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『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

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『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』

 

坂本:科学の… あの価値観

 
 福岡:(科学は)再現性
 
坂本:反対ですよね?
何度繰り返しても同じ結果が得られることに信を置くのが科学。
それと反対で(音楽は)一回しか起こらないから良い。一点しかないから良いとかね。
 
坂本:そういうところにアウラがあるという…
ベンヤミンに言わせればアウラという言葉 オーラですけどね。
そこに価値がある。
 
 福岡:そうすると毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとかたくさん同じものがある。
 
坂本:複製技術時代ますますそれが高まっているわけですけどその時に一回性の問題は今、真剣に考える必要のある問題だと思っているんですね。
 
 福岡:印象的な一文があって、今回の「async」を作られた時に「誰にも聴かせたくない、自分だけで聴いていたい」という風に書かれているんですよ。これっていうのはCDに焼いてみんなに共有してもらうというところで同一性というものにとらわれてしまうんで、そうならないままの…一回限りのものとして慈しんでいたいなという感じ?だと思ったんですが。どうですか?
 
坂本:鋭いですねえ。極端に言うと生まれて初めてそう感じたことなので自分でも不思議だなと思っていたし… 終わり方というのはとても大事だと作りながら思っていたんです。
地図がないし、ゴールもないからどこで終わるかもわからないわけですね。だけどその瞬間というのがあるはずなんだよね。一番いい筆を置く瞬間がある。うっかりしていると自分でも気づかないで過ぎてしまう。…で余計なことを足していってしまうっていう。とてもそれを恐れていて今か今かと自分で作りながらもやめる瞬間を察知しながら作っていたというね、ちょっとかわった状態なんですけども。なるほど。それ一回性という問題に大きく関わるのかもしれないですね。う〜ん面白い。
 
 
*** *** ***
 
 福岡:シグナルとノイズ サウンドとノイズの関係は、科学の世界でも同じような構造というか問題があって、本当は世界はノイズと名付けられる前のノイズだけの空間だった。夜空の星々みたいなものですよね。でも人間の脳はめぼしい点を結んで星座にする。別に星座って平面に張り付いている星の点じゃなくて、全然距離が違う奥深さが違うものを「図形(星座)」としてみているだけだし、それは今そうして見えているだけでその光だって何万光年も前から来ているものなんで、今はもうない光なのかもしれないし、そういったものをある種の図像、秩序として検出する。それがシグナルの抽出。シグナルを取り出すのが科学の営みな訳ですけど、ついついそういうことは忘れてシグナルが本当のものだと思ってしまうわけですけれども、音楽の分野でもそういった考えというか、感じっていうのはありますか?
 
坂本:大いにありますね。音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作っているので、すこし数学に似たところもある。ノイズは排除。ノイズは意味がないもの。地と図で言えば、図の方が意味のあるもの図をいかに美しいものに仕上げていくか、排除されるのは地でありノイズである。そのように何百年も変化、進化というか発達してきたわけですけども、面白いことにちょうど僕が生まれる頃ですかね、20世紀後半に入った頃にアメリカの作曲家のジョン・ケージっていう大変素晴らしい人がですね、もう一回、その地の方に耳を傾けようと。図ばっかり取り出すのではなくて地を見てみよう。ノイズを聴いてみよう。と。多分そういう事だと思うんですが、そういう事に挑戦をした。これは本当に大事な事で、いまだに、あるいはもうますます今、大事だなと僕は感じていて。
 
*** *** ***
 
◯理屈だけで世界を見ない
 
坂本:我々人間のね、脳の特性としか言いようがないんですけども、どうしても何かの意味ある情報を受け取ろうとする。見ようとする、聴き取ろうとする。病み難くありますね、人間にはね。
 
 
 福岡:星座を取り出すというのは言葉の作用。人間の場合は特に、ロジックというかロゴスの作用ですよね。言葉による、分ける力。文節の力っていうのはすごくて、そのことによって本来、ノイズだらけの世界から星座、シグナルが切り取られていくわけで、あまりにもロゴスの力によって切り取られすぎると、やっぱり本来の自然というものは非常に変形するというか、人工的なものになってしまってもともと物理学のフィジックス、あるいは生理学のphysiologyの最初のphysis フィシスっていうのが、(physisフィシス=自然・ありのまま)本来の自然という意味で、プラトンとかソクラテスが出る前までの、もっと前のヘラクレイトスの時代に、自然というのは混沌としてノイズからできている、けれども豊かなものだというビジョンがあったわけですれど、まあプラトンソクラテスが、イデアみたいなものを言い出して、
 
坂本:まあ、ロゴスの人ですからね。
 
 福岡:そうですね。なんというか、ロゴスの強力さに辟易することがありますよね。
 
坂本:ありますね。ありますね。だからどれほど星座に囲まれているかというのを、意識もできなほど、そういう網の目にとらわれている。
 
 福岡:認識の牢屋ですよ。
 
坂本:そうなんですね。そのことにいつも考えさせられることが多くてですね。一度、思考実験として名詞を使うのをやめてみようと、1日努力したことがあるんです。これはほとんど不可能。生活できないというか、ほとんど話もできないし考えることすら難しい。
 
 福岡:できない。ええ。
 
坂本:でもね、僕はこれ大事なことなんじゃないかと。やりながら。
 
 (2人)名付けない。
 
 福岡:名付けるということは、星座を抽出するっていうことですからね。
 
坂本:まさにそのとおりなんですね。
 
 福岡:シグナルとしてとりだされたものじゃない… その本来のノイズとしてのフィシス(自然)の場所に下りていくためには、客観的な観察者であることを一旦止めて、フィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないと、そのノイズの中に入れない訳ですよね。
 
坂本:はい。まず、自分もノイズだと認識しないといけませんね。だから自分と外に、あるいはその観察対象、自然に何か差があるとかですね、自分がまるで自然の外にいて、観察しているかのような認識の枠組み自体が間違いですね。
 
 福岡:そうなんですよね。
 
坂本:自分自身は木と同じ自然。自然なんです。
 
 福岡:生命体 自然物ですよね。
 
坂本:ところが果たして、どれだけの人がそれに気がついているだろうか。僕らが扱っている楽器もそうです。もちろん。
 
 福岡:そうですね。
 
坂本:この大きな図体のピアノなんていうものは、よく見ると木だし中は…
 
 福岡:鉄だし。
 
坂本:鉄だし。もともとは自然の中にあったものを取り出してきて。図のように取り出してきてですね。
 
 福岡:こう構成した。
 
坂本:加工してですね、音階まで人工的に考えて。本当に人工に人口を重ねたもの。これを僕は元に戻してあげたい。
 
 福岡:なるほど。
 
坂本:という欲望が最近強くてね。それで実はたたいたりしてるんです。こすったり。これはね、元のフィシス側の自然物としてモノが発している音を取り出してあげたい。という気持ちがとっても強いのね。
 
 福岡:今の話で私がふと思ったのは、音楽の起源ということなんですねよね。音楽の起源ってどこにあったとお考えですか。
 
坂本:とても難しい問題ですね。楽器の起源ということを考えると、実は音楽の起源と、楽器の起源は非常に近い。あるいは、もしかしたら同じことなのかもしれませんが。まぁどの時点か分かりませんけども、そこに落っこっていた鹿の骨か何かを乾かしてみてそこで人口的に穴を開けようと。これはもう完全に自然の改変ですよね。穴をここに開けたほうが自分は好きだ。気持ちいい。洞窟に入って吹いてみるとよりいい感じだと。みんなでやってみようか。やりだすということは、まぁ容易に想像できるわけですね。なぜそうするか。
そこがフィシスとロゴスの始まりでもあるのかもしれませんけど。なぜそういう欲動を持つのか。ここがもう僕にはわからないところなんですね。
 
 福岡:もっとも大事な自然物は我々の生命だというのは、音楽の起源とどこか重なっているような気がするんですよね。生物学的には、音楽の起源って、例えば鳥の求愛行動みたいに、鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに、語られることは多いんですけども、私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ。この自然物に囲まれている私たちの中で、絶えず音を発しているものがあるじゃないか。それは、我々の生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって10ヘルツくらいで振動しているしまあその、セックスだって律動があるわけですよね。そういう、生命が生きていく家で絶え間なく音・音楽を発しているわけですよね。ロゴスによって切り取られたこの世界の中では、我々の生命体自身も生きていることを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているということを思い出させる装置として音楽というものが、生み出されたんじゃないかなって思うんですよ。
 
坂本:非常にロマンティックですね。それはね。おもしろい発想ですね。仮にそうだとしても、それなのにやることは、やはりロゴス的なことしかできない。
 
  福岡:そうなんですよね。
 
坂本:そっちの方に持っていってしまう。よりコントローラブルというか、コントロールしやすい
 
 福岡:で、楽譜に書くっていう。
 
坂本:秩序立って。オーガナイズされたものにしていく。正確にやりたいんでコンピューターを使ったりとかっていうふうに。どんどんそっちの方に行く。おもしろい発想です。

 

『SWITCHインタビュー 達人達(たち)「坂本龍一×福岡伸一」』
NHK Eテレ 6月3日(土)午後10時00分〜 午後11時00分

 

「事実」はいつも「一回性」をもつ。

 

自分の日常の中で、「事実」ということを見つめることが、
以外にも難しいのかもしれない。
 
できる・できない
わかる・わからない
知っている・知らない
美味しい・まずい
綺麗・汚い
良い・悪い
 
なにが事実なのだろうか。
自分が事実だと思っていることは、
事実というよりも自分自身が形作っているものにすぎない。ということが意外にも多い。
 
ということに気づいたときに、
「じゃぁ、事実ってなんなんだろう?」という問いを考えたとき、
「一回性」という言葉が浮かんできました。

 

 

「言葉」によって、僕たちは状況を「掴む」ことができる。その起きている状況というのは、常に一生に一度の出来事であって、その出来事を再現することはできない。だけど、その状況を「掴む」ための言葉はその逆の性質にあり、何度でも使い回しが出来てしまう。

*** *** ***

 

「事実」ということを考えると、

「事実」の奥深いところには必ず「一回性」という性質がある。

 

らくだの記録表には「数字」による事実の記録が残っている。

このデータは、二度として浮かび上がらないデータである。

 

「言葉」を用いて、この「一回性」という性質を浮かび上がらせるのはとても難しい話になってくる。

 

** ** **

 

「今を生きる」ということは、

「事実」をつかむことでもあるのかもしれない。

 

「今」とは「この瞬間」のことであり、

「この瞬間」は2度と訪れないものである。

つまり「一回性」である。

 

** ** **

 

事実を見つめるということは、

「一回性」を掴み、感じ、生きていくことになる。

 

一回性の世界に生きる僕たちもまさに、

一回性の存在であり、いつも同じ自分は存在しないはず。

 

いつもいつも自分は、

ずれていくはずの存在なのである。

 

言葉は時に、「一回性」を忘れさせる。

言葉でこの今ある「一回性」を浮き彫りにさせることは、

とっても難しいこと。

 

だから、言葉を使って生きる僕たちは、

「一回性」を忘れてしまうのかもしれない。

“事実に思いがのる”

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“事実に思いがのる”

 
ブログを書いていく過程の中で、
気づきや学びが溢れてくることがある。
 
逆に 、気づきや学び、伝えたいことがあって、
それを言葉にして書いてみると、
なんだか言葉に思いがのっていない時がある。
 
そんな時、「事実」を書くことで、
その事実に自然と思いがのるという話を聞いた。
 
その言葉がずっと気になっていた。
 
僕の記事の多くは、らくだの計算プリントの内容が多くなってきた。らくだの計算プリントの内容だと、自然と「書く過程」で気づきや学びが生まれてくることが多い。
 
それは、らくだの計算プリントでは「事実」が明確に生まれているからなのだと思う。
 
今日はプリントができたか、できなかった。
何分でできたのか、ミスは何個であったか。
何時にプリントをやったのか。
 
そういった事実が分かりやすく現れてくる。
だから自然と、「具体的な事実」を書きやすい。
その事実を書いていると、
その過程の中で気づきや学びが溢れ、
自分の想いが言葉にのりやすい。
 
これは、「事実」を書いている中で、
その「事実」がより自分の中に具体的に現れ、
より具体的な事実を改めて見つめることが、書くという過程の中でできてくる。
 
だから、気づきや学び、想いが書く過程の中で生まれてくるのかもしれない。
 
*** *** ***
 
自分の日常の中で、「事実」ということを見つめることが、
以外にも難しいのかもしれない。
 
できる・できない
わかる・わからない
知っている・知らない
美味しい・まずい
綺麗・汚い
良い・悪い
 
なにが事実なのだろうか。
自分が事実だと思っていることは、
事実というよりも自分自身が形作っているものにすぎない。ということが意外にも多い。
 
*** *** ***
 
どうしたら事実をつかめるのだろうか。ということを考えると、
「数字」が事実を浮かび上がらせてくれる、
ひとつの頼りのようにも思う。
 
わかる・わからない
知っている・知らない
美味しい・まずい
綺麗・汚い
良い・悪い
 
これらの境はどこにあるのだろうか?
ということを、言葉で語るのはとっても難しい。
 
なにをもって、わかるとするのか?わからないとするのか?
なにをもって、知っているとするのか?知らないとするのか?
 
それを言葉として線引きするのはとっても難しい。
 
*** *** ***
 
その点から考えると、らくだの計算プリントは、
数字で「できる」「できない」
ということがはっきりと、明確に現れてくる。
 
「数字」をうまく使って、
自分の事実をうまくつかめるのかもしれない。
 
らくだの計算プリントのように、
「数字」という記号をうまく使えれば、
自分の事実を、ただ見つめることができるのかもしれないと思った。
 
そして、「数字」はあくまでも
自分が現状を、事実を掴むための道具というか、「頼り」にすぎないのだと
思っていることもまた大事なのではないか。とも思った。

べてるの家 ビデオ上映会 予告編5 「キヨシどん斯く語りき」

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べてるの家 ビデオ上映会 予告編5

「キヨシどん斯く語りき」
 
べてるの家ドキュメンタリー映画ベリー・オーディナリー・ピープル(V.O.P)上映会を名古屋本陣にある、寺子屋塾中村教室にて開催しました。
 
昨年の8月に第1回(予告編その1)の上映会を開催し、2ヶ月に1回のペースで開催しています。
今回は、第4回目の開催で予告編5の上映になりました。(予告編3は絶版となっています)
 
今回も、満員御礼で、参加者の12名で映画鑑賞→振り返りのセッションという流れで進みました。
 

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** ** **
 
ベリーオーディナリーピープルをみて、
なにを学べるのか?
どんなことを伝えているのか?
 
それを伝えることや、まとめることはとっても難しいことのように思います。
そもそもこの映画には、台本も、ストーリーも、メッセージもなく、ただべてるという場と、その場でくらし生きている人たちの姿が映し出されています。
 
この映画のプロデューサーの清水さんは
“「べてるの家」の言葉にできない部分をなんとかまわりの人に伝えたいという思いで映画を作ろうと思った”と言われているように、「べてるの家」を、言葉で「これだ」ということはとても困難なことなのかもしれません。
 
 
この映画を通して、 “「べてるの家」の言葉にできない部分”にふれると、なんだか自分の自分の中にある、
 言葉にできない、言葉にしきれない想いがたくさん生まれてくるように思います。
 
その言葉にできない言葉と向き合い続けること、
その言葉を抱えながら、生きていくことこそ
べてるの人たちのように思います。
 
映画を見て、ますますべてるって不思議だなーという気持ちが生まれてきます。
 
ぜひこの映画をたくさんの人と分かち合いながら、
自分自身をより深めていきたと思いますし、
べてるに触れることが
誰かにとって何かいいきっかけになればいいなと思います。
 
これからべてるを通して、どんな気づきや学び、出会いやきっかけが生まれるのか、とっても楽しみです。
 
参加者の皆様、お疲れさまでした。
次回は、10月に開催予定です。詳細決まり次第ご案内させていただきます〜(^ ^)

 

べてるの家 HP

べてるねっと

 

 

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「どんな場でもプリントができる“自分”」「どんな自分でもプリントができる“場”」

 

 自分がらくだメソッドの学習をまだスタートしていなかったときに、らくだの学習をしている方の話を聞いたことがありました。

そのときに話された内容に、“「場」がより見えるようになった”というお話があったのですが、そのお話を聞いたときに、全く理解ができなかったことを記憶しています。

 ただ、この学習を始めてみて、なんとなくそういった言葉がこの学習を通して生まれてくる意味が感じられてきたように思います。

 1日1枚のプリントを通して自分と向き合う中で、自分というのは、場や空間と切り離して考えることはできないように思います。そうすると、自分自身に対して振り返りをしたり、工夫をしてみることと同じくらい、「場」や「空間」に対しての振り返りや工夫も自然と生まれてきます。

 そういったことを考えると、らくだの学習では「場づくり」という面でもさまざまな気づきや学びが生まれる教材でもあると思いました。

 

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「どんな場でもプリントができる“自分”」「どんな自分でもプリントができる“場”」

 

(小5-20 問題数:50問 ・ 目安の時間:12分)

 
昨日は、家のリビングにて24:30に問題を解いた。
結果は時間14:08のミス5問であった。
 
正直プリントを解き終わった後に、
このプリントは果たして合格できるのだろうか?
という気持ちになった。
 
今日は、週一の通塾の日であったため、
中村教室にて小5-20のプリントをやった。
 
結果は13:08のミス1問であった。
 
昨日の結果と比べてみると、
時間は−1分、ミスの数は−4問で、
昨日と比べて大幅に結果が良くなった。
 
まだ、目安の時間内には解けていないけれど、
昨日とは違って、もう少しで合格できそう。
 という気持ちになった。
 
** ** ** **
 
昨日と今日を振り返ってみて、
昨日から今日、結果が良くなっているわけだけれど、
何が自分をできるようにしてくれたのか?という問いが浮かんだ。
 
その時1番に感じたことは、
「自分の頭ができるようになった」ということではないことだ。
 
昨日に比べて、自分の頭の回転が、
 つまり自分の計算力が、
−1分とミスの数−4問という結果につながった。と言い切ることはできない。と思った。
 
もちろん、その要因もあると思うのだけれど、
「それだけが要因だ。」と言い切ることはできないように思う。
 
 
この−1分、ミスの数は−4問はどこから生まれてきたのか?
 
それを見つめてみると、
自分を知ること、つまり、自分の現状を把握すること、
自分のできること、できないことを認識することは、
自分の持っている能力(自分が身につけている計算力)を認識することのように思っていたのだけれど、
結果として現れてくる「自分の現状」というのは、
「 自分の今現在持っている能力」と
「自分の能力の発揮力」の2つが絡み合っているものだと感じた。
 
** ** ** **
 
いくら計算力が高くても、
その能力を発揮できなければ、
「できない」という結果が生まれることもある。
 
逆に、あまり計算力が高くなくても、
その能力を最大限に発揮することができれば、
「できる」という結果になる時だってある。
 
「できる」「できない」は、
そういう計算力のような身についている能力と、
その能力を発揮する力によって生まれる。
 
 
そういう点で、昨日と今日を振り返った時、
「発揮力」に関わる要因にかなり差があるように思った。
 
今日は中村教室でプリントを解いたけれど、
「能力を発揮する」という面において、
家よりも「場」としての力が、かなり自分に働きかけてくれているように思う。
 
 
そうやって、「できない自分」という
結果として現れてきた今の自分を、
いつも解体して見つめていきたい。
 
「できない」という現実を、
ただ「自分にはまだ力がないから」としてしまうことは、意外と簡単なのかもしれない。
でも、本当に「できない自分」を解体してみると、
「能力を発揮できていない」ということだってあるのかもしれない。
 
1日1枚のプリントを通して、
 「どんな場でもプリントができる“自分”」という点で
自分と向き合うことが多く、その中での気づきがこれまで多かった。
 
けれどこの「能力の発揮」ということを考えると、
 「どんな自分でもプリントができる“場”」という点でも、
自分自身と向き合っていきたいと思った。
 
そういう点で、このプリントと向き合っていくと
また、たくさんの気づきや発見が生まれそうだ。
 
このプリントは、「場づくり」という点においても
人を成長させていく教材なのかもしれないと思いました♩

 

 

 

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真贋

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また、なぜ人は悪をなすか、ということについても「嘆異抄」の中で親鸞は言及しています。

「あるとき、親鸞唯円に『お前は俺の言うことなら何でも聞くか?』と言った。唯円は『お師匠さんの言うことならなんでも聞きます』と答えると、親鸞は『じゃぁ、人を千人殺してみろ』と言った。唯円は正直に『いや人を千人殺せと言われても、一人の人間さえ殺すだけの気持ちになれないし、それだけの度量もないから、それはできません』と答えた。親鸞は『いま俺の言うことはなんでも聞くと言ったのに、もう背いたじゃないか。そういう風に業縁がなければ一人の人間さえ殺せないものだ。だけど、業縁があるときには、一人も殺せないと思っていても千人殺すこともあり得るんだよ』と言った」

 僕は機縁と訳していますが、仏教の言葉では業縁と言っています。つまり、一人のときにはたった一人も殺せないのに、例えば戦争になると百人、千人殺すことはあり得る。それはその人自身が悪くなくても、機縁によって千人も殺すということはあり得る。だから、悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違えだ、ということです。これはすごくいい言い方だと僕は思いました。(真贋 p62から引用)

 

 

 

** ** **

 

自分の心は、

目の前の他者との関係の中で生まれることもあるし、

自分が住む日本という国との関係性、

自分が働く職場との関係性、

さまざまな関係性の中でどうしても生まれてしまう。

 

だから自分の心は、そんな関係性をきっかけに

常に変化していくものなのかもしれない。

そして、自分もまた必ず何かしらの影響を与えてしまっている。

誰かの「こころ」を生み出してしまっていると考えられるように思う。

 

悪というものが、個人の中にとどまるもののように見えて、

その悪は、個人を超えて、

個人に関わる縁によって生まれてくるものであると考えると、

悪というものを個人の中にあるものとして、

その悪をもつ個人を罵倒するということも、

どこか限界があるのではないか。

 

そう思うと、誰かの気持ちを考えること、

誰かを思いやることというのは、

その人のことを、その人以上に飛び越えてみることなのだと思う。

 

そうやって、目の前の人や物事に対して、

これだと決めつけず(それがたとえ相手にとって良いと思われることだとしても)

広がりも持った眼差しで、その人のことや、物事を見つめられることが、

何よりも優しいことだなと感じる。

正しさは冷たさでもある。

 

 

正しさは冷たさでもある。

 

VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)について
 
「正しさ」とは「冷たさ」でもある。数センチのオフサイドにより消えてしまう選手と観客の歓喜、いや絶望ですら、それ抜きではサッカーがサッカーでなくなってしまう。
 
人間は間違える。審判も間違える。
フットボールの深いところの価値は寛容にある。もっとも昨今は「電話ボックスの粋狂」くらいでも社会的には糾弾される。もはや世紀の誤審に居場所はないのか。
(numberコラム before the game)