通信まなびおむすび2月号のインタビューのふり返り
僕は何を伝えたいのだろうか
インタビューは、何か目的があってするものなのだろうか。
僕のまなびおむすびのおむすびインタビューのコーナーの目的が決まっていれば、インタビューある程度方向がみえる。
でも、インタビューをする前に方向性を決めてしまうことは、
インタビューの広がりを狭めてしまうという可能性も含まれるように感じた。
そのインタビューの目的の置き方は、
インタビュー→編集にとって、とても重要なことなのだと感じた。
今の僕にとってはの「インタビュー」と「編集」は、
相手を表現しているというよりも、
相手を通して自分を表現しているという実感の方が強い。
果たしてこれは、インタビューと言えるのだろうか。
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インタビューの語源は、
「inter 〜の中に」
「view みること・視点・見方」
つまり、相手の中に入ってみるということ。
でも、相手になることはできない。
相手の中に入って、相手の視点、見方にたってみようとしても、どこまでも自分なのだ。
だから、必ず「自分」がインタビューと編集には含まれてしまうのだ。
それがインタビューと編集なのかもしれない。
相手になることは無理だ。相手をそのまま伝えたいのならば、
相手に記事を書いてもらえばいい。
インタビューと編集には、必ず相手を通して自分が表現される。
だけどその記事は、僕の独りよがりな記事でなはなくて、
相手の新たな一面性を、相手に発見してもらうきっかけにもなるのかもれない。
相手の言葉にならない思いを、うまく言葉に変換してあげるきっかけになるかもしれない。
インタビューすることは、相手を通して、僕を表現する。
インタビューされることは、僕を通して、相手が表現する。
それはお互いが、自分の新たな一面に出会える機会にきっとなる。
だからインタビューは共同作業だ。