私も、「何をしてはいけないか」を考えながら浦河で日々を重ねてきた。木村さんがリンゴのと土の力を信じるように、私も〈当事者〉と〈場〉のもつ可能性を信じているからである。あらゆる問題解決の糸口は、「問題自身」と、「問題が起きている場」のなかに備えられている。それを信じることができないままに、問題解決の糸口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じるのである。(「技法以前」向谷地生良 著 はじめにより 引用)
あの人は何も言わないけど、本当は気持ちの中で自分によく問いかけ、自分でよく答え、それを繰り返している。それは言葉に表さなくても、行動に表さなくても、心のなかでそういうふうにしてるってことがある。
人は誰でも、誰にも言わない言葉を持っている。
沈黙も言葉なんです。
沈黙に対する想像力がついたら、本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持っているといっていい。
僕はうまく伝えられなかった言葉を紙に書いた。届かなかった言葉が、僕にいろんなことを教えてくれた。自分や誰かの言葉の根っこに思いをめぐらせて、それをよく知ろうとすることは、人がひとりの孤独をしのぐときの力に、きっとなると思いますよ。
ひとり “沈黙も言葉なんだよ” p23
らくだメソッド 「めやすの時間」
らくだメソッドには、
1枚のプリントに「めやす時間」というものが設定されています。
「めやすの時間」内に、3問ミスせずにできたら、
「合格」となり、次のプリントに進めます。
今日は、時間内に問題を解くことができず「不合格」となりました。
今日は「できなかった」わけだけれど、
「時間内に」できなかったのだと思いました。
「できない」というものが、
どの基準や目安で「できない」とされているのかを、
意外と認識せずに「自分はできない」と思っていることが、
あるのかもしれないと思いました。
そして、「時間」という目安(らくだメソッドではめやすの時間)が、
今の自分の現状を把握できる1つのめやすになってくれているということです。
時間から自由になれたら、、、
時間がたっぷりあったら、、、
なんて考えてしまいがちだけれど、
時間の制約が、
ひとつの目安となり、
自分の今を把握できる。
だからこそ、
今の自分を見つめるひとつの視点として、
「時間」というものうまく使えたらいいと思いました。
ただ、このごろよく思うのは、何か中間にあることを省いているんじゃないか。 何か大事なものかそうじゃないか、それもよくわからんのだけど、本当は中間に何かあるのに、原因と結果をすぐに結びつけるっていう今の考えかたは、自分も含めて本当じゃないなって思います。(p.72)
生きるっていうのは、どっちとも言えない中間を断定できないまんま、ずっと抱えていくことじゃないか。僕はそういうものをいくつも、いくつも飽きもせずに抱えながら歩いてきた。 これは大変な荷物持ちだねって言われたら、本当にそうだと思います。 考えて考えて考え続けてはいるんだけど、断定できないんだからそうするよりしょうがないんですね。(p.87)
それはつまり中間をおろそかにしないってことでもあると思います。よせやい、まだそう断定するのはちょっと早いんじゃないかないかってね。(p.89)
中間にいられる自分でいたいと思います。中間はというのは、分からない状態であり、できない状態であり、悩んでいる状態と捉えることができるように思います。
何かを割り切って、わかったことに、できたことに、悩みが解決されたことにしないでいたい。そんな中間の状態は、他の誰かには、「弱さ」として見えるかもしれません。
だけど、そんな「中間の状態」「弱さ」こそ受け入れて、認めて、愛していく。その状態でじーーーっいられることこそ、「強さ」のように最近は思っています。
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経営ゲームをやって、「経営は気が抜けない。」ということを改めて感じました。
経営ゲームでは人材のレベルがある程度まで上がると、
チップを購入でき、そのチップを購入することで、
一定のレベルを保てるため、
生産活動も比較的安定して行えるようになるのですが、
今日は、そのチップを購入し忘れてしまった。
そしてその1つのミスからかなり崩れていきました。。。
経営ゲームは1期から10期までやろうと思うと、
(1期経営が会社を1年経営するというイメージ・・・ゲーム内では25回意思決定ができます)
かなりの時間がかかります。
今日は二人プレイだったので、3時間ほどかかりました。
今日のこの1つのミスから経営は本当に1つのミスで
かなりの影響が出るということが痛いほどわかったのですが、
それと同時に、気を抜けないなら、気を抜く時間も大切だということもわかりました。
1期から10期までぶっとうしで今までやってきたけれど、
やはりどこかで休憩(気を抜く時間)も必要だということです。
実際の経営でも、考えない時間、休む時間は必要なのだと思います。
次回は、気をぬく時間=休み時間を入れて、
ゲーム中は気を抜かずにやりたいと思いました〜!
1月28日に、名古屋市中村区本陣で寺子屋を主宰されている井上淳之典さんの教室にて、北海道の浦河町にある「べてるの家」ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル予告編2」上映会を行いました。
この「ベリー・オーディナリー・ピープル(V.O.P)」を上映するのは今回で2回目で、前回は昨年の2016年の8月30日に「V.O.P予告編1」の上映会を行いました。
今回は早い段階で、満員御礼となり当日は定員の参加者8名で上映会を行いました。
自己紹介→映画上映→振り返りセッション→懇親会という流れで進んでいきました。映画の上映時間が90分、その後の振り返りが1時間という時間でしたが、予告編といっても90分あるこの映画は、上映だけでもとっても内容盛りだくさんですので、振り返りはどれだけ時間があっても足りない!というくらい、気づきや学びの多い映画です。
昨年に上映した予告編1『ようこそ べてるの家!』に続いて、今回の予告編2は『三度の飯よりミーティング』というタイトルです。
V.O.P予告編2『三度の飯よりミーティング』の内容について
べてるの家では、うまく行かなかったり困ったり、問題が発生すると盛り上がる。その度にメンバー全員でえんえんと議論して、それも笑いのうちに話が進んで、立派な結論はいっこうに出てこないのだが、自然に問題解決の方向へと流れが生まれる。どんなに深刻な議論をしていても、なぜか笑いが絶えない、実に不思議なミーディング風景である。
べてるの家について、そしてこの映画説明することはとても難しく、この映画をみていただくことでべてるとは何か?ということを知っていただく機会になると思います。
そしてそれは、生きるとは?ありのままに生きるとは?といった、問いを自分自身に投げかける機会にもなるのだと思います。
今回は、僕の中でも特に印象深かった予告編2を上映し、参加者の皆さんと意見交換できたことでより、気づきが深まった一日でした。
次回は4/22(土)に上映を予定しています。次回は「予告編4“安心してさぼれる会社づくり”」を上映する予定です。
まず、この映画はなぜ「予告編」なのに90分もあるのか?という時点でとっても不思議ですし、次回のタイトルも「さぼれる会社づくり」ということで、ハテナばかりが浮かぶと思いますので、べてるの記事もこのように、ブログやフェイスブックで、少しでも記事を発信できたらなと思っています。
今回の参加者の方々が、ブログやフェイスブックで、感想や気づきを書いてくださっていますので、紹介させていただきます♩
今日は、中村教室にて北海道の浦河町にある「べてるの家」
ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル予告編②」の上映会を行いました。
昨年の8月30日に「ベリー・オーディナリー・ピープル予告編①」の上映会を行い、それ以来の開催となりました。
この映画は、「予告編」となっておりますが、今回の予告編②は90分もあるのです。そこにもまた、映画製作者、プロデューサーの想いがあります。
詳しくは、こちらをごらんください。 → 愚鉄ぱらだいす
今日の上映会の流れは、参加者自己紹介→90分の上映→1時間の振り返りセッション→懇親会という流れで、上映内容も、振り返りの時間も懇親会もとっても充実した時間になりました。今日の気づきや感想をまた、アップしようと思います。
まずは、映画に出てきた武田さんという女性のエピソードから感じたことを書いてみました〜♩
日赤病院に入院していた武田千代美さんという女性がでてきます。赤十字病院精神科の川村先生は、「彼女は退院できない」と思っていたのですが、べてるの人たちが「彼女は退院させたほうがいい」といったことで、病院を退院し、共同住居でべてるの人たちと一緒に生活を始めたというエピソードが、予告編1から、予告編2にかけて出てきます。
予告編1では、退院したばかりで元気のなく、なにも言葉を発しない武田千代美さんが、予告編2では、自分の言葉で語るシーンが数多く出てきます。そして、表情がとっても豊かになっています。
なぜ、日赤病院の川村先生が、退院できないと言っていたのに、
べてるの人たちは、「退院できる」と思ったのか。
そこには、べてるの人たちが「人との関わり合いの中で生きること」を知っているからだと思いました。
本当の自立というのは、自分ひとりで生きていくチカラをつけることではなくて、他者との関わり合いの中で生きていけるチカラなのだと思いました。
べてるの人は、「できない」ことだらけなのだけれど、
だからこそ人と関わり、助け合い、協力して「生きている」。
その実感がとてもとても強いのだと思います。
僕たちも、実際にはひとりでは生きていないし、
生きていけないのだけれど。
その、他者との関わりの中で「生きている」からこそ、
たとえ能力がなくても、武田千代美さんにある、
関わり合いの中で「生きていけるチカラ」を感じたのだと思います。
そのチカラは、何かができるとか、何かを持っているとか、
目には見えるものでは計れないのだけれど、
人との関わりの中で「生きている」べてるの人には、
その見えないチカラが感じられたのだと思います。
もちろん、目に見えることを伸ばしていくこと、
その強さを求めても生きていくことだっていい、
だけど、べてるの人のように、
できなくても、弱さを持っていても、
「生きていける」この考え方こそ、
みんなが豊かに生きていける、
どこまでもやさしいものだなと感じました。