そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

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形さがし


みんながうまくいくように、みんなが心地よくいられるように、
そのためにどうしたらいいのかってことを一生懸命考えていた。

どういう規則で、どういうビジョンで、
どういう伝え方をすればみんなが共通認識をもって、
心地よく進んでいけるのだろうかということをテーマにここまでやってきた。

みんなひとりひとり置かれている状況も違う中で、
みんなが、そしてひとりひとりが納得できるような
「形」はどこにあるのかを探してきた。

でも、どれだけ話しても、誰かが葛藤状態になってしまう。
だから、どうすればいいのか考えて、話し合って進んできた。

でも、その葛藤状態がない「形」というのはないのかもしれない。
(その「形」というのは、ルールや規則のようなもの)
というか、逆に言えば、その「形」というのは、
もしかしたら、意外となんだっていいのかもしれない。

一番大切なことは、その「形」の中に生まれる葛藤をみんなが気づくことができて、
それを受け入れられる空気が、その「形」の中に流れているか。ということなのかもしれない。

そして、その「空気」は
「聞く」という時間と空間が用意されているか。
その時間と空間の中で、聞く人の「聞く姿勢」が保たれているのかどうか。ということがとっても大切なんじゃないかと思った。

その葛藤を「個」が「形」の中に出せること、
その「葛藤」を「形」の中にいるメンバーが受け入れて、
それを学びに変えることができる空気こそ大事なのだ。

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完璧な「形」があったら、きっとみんなうまくいっているだろう。
これまで多くの人が、その「形」を模索し、
その「形」を考えてきただろう。

その「形」を扱う対象が、固定的な(変化のない)ものであれば、
その「形」は機能するのかもしれない。
でも、その「形」を扱うのは、僕たち人間であって、
人間なんて、いつも変化していて、人の「考え」とか「想い」なんて、
1日経てば変わるなんてことはよくある。1秒でも変わる。

そんな変化が当たり前の人間にとっての「形」は、
なんでもいいのかもしれない。
というよりも、人間が変化が当たり前とする存在であるのだから、
「形」もまた常に変化しなければいけない。

だけれども、その「形」が人間と同じスピードで変化し、
対応することなんて不可能である。
だから、「形」の中に葛藤(不満とか不安ともいえる)が
生まれることは当然なのだろう。

だからこそ、「形」の中に生まれる葛藤を、どう扱っていくのか?
ということが何よりも大切になってくるのだろう。
その葛藤が「形」の中に確かに生まれてきて、
それをみんなが受け入れていけば、
自然と「形」は変化していくのだろう。

だけれども、その葛藤を個にとどめてしまい
「形」の中に生まれることがなければ、きっと「形」の中にいる
「個」という存在が消えていく、離れていってしまうだろう。
それが、よくおこる組織の崩壊、解散なのかもしれない。

だから、なにより大切なことは、
「形」というものにこだわらずに、
その「形」の中に必ず起こりうる「葛藤」をまずはキャッチすること、
キャッチできるための環境を「形」の中に整えることなのだろう。

その環境を常に整えていけさえすれば、
「形」は自然と「形」の中にいる人の変化とともに変化していくのだろう。


 

Facebookに投稿すること

Facebookに投稿してみると、
人からコメントがついたりする。
そのコメントが意外な人からだったり、
コメントの内容によって、自分自身が励まされたり、
見てくれた、読んでくれたんだという嬉しさを感じる時もある。

そうやって、自分が外に何か働きかければ、
何かしら反応が生まれてくる。
その反応を感じて、また働きかける。

何もしなければ、何も反応はないわけで、
とてもシンプルなんだけど、何かを自分から働きかければ、
何かが必ず生まれるということを、改めて感じている。

その反応は、自分では予想がつくことではないし、
自分では意図できない「反応」である。

自分の捉えられる自分という範囲を超えて
自分を認識していきたいと思うのならば、
そうやって、働きかけて、反応を拾っていけばいい。

自分では意図も予測もつかない反応を
起こす働きかけは、自分を考えていくためには大切なことなのだと思う。

答えがプリントの裏にあること

答えがプリントの裏にあること

 

らくだ教材のプリントは、答えがプリントの裏に書かれている。
僕の小学校、中学校、高校までの学習を振り返ると、よく答えの冊子をなくした。。。(笑)


大体の問題集は、答えと問題が別の冊子になっていて、
問題を解いたはいいけれど、答えの冊子がどこかに行ってしまったり、
答えの冊子があったとしても、めちゃくちゃ見にくかったりして、
答え合わせしていると、他のところの答えをみてたりする。。。


問題のレイアウトとは違うから、どこが問題の答えなのかを探すのにも時間がかかったり、答え合わせをするのにも一苦労した覚えがある。


らくだの教材は、その点、問題用紙の裏面に回答が書かれていて
すぐに答え合わせに取り組むことができる。
問題と同じレイアウトということもあって、
問題の答えの場所がすぐにわかることもとても分かりやすい。


子どもが自分で丸つけ・直しができる教材として、
かなり丸つけと直しがしやすい形になっていることがわかる。

裏面に書いていれば、子どもも答えの冊子を無くさなくて済む。
(問題と答えが分かれていたら、答えを家に忘れたとか、無くしたとかそういう問題はおきるだろう)

問題を解いて時間的にも「すぐに」丸つけに取り掛かることができることは、
自分で丸つけ・直しをすることにおいてとても大切なように感じる。
問題を解き終わった後は、自分が解いたという実感があるから、
問題ができたか、できなかったか、ということに対しての実感も残る。

もし問題を解いて、丸つけするまでに答えの冊子を探して時間が経ってしまったり、
回答用紙が見にくくて、丸つけするのにストレスがあったら、
自分で解いたという実感がどんどん薄れていく。
そうすると、丸つけ・直しに対してもだんだんと意欲がなくなるし、
丸つけしなくなったら、結局自分ができたのか、できなかったのかも曖昧になって、
学習は進んでいかないのだろう。

その点で、答えが裏に書いてある作りになっているらくだのプリントは、
子どもが自分で丸つけ・直しができるために工夫されている1つのポイントなのだと思う。
僕が、よく答えの冊子をなくしていたので、このありがたみはとってもわかる。

指導する先生だって、答えの冊子を忘れたりする子どもの対応をしなくてすむ。

その点で、答えがただ裏に書いているだけなのだけど、
ただ裏に書いてあることのもたらしていることは、かなり大きいんじゃないかと思った。

2018年のふりかえり

2018年の振り返り

2018年は、かなり大きな変化があった一年でした。
もう、2019年になってしまいましたが、2018年の出来事をまとめておこうと思います。

・6月 唯ちゃんのおじいちゃんが亡くなる
自分のおじいちゃんは、もう両方ともなくなってしまっているので、
唯ちゃんのおじいちゃんは自分のおじいちゃんみたいな感じだった。
病気になる前も、一緒に唯ちゃんの両親のお店でケーキを食べたり、一緒に過ごした時間がとても長かった。
おじいちゃんは、予科練特攻隊として戦争の経験もある。よく戦争の話をしてくれた。
戦後は、全国をよく旅行したという。それは、戦争で亡くなった自分の仲間や上司を弔いたいという気持ちや、
戦争を受け入れて、自分の中で折り合いをつけたいという想いからだったという話がとても残っている。

そして、92歳という年齢でなくなったけれど、
病室で、自分は何を残せたのか?ってずっと考えてたけど、
何か残せたとか関係なくて、ここまで生きられたこと、ただそれだけでよかったという言葉も心に残っている。
最後に、自分の人生を肯定して、ここまでやったという想いで死を迎える、そういう逝き方を初めてみせてもらった。


・4月末 畑に出会う
蒲原の山で畑ができたら良いなと思っていたら、姉の幼馴染の紹介で、畑を紹介してもらった。
地主さんもとっても優しくて、快く借りれることになった。そういうこともあり、蒲原に帰える流れが生まれてきた。

・5月 蒲原の古民家、そのオーナーの先生と出会う
ちょうど、実家から歩いて2分のところにある古民家を購入された大学の先生とご縁をいただいた。そして、9月から住ませてもらうことも決定した。
全てが、すごい良い具合に流れに乗っていて、決まる時は自然と決まっていくんだな、なんてことを感じずにはいられなかった。
本当にありがたく、いただいた人や土地、建物のご縁を大事にしていきたいと思わずにはいられない。

・5月〜8月 畑の畝だて
畑をお借りすることができて、耕作放棄地(もともとみかん畑)を草刈り→畝だてしていった。
今年の夏は猛暑で、ゆいちゃんは熱中症になったり、過酷な日々だった。
結局引っ越し前は、畑全体の1/5 程度しか畝は立てられなかった。

・引っ越し
アラスカ前に引っ越しをした。自力でやったのだけれど、今年の夏は暑すぎてバテバテだった。
アラスカの準備もなかなかできず、8月末はヘトヘトだった。

・9月 アラスカに行く
アラスカに行った。このアラスカの旅は、オーロラアドベンチャーツアーというものだったので、
ホテル泊は1日のみで、あとはモーターホームというどでかい車だった。
そのモーターホームのドライバーとしての参加だった。
自分では絶対やらないようなことにチャレンジできた良い経験だった。

ラストフロンティアとも言われる手付かずの大自然は、とっても気持ちよかった。

・10月 畝だて、イノシシ対策の柵立て
アラスカから帰ってきて、畝立ての日々が始まった。
最初はかなり疲れていた作業も、何度もやっていくうちにやり方や、コツを覚えていって、
1日の作業量がかなり増えた。数をこなすって大事だなと改めて思った経験の1つだ。
イノシシにもかなり荒らされて、本当に蒲原の山にイノシシがいるということに驚いた。
(やられてみて初めて気づく)


・11月 入籍
ゆいちゃんと11月15日に入籍した。その前に両家の顔合わせなど、
塩坂家と高橋家が初めて直接お会いできた。
お互いの両親が、どちらも僕らのことを見守ってくれていることに本当に感謝です。
結婚はゴールではなく、スタートです!!

・12月 ようやく落ちつく
ようやく引っ越しから3ヶ月が経ち落ち着いてきた。
初めてらくだメソッドのプリントを1ヶ月毎日できた。プリントに向かう自分の姿勢も少し変化があるように感じた。

今後は、インタビュー通信の発行をやっていこうと思っていて、
自分の中で新しい動きが生まれてきて、新年明けて1月からまた楽しみになってきた。


2018年は、たくさんの変化のある1年だった。
引っ越すことも、入籍することも、
自分たちで決めてきたのだけれど、今こうやって振り返ってみると、
そういう1つ1つの決断をよくしてきたなと思う。

きっと、今年もそうやって1つ1つ決断してすすんでいく1年になるかもしれない。
でも、何か正解の道があるわけでもなくて、
決めて、その道を地道にすすんで行く。それを自分が納得できるように日々やっていくだけなのだと思う。
そういう心持ちですすんでいけたらと思う。

2019年も楽しみたい。

暦の上では年末です。

今年もようやく終わる。
スーパーに行けば、たくさんの人がいる。
いつもよりたくさん食べ物を買って、
いつもより、ちょっぴり贅沢して。

普段はみんな違った気分で、
みんなそれぞれの日を過ごしているのだけれど、
年末は、みんなが同じような心持ちでいる。

ただ、時間が流れているだけだけれど。
暦の上で生きてる私たち。

現状把握のためのインタビュー

先日、未来デザインワークショップを終えて感じたことから。

未来デザインの第二局面は「現状把握局面」である。
現状把握とは、客観的な事実素材を集め、
現状=明確な事実を把握する局面だ。

これから僕は、地元で自分の未来をデザインしていく。

そうなると、自分の「現状把握」というのは、自分ただひとりの内面や、
自分の活動の現状を把握するだけでは、自分の現状把握といえないことがわかる。
(その地域で、その地域の市民と繋がりながら自分の未来はデザインされていくのだから)

自分の現状把握というのは、自分という一個人をこえて、
自分の地域や市民・身の回りにいる人たちの現状を把握するということなのだろう。

そうやって考えると、僕はまず、自分という一個人をこえて、
地域にいる人の声を聞くことが大事なのだろう。

そしてそれは、インタビューすることによって、
さらに深まっていくのだろう。

どれだけ顔を合わせていても、インタビューしなければ見えない部分は必ずある。そして、その見えない部分こそ、その人のニーズや、大切にしていることが隠されているように思う。

見えない部分を見えるようにすることをインタビューを通して行っていく。
その見えない部分が見えることで、
新たなつながりや、自分の役割や居場所がみえてくるかもしれない。

そんな想いをもってインタビューをしていきたいと思う。

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第一回目のインタビューは、昨年、僕が生まれた街である蒲原にある古民家を購入された、千葉大学教授の木下勇先生にインタビューさせていただいた。

子どもの参画や、子どもの「遊び」をテーマ、
研究されている先生は、学生時代からこれまで多くの方々にインタビューをしてきたという。

そんなことから、インタビューの面白さや、聞くことの大切さについてのお話もしていただき、とっても有意義な時間だった。





 

現状把握 観念ではなく事実を

12/22 未来デザインWSのふり返り
〜オンラインにて名古屋⇄静岡 をつないでもらい参加しました〜

 
◯現状把握 観念ではなく事実を
 
この話題は、いつも未来デザインのワークショップの時にでる話題です。
「現状が正しく把握されれば、おのずと未来が見通せるようになる」
 
たしかに、現実を正しく把握すれば、今何をやればいいのか、どんな手を打てばいいのかがわかる。
 
現状(客観的事実)が正しくつかめていないから、
不安になったり、もやもやするのだろう。
こうやって考えると、ものすごく簡単で当たり前のことを言っているように思うけれど、これがなかなか難しい。
 
何が事実で、何が観念(自分がつくりだしているもの)なのか?これがごちゃまぜになってしまっている。そして、事実を正しく見つめずに、自分の見たものが事実=現状だと思っていることがほとんどだということを痛感した。
 
でも、じゃぁどうしたら客観的事実を把握する見方ができるようになるのか?
それは一人ではなく他者との関係のなかで、
伝える→伝わらない の経験を繰り返すなかで、
自分の観察の仕方が変わってくる。という内容が印象的だった。
 
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◯僕の今後の活動も第二局面「現状把握」的動きが必要になってくる。
 
地元に帰ってきた。地元に帰ってきて感じたことは、
やはり地元は、名古屋や岐阜とは流れている空気や、人の様子が違う。ということ。
でも、違うと言っても、何がどのように違うのか?と問われても、なかなか事実ベースで応えることはまだできない。
 
今日の未来デザインのワークショップで僕は、
現状把握が全くできていないということに気づいた。
 
自分の内側にある想いだけで進んでいくことはできない。
他者との関わり、地域との関わり、自分の置かれているまわりの環境が存在して初めて自分が存在することができる。
 
だけど、自分の内側や、自分の手の届く範囲でしか、
そのまわりの環境に対して把握することをしていない。
 
ちょうど引越しをして3ヶ月が経った。
ようやく自分の身の回りのことが落ち着いてきた。
何から始めればいいのか?と思っていたけれど、まずは現状を把握するために動いていくしかない。人から話を聞いたり、自分で見て聞いて、感じて。
足を動かして、手を動かしていくしかないと感じた。
 
そうやって、事実がだんだんと把握できるようになれば、
自ずと自分のやれることややらなければいけないことが、理念を元に生まれてくるのだろう。(理念設定ももう一回やりなおすけれど)

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そして、自分のやれることは、
自分の能力を上げることはもちろんなのだろうけれど、
自分の現状把握の範囲が広がっていけば、
自然とやれることが広がっていくということもあるのだと思った。

自分の今は、自分の現状範囲の中にあるのだから、
自分の現状範囲のその範囲が広がっていけば、
自分に広がりが生まれてくるだろう。
 
だから、自分の広がりを生むために、
自分のスキルを上げたり、
自分が何かをできる人になったりする前に、
自分が今、この現状をきちんと把握することが先のような気がした。

そうしたら、今の自分でも自然と何かできることがあって、
自分が自然と広がっていくことがあるのだろう。
そして、その時に始めて、自分にスキルが必要だ。とか、
これを学びたい、あれをできるようになりたい。そうやって進んでいくのだろうと思った。
 
これは、らくだの計算プリントと同じことだ。
自分が今、「できないという実感=現状把握」があれば、
どこを学び直す必要があるのかすぐ理解できることときっと同じなのだろう。。
 
足し算ができないのに、自分が何ができないのか?という現状が把握できず、
でもできるようになりたいから、掛け算や割り算を勉強しようとする。
 
これは本末転倒であって、これでは一向にできるようにならない。
 
でもこれと同じ問題が、
自分の人生で起こっていることはたくさんあると思った。
 
 

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自宅にてオンライン名古屋⇄静岡をつなげてもらい、参加させてもらいました。
シートやフリップのシェアはメッセンジャーチャットでつなげました。

こうやって、オンラインでも自分の学び場をもてるということは、
ネットがここまで普及してた今だからこそできることだと思います。

小学校や中学校で、メディアリテラシーとか、インターネットの使い方(主に危険性)をたくさん教えられたけれど、こうやって有効にインターネットの機能を使って、つながりのなかで学べる機会に参加できるということは、ネットの使い方としてはとても価値あることのように感じます。