そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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「デザインとは、問題に対する解決案構築の全行程である」 (『負のデザイン』 より引用 )

誰もが自分らしく、自分の人生を生きたいと願う。

それは、自分の目の前に「問題」や「行き詰まり」があるから生まれ願いだろう。
そして、自分の中に、こう生きたいという想いがあるからだろう。

だからこそ、その問題や行き詰まりと向き合わう必要がある。

つまり、自分の人生を デザイン する必要があるのだ。

(ここでいうデザインとは、負のデザインの中に出てくる言葉、「デザインとは、問題に対する解決案構築の全行程である」とする)

自分の人生を生きるために、 デザイン志向 は必須だろう。 

葛藤、悩むことの意味 (「普通がいい」という病 より)

葛藤、悩むことの意味

ここで、「葛藤」という概念についてお話ししておきたいと思います。 この言葉は、日常的にも使われますが、日本語では葛と藤がからまっていることから来ています。葛藤というのは、意識の中に○という気持ち、それと相容れない△という気持ちがあって、両者が対立したまま並存している状態です。もっと正確に言えば、○という 「頭由来の考え」と、△という「心由来の感情」が並存している(心や頭についての定義 は、第3講で触れます)。だから、スッキリしないで悶々としている。こういう状態を葛藤と言います。

よく、葛藤自体を病的なものだと考えてしまう人も多いのですが、葛藤していることはむしろ、健康な状態なのです。なぜなら、図1-2でご覧の通り、○も△も地上にあって、無意識という地下に生き埋めになっていない。つまり心理学的に言えば、抑圧されていない。本人としては、悩んでいてスッキリしないし、モヤモヤするんだけれども、これ自体は病的な状態なのではない。葛藤できる健康な力があると言ってもよいのです。

 しかし、とかく人間はどうにかしてスッキリしたいものだから、この一方を埋めて葛藤を解決したいと思う。するとたいていの場合、頭由来の考え○が、心由来の感情△を埋めることになるのです。△は 抑圧されて、これで意識上は○だけの天下になるわけです。見かけ上、本人はスッキリして葛藤はなくなります。しかしその代わり、△が抑圧されていますから、これが我慢して黙っているうちはよいけれども、そのうちに反発して動き出します。その結果、△のエネルギーが意識の方に反乱を起こしたり、それがダメなら身体の方から出てきたりします。それもうまくいかなければ、△の母体である心はストライキに入り、エネルギー自体を出してくれなくなる。すなわち意欲が出てこなくなる。・・・・よくクライアントの方は「治ったらすっきりして悩みもなくなって、きっと楽になるはずだ」と考えがちですが、実際はあるべき悩みを悩むようになる。それが、「治る」ということなのです。

聞かれたことに応えることについて

聞かれたことに応えることについて

 

相手に質問されたら、応える

でも、相手の質問をどこまで聞けているだろうか?

 

その一言の質問で、

相手が何をもとめて、何を聞きたいのか?ということについて

どのくらい掴みきれているだろうか?

 

 

相手は何を聞きたいのだろうか?

 

何をどこまで求めているのだろうか?

 

その確認せずして、

 

自分の伝えたいことだけ伝えていないだろうか?

 

 

相手が「聞きたいこと」は、

 

自分が「伝えたいこと」だけでは満たされない。

 

 

相手が何も求めていて、どこまで求めているのか確認することが、

相手に本当の意味で応える ために必要なことではないだろうか?

 

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質問する側だって、

自分が本当に何を知りたいのか?どうして質問しているのか?

そこが明確でない場合もある。

その時に、質問に質問する。質問の確認をするアプローチは、

相手が本当にもとめていることを明確にすることにつながる。

質問に「応える」=「反応する」前に、

その「応える」=「反応する」素材をより具体的に、

明確にしていくやりとりが、

相手にとってぴったりな「応え」「反応」につながるのだと思った。

「普通がいい」という病 はじめに より一部引用

 


 私はこの問題を社会的な問題として考えたいのではありません。社会制度上の問題をいくら解決したとしても、個々の人間に浸透してしまっている基本的価値観のろころが変わらない限り、モグラ叩きのように、問題は別のところから形を変えて噴出してくるだろうと思うからです。

 今、私たちが取り組まなければならないのは、人間という生き物の根本的な特性を深く理解し、その上で「自分を感じ、自分で考える」という基本に支えられた生き方を回復することです。

(「普通がいい」という病 はじめに より一部引用)

どこから「問い」がうまれるか

◯どこから「問い」がうまれるか

 

子どもの学習に関わる機会ができて、

あらためてこの「らくだメソッド」という教材を見直す機会ができている。

そのため、毎月の振り返りの内容も、

らくだメソッドという教材自体を見直す内容が多くなってきている。

 

最近は子どもたちとも打ち解けてきて、

少しずつ子どもに問いかける機会ができてきている。

 

その中で、「問い」がどこから生まれるか?ということが

子どもたちとの対話につなげるために重要だなとあらためて感じる。

 

らくだメソッドの場合、指導者から子どもへの「問い」はどこからうまれるだろう?と考えると、

やはり「記録表」から生まれてくるイメージができる。

 

記録表をみて、

「最近どう?」

「今日はどこやるの?」→「本当にそこでいいの?」→「進んでもいいんだよ!?」とか

「今日は何枚やるの?」→「もう1枚やってみれば?」とか

「今日は何枚持って帰るの?」→「そんなに無理して大丈夫?」とか

 

「記録表」という1つのツールから、(僕の想像でも)「問い」がここまで生まれてくる。

 

情報が子どもと指導者の間で、きちんと共有できているからこそ、「問い」が生まれてくる。

この「問い」は、記録表というツールのシンプルさ(なんの情報を残すか)と、

学習をしたら記入するという「ルール」があるからこそ生まれた「問い」である。

 

 

この「情報の共有」と、「情報を積み重ねる・残す」というルールがない場合、どうだろうか。

最近はどこをやっているの?とか、

どこがわからないの?とか、

まずは、情報確認のための「問い」からスタートせざるおえない。

対話というよりも、情報交換になる。しかもその情報というのも、お互い曖昧な情報交換の可能性が高い。

 

だからこそ、「問い」の「元」を子どもと指導者の間でつくる必要性がある。

記録表はまさにその「問い」の「元」なのだと感じる。

 

--- --- ---

 

多くのこどもは「できない」ということを避けたがる。

こどもだけでなく大人だってそうだ。

 

でも、どこができていないか分からなければ、

子どもだって指導者だって「できる」方向へは進んでいけない。

だから指導者は、こどもの「できない」を聞こうと問いかける。

 

でも、「できない」ということを受け入れられない場合、

「できない」という情報を聞かれることこそ、苦痛なのだと思う。

そういう苦痛から、嘘をついたり(できてないのにできるといったり)、

学習自体を放棄する(勉強の意味がわからないとか、なんのために勉強するのかわからないとか)ことだってありえる。

 

でも、記録表があれば、「できない」は自分で伝えなくても、聞き出されなくても記録表が伝えてくれる。

これだけでも、大きな違いなのだと思う。

(できない事実 が嫌というよりも、できない事実 を共有することにハードルがある場合があると思う)

 

子どもにとっても、指導者にとっても、

どんな情報を、どのようなやり方で残していくか、共有していくのか?というのは

とても大事な視点なのだと感じています。

 

らくだメソッドではないけれど、今ある環境の中でじゃぁどうやってその視点を生かせるのか?改善できるのか?ということは今後の課題になっていくように思います。

 

11月の振り返り その1

11月の振り返り その1

 

11月の1週目は体調を崩し、発熱し寝込んだ。

 

季節の変わり目と、この時期はいつも花粉症気味で体調を崩しやすい。

 

ただ、体調を崩してから少しずつペースが戻ってきた感じがする。

 

プリントをやっていると、「流れ」がある。

プリントがすっと取り組める「流れ」にのれば、

プリントをやることがそこまで苦でなく、

自然とできる期間がある。

 

逆に、プリントに取り組めなくなると、

その「流れ」にはまってしまう。

そんな自分に気づいていても、まだまだその流れにうまく対処できない。

 

ただこうやって、体が崩れてしまえば、その流れを断ち切れるような感覚がある。

 

頭で考えても、なかなかその流れは断ち切れない。

 

ただ、自分の体から変えていくこと、

体にアプローチしていくことは、1つのヒントになるように感じた。

 

さすがに発熱してしまうと、

いろいろなことがストップしてしまうし、

迷惑かけることも多いので、

自分なりの体との付き合い方も、

もっともっと試行錯誤しながら実験していけたらいいなと思う。

 

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◯どこから「問い」がうまれるか

 

子どもの学習に関わる機会ができて、

あらためてこの「らくだメソッド」という教材を見直す機会ができている。

そのため、毎月の振り返りの内容も、

らくだメソッドという教材自体を見直す内容が多くなってきている。

 

最近は子どもたちとも打ち解けてきて、

少しずつ子どもに問いかける機会ができてきている。

 

その中で、「問い」がどこから生まれるか?ということが

子どもたちとの対話につなげるために重要だなとあらためて感じる。

 

らくだメソッドの場合、指導者から子どもへの「問い」はどこからうまれるだろう?と考えると、

やはり「記録表」から生まれてくるイメージができる。

 

記録表をみて、

「最近どう?」

「今日はどこやるの?」→「本当にそこでいいの?」→「進んでもいいんだよ!?」とか

「今日は何枚やるの?」→「もう1枚やってみれば?」とか

「今日は何枚持って帰るの?」→「そんなに無理して大丈夫?」とか

 

「記録表」という1つのツールから、(僕の想像でも)「問い」がここまで生まれてくる。

 

情報が子どもと指導者の間で、きちんと共有できているからこそ、「問い」が生まれてくる。

この「問い」は、記録表というツールのシンプルさ(なんの情報を残すか)と、

学習をしたら記入するという「ルール」があるからこそ生まれた「問い」である。

 

 

この「情報の共有」と、「情報を積み重ねる・残す」というルールがない場合、どうだろうか。

最近はどこをやっているの?とか、

どこがわからないの?とか、

まずは、情報確認のための「問い」からスタートせざるおえない。

対話というよりも、情報交換になる。しかもその情報というのも、お互い曖昧な情報交換の可能性が高い。

 

だからこそ、「問い」の「元」を子どもと指導者の間でつくる必要性がある。

記録表はまさにその「問い」の「元」なのだと感じる。

 

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多くのこどもは「できない」ということを避けたがる。

こどもだけでなく大人だってそうだ。

 

でも、どこができていないか分からなければ、

子どもだって指導者だって「できる」方向へは進んでいけない。

だから指導者は、こどもの「できない」を聞こうと問いかける。

 

でも、「できない」ということを受け入れられない場合、

「できない」という情報を聞かれることこそ、苦痛なのだと思う。

そういう苦痛から、嘘をついたり(できてないのにできるといったり)、

学習自体を放棄する(勉強の意味がわからないとか、なんのために勉強するのかわからないとか)ことだってありえる。

 

でも、記録表があれば、「できない」は自分で伝えなくても、聞き出されなくても記録表が伝えてくれる。

これだけでも、大きな違いなのだと思う。

(できない事実 が嫌というよりも、できない事実 を共有することにハードルがある場合があると思う)

 

子どもにとっても、指導者にとっても、

どんな情報を、どのようなやり方で残していくか、共有していくのか?というのは

とても大事な視点なのだと感じています。

 

らくだメソッドではないけれど、今ある環境の中でじゃぁどうやってその視点を生かせるのか?改善できるのか?ということは今後の課題になっていくように思います。

 

できること・できないこと

できること・できないこと。

自分が じぶんは できる と思っていることがある。

自分が じぶんには できない と思っていることもまたある。

そして、

自分が じぶんには できない と思っていることでも、

他者には できる とみえていることがある。

そして実際に できる ということがある。


自分が できない と思っていても、

そうやって できる ことがある。

自分にはみえていない できる自分 がいることに気づく。

だからこそ、他者との関わり・つながりの中に身をおいたほうがいい。

自分にできることはなんだろう?と自分でじぶんを見つめても、

結局は 自分 という枠を超えて じぶん をみることはできないのだ。

 

自分の可能性、自分の できること を増やしてくれる、

見つけてくれる存在は、自分以外の存在にある。

 

だからこそ、


自分のやりたいこと


自分が じぶんはできる と思っていることにとらわれず、

 

誰かに頼まれたこと、

誰かに勧められたことに

乗っかってみることも、大事なんじゃないかな。