっても優しいことのようにも感じられる。
 
サッカーの根底にあるものを
ミスも、できないことも受け入れるという「優しさ」だ ◯
 
 
** ** **
 
ルールはなんのためにあるのだろうか。
ルールはきっと手段にすぎない。
ルールを守ることが目的ではないと思う。
 
ルールはきっと、
サッカーをするプレーヤーが、
サッカーを観戦するサポーターが
サッカーを楽しむための手段にすぎない。
 
そして、サッカーの楽しさとはきっと、
ただ正確な判定から生まれる勝ち負けではなくて、
 
人間のミスや間違えを、受け入れながら、
試合を成立させるという敵・味方の共同の作業の上にある勝ち負けのように思う。
 
サッカーの根底にある「受け入れる」という精神が、
ルールを守ることにとらわれすぎることで、
失われてしまうような気がしている。

ちょっとした余裕

 

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小6-3/4 小5までの復習 めやすの時間 10分
 
小6-3に初めて取り組んだ日が10/22、
初めて合格できた日が11/2
小6-4に初めて取り組んだ日が10/24、
初めて合格できた日が 11/23
 
10月末から、11月末はなかなかプリントが合格できない日々が続いた。
そして、11月半ばにはプリント自体ができなくなった。
 
プリントが合格できないにもかかわらず、
プリント自体ができなくなるという経験は、
この学習を開始して、
はじめて起こったパターンだったと思う。
 
プリント自体ができなくなった期間というのは、
主催したイベントの2週間前になり、
準備のことで頭がいっぱいいっぱいになっていた期間であった。
だから、プリント自体ができないのだ。と自分の中で理由をつけていたのだけれど、
今こうやってそのときの状況を振り返ってみると、
そう決めつけてしまうのは、かなり強引だなという気持ちがある。
 
というのも、この仕事が忙しい時期に
小6-3/4のプリントでなかったら、
もしかしたらプリントをやっていたのかもしれない。
 
プリントがなかなか合格できない期間に、
「仕事が忙しい」という状況に直面した。
その状況を「プリント自体ができない」理由にしていたり、
「プリントが合格できない」という状況から目を背けるために利用していたようにも思う。
 
「できないこと」を見つめることは本当に難しい。
自分が「できないことと向き合うこと」を意識していても、
自分が気づかないうちに、自分で目を背けてしまったり、
理由をつけて、できない現状をなかったことにしてしまう。
 
なぜ「できない」というのを自分の気づかないうちに、
遠ざけたり、ないもののようにしてしまっているのだろうか?
 
別に、「できない」という状況を他者から評価される環境にもないし、
誰かと競っている意識もないのに。
 
そう考えたときに、
 「できない」状況は、「気持ち悪い」と思った。
それは自分のリズムが乱され、
スムーズにできない。
自分の体が、「気持ち悪さ」を感じているのだと思った。
 
その「気持ち悪さ」というのは、
ただ、自分のリズムでできないことから生まれることであって、
なんの悪いことでもない。
でも、「気持ち悪い」から自分の意識から離れたところで、
その状況から逃れようとしてしまうのかもしれない。
 
じゃぁ、「できない状況」とどのように向き合っていくのか。
どうしたら、自分の気づかないうちに、自分で遠ざけたり、
ないもののようにしてしまわないのか?と考えると、
その「気持ちわるさ」を感じるということなのかもしれない。
 
僕はこのプリントができなかった期間に、
その気持ちわるさを感じたことはほぼなかった。
 
自分のリズムが乱れている中にいれること。
その気持ち悪い体感覚を味わえることが、
「できない」という状況から離れずにいるためには大切なことなのかもしれない。
 
できない状況というのは、
リズムが刻めない状況にいるわけで、
体が心地よく感じるということはなかなかないのではないかと思う。
 
逆に、自分のリズムで「できる」ときは心地よい。
 
でも、心地いいからといって、
自分のリズムでできることだけやっていたら、
自分の刻めるリズムは、
今と全く変わらない。
 
自分のリズムが刻めなかった状況で、
自分のリズムが刻めるようになったら、
より自分の刻めるリズムはより磨かれていくのだと思った。
 
** ** ** **
 
その、気持ちわるさを感じるには、
「余裕」が必要で、心も体もその気持ちわるさを受け入れられるくらいの、
ちょっとした余裕がないといけない。
 
余裕がなくて、いっぱいいっぱいなのに、
その「できない」という気持ち悪さの中に入っていくこと、
それを味わうということは、かなり難しい。
 
だから、心とからだにいつもちょっとだけ、
気持ち悪さを受け入れるだけの余裕を持っておく。
 
「できない」という状況と向き合うためには、
その「余裕」を持っておくことが必要なんだ。ということが、
改めて腑に落ちた。
 
 

「できない体験」から意味を生み出そうとしないこと

「できない体験」から意味を生み出そうとしないこと
 

仕事と1枚のプリントは全く別のものである。

仕事が忙しいから、プリントができない。
忙しくて時間がなくて、
1日1枚のプリントができない。
 
そんな風に思っている自分がいて、
でも、プリントと仕事は全く別物で、
「できない」ということに対して、
いろいろな事柄をひも付けて、
「できない」意味を生み出している。
 
そして意味を生み出して
できない体験に、決着をつけて安心しようとしている。
 
意味が生まれたところで、
この「できない」という体験はとどまってしまう。
 
1つのできない体験の中に、
そのできない意味はあらゆる角度から、
導き出すことができる。
深めることができる。
 
できないことへの意味づけは、
結局「わかる」(できる)の方向へ
自然と向かってしまっているように思う。
 
だから、できないことの意味なんて生み出そうと、
引き出そうとせず、
今、この自分の本当の事実に目を向けたい。
それは結局、できない自分をただみるということ。

 

【らくだメソッド】スイッチを押すこと(ストップウォッチについて)

【らくだメソッド】スイッチを押すこと(ストップウォッチについて)

 
らくだメソッドのプリント学習をやるとき、
めやすの時間を計るために、ストップウォッチを使用します。
 
そのストップウォッチを押して、問題を解き始めます。
 
僕の場合は、毎日毎日プリントがすぐに取りかかれるかというと、
全然そんなことはありません。
 
ストップウォッチのスタートのスイッチを押す瞬間まで、
プリントに取り掛かることを迷うときがあります。
(いろいろ余計なことを考えています。)
でもストップウォッチのスイッチを押してしまったら、
もう問題に取り掛かるしかありません。
 
時間は動き始めるから、もうその時間の中にはいって問題を解き始めるしかありません。
 
ps.逆に、スタートのスイッチを押すことになんの違和感もなく自然にポチッと押してプリントに取りかかれる日もあります。
 
** ** **
 
僕の場合は、1日の始め(午前中)にプリントに取り掛かることができると、
そのあとの1日の仕事の進み具合や、1日の満足感がとてもあります。
また、身の回りのこと(洗濯やお皿洗い、部屋のちょっとした掃除)に自然と体が動いていきます。
 
逆にプリントになかなか取り掛かれないときというのは、
いつ洗濯しようか、、、いつ皿洗おうか、、、と体が動かないことが多くあります。
 
らくだのプリントに取り掛かると、
「体が動くようになる」「やる気が湧いてくる」という実感はとても感じていました。
それがとても不思議で、そこに対する問いは常にあるのですが、
この「ストップウォッチを押す」という行為は、そこに何かつながりがあるように思いました。
 
** ** **
 
ストップウォッチを押すということは、
自分で「時間を動かす」ということなんだと思います。
時間は本当はいつも動いて流れているのだけれど、
 
僕はつい、過去のことや未来のことを考えてしまっていて、
本当は、時間が動いている「今」という場所にいるにもかかわらず、
その時間が動いているということに、自覚的になれずにいるのだと思います。
 
ただ、自分の「体」はいつも時間を刻んでいます。
心臓は動いているし、呼吸もしているし体はいつも動いている時間の中にある。
 
だけど、あたま(脳)は今にない状態で、
時間が動いているということを忘れてしまっています。
そういう、あたま(脳)と体の時間感覚がずれていて、
「体が動かない」のだと思います。
 
でも、らくだのプリントに取り掛かるときは必ず
ストップウォッチを押すしかない。
考え事をして、「今」にいない自分でも、
自分で時間を動かして、動いている時間に自覚的にならざるおえないのだと思います。
 
時間を動かしてしまえば、あとは動かした時間の中に入って問題を解けばいい。
そうすると、プリントに取り掛かる前は「今」になかったあたま(脳)も、だんだんと今に戻ってきます。
そうすると、プリントを終えた頃には、
あたま(脳)と体の時間は重なり合って、
プリントを終えたあとは、「体の動く自分」になっているのだと思います。
 
** ** **
 
ストップウォッチを押すということは、
本当に些細なことなのだけど、「自分で時間を動かせる」という点では、
とっても大きな意味を持つことなのだと思いました。

 

本当にできているから、 できていることはきっと気づかないのだと思った。

本当に「できるようになりたい」というのは、
「できない」との比較の中で生まれる「できる」ではなくて、
自然的な、できる自覚すらない「できる」ことなのかもしれない。
 
だから本当はできていることがいっぱいある。
でも、本当にできているから、
それは 自然的な「できる」まで
自分の中で深まっているから、
できていることはきっと気づかないのだと思った。
 

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小6-1のプリントは今まで学んできたことの復習問題。
 
割り算の暗算も、久しぶりに出てきた問題なのに自然とできていた。
 
けれど元々は、この割り算の暗算だってできなくて、
 それが時間をかけてできるようになって、
 今は自然にできている。
 
今できていることも、
 もともとはできなくて、
でもできるようになって、
 そして今となっては、
その「できる」も越えて、 自然になっているのだ。
 
今、「できない」と思えていることも、
やがて「できない」から「できる」になり、
そして、「できる」という実感もなくなり「自然」になる。
 
そう思うと、僕たちが自然にできていて、
「できている」という実感すらないことも、
「できない」からすべてはじまって、
「できる」ようになり、
さらに「できる」ことの実感すら消え自然になった。
 
「できるようになりたい」と思うけれど、
その「できる」という実感をも感じない、
「自然にできる」ということが、
「できるようになりたい」という想いの
 「できること」の向こうにあったことを気付かされた。
 
本当に「できるようになりたい」というのは、
「できない」との比較の中で生まれる「できる」ではなくて、
自然的な、できる自覚すらない「できる」ことなのかもしれない。
 
だから本当はできていることがいっぱいある。
でも、本当にできているから、
それは 自然的な「できる」まで
自分の中で深まっているから、
できていることはきっと気づかないのだと思った。
 
 

V.O.P予告篇その5『キヨシどん斯く語りき』上映会の感想と振り返りシート

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  • 私からみるとキヨシどんのどこがビョーキなのかよくわからない。けど、自分をコントロールできない衝動があるのは、ビョーキとしてみてもいいのかもしれない。自分をどうしたらいいのかよくわからなくなって、親に連れられて行くビョーインがあって良かったなぁと思う。たくさんの何かを背に人は育つけど、キヨシどんがビョーインに来たのもそういう愛の結晶であると思われた。ビタミン愛とは何か。 

 

  • 途中、何を言っているのかわからなくて、ふりかえりのときに「もっと字幕があれば良かったな」というご意見がありましたが、私もそう思っていました。聞きとれず、後になってわかった部分もあったので、それはもったいなかったなと思いました。キヨシさんがご自身の病気を受け入れてて、治らない前提で向き合われている姿はとてもカッコイイと思ってしまいました。自分の弱さをさらけ出せるあの強さはどこからくるのでしょうか。自分ももっと自分と向き合い続ければ強くなれるのかな…と思いました。

 

  • べてるの家の映画を観るのは2回目で、早坂潔さん(キヨシどん)の回は初めてでした。とくに印象的だったのは、語っているさまのあかるいことです。内容は重いことのときもあるから、それを負い目なくフツーに話せるのはすごい。自分なら劣等感と受けとめてしまうようなことをキヨシどんはなんでさらりとやっていけるのか、というふうに観ました(どう見えたというだけなのですが、実際はそんなに易しいことではないとおもいます)。観おえたあとに肯定感がありました。みて良かった。

 

  • 自分の常識範囲外にいかにでられるか、想いを馳せることができるのかは、社会が自分にとっても生き暮らしやすくなる上では大切なチカラであろう。『自分—他者—社会』のように横断して物事を考えられることも大切だ。他者を責めるでなく、できることを持ち寄り感謝し合いながら、地域の中で育まれる日常を、他人事でなく私自身でつくっていかなければならない。どんな人も守られ生きることができ、どんな人も参画していける世の中のために、もう少しチカラを込めて暮らしていきたい。

 

  • 初めてべてるの家を映像で観て、25年も前からこういう場所があったことがすごいなぁと思った。もっと知りたいなと思った。私が生きている社会よりも、人と人とが対等、フラットで主体的で、自分自身と向き合えるところでステキだと思った。そしてとにかくいつも前向き、明るいきよしさんは調子が悪い時もあるけど楽しそうだった。皆さんの印象に残ったキーワードを聞けて、また違った視点でふり返ることができた。

 

  • 以前にべてるの本を読んで、実際にどんな雰囲気で活動しているのか知りたいと思っていました。自分でできないこと、困難なことに挑戦すること、限界を知ること、エネルギーをうまく配分すること、自分を語れるようになることが大切。また見守る人がいることが大切。良い状態も悪い状態も知っている人がいることが大切だと思いました。

 

  • 早坂さんのすごく調子がいい時と、悪くなると手がつけられなくなる状態、全く同じではないけれど、自分や自分の周囲で苦しんでいる人とアップダウンの感じが似ている人がいて、共感した。自分も最近は調子が落ちているときでも、たんたんと自分の状況を見れるようになってはいるが、早坂さんはその姿を人前に出て見せているのがすごいなと思う。苦しくてもきちんと困難を生きている感じがした。べてるの家や病院の先生たち、町に住む人たちが病気をもった人たちをそのままうけいれて、むりに治そうとせず、一緒にすごす姿勢がいいなと思った。

 

  • キヨシどん=面白い人。という前情報が良くも悪くもあったので、病気がひどい時、あんなに落ちてしまうのか…と少し驚きました。言葉の選び方というのか、センスにはうらやましい気持ちになります。「ビタミン愛をもらいに来た」とか、自分でも言ってみたい。「俺とあなたの仲じゃないのか」という言葉。態度、言葉の中に優しさが込められている気がしました。だから、キヨシどんは愛されるのかなぁと思いました。私も優しく(自分じゃなくて)人に優しくありたいです。

 

  • べてるの映画を少しだけみたことがありましたが、今日は何人かとふり返りができたことがよかったです。それぞれ気づいたことを言える環境があるのは、ステキなことだと思いました。私は普段、精神保健福祉士として精神科のデイケアで働いているのですが、私は何も知らず、何をやっていたんだろうと悲しく情けない気持ちになりました。誰でも思ったことを発言でき、受けとめてもらえる環境があり、ものごとを両面あるいは多面的にとらえていける場が働いているデイケアにもあったらどんなにいいかと思いました。

 

  • 自然に自分に向き合い、調子の良い時の自分も悪い時の自分にも素直に従っている事が自分を受け入れるということなのかなと思った。私はできているのかな? できていないから、右肩〜手先にかけてシビレ固まってしまうことをほんの3〜4日前に気づいた。精神に障がいを持った人に仕事を一緒にしようと持ちかける勇気にも心を動かされました。私も次の自分に進みたい!!

 

  • キヨシどんが予告編1の冒頭に出てくるシーンがとても印象に残っていて、そのシーンはただキヨシどんがただ話している中に、何か語りきれないような経験や想いがあるように感じていた。今回、そのキヨシどんの日常が映し出された映像をみて、そのときに感じられた語りきれない言葉のようなものを感じることができたように思う。一番印象にのこっている言葉は、〝限界や病気は変わらない〟ということ。けれど、それを取り巻く状況や環境は変わっているということ。キヨシどんの限界値はずっと変わっていないけれど、会社がよくなっていったり、様々な変化がある。病気のような限界をよく尻、語れることができるようになっていくと、その中で自分から提案ができたり、自分とうまくつきあって生きていけるのだと感じました。

 

*振り返りセッションで出た付箋

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