先週末も実家の静岡に帰った。
畑を正式に借りることができるようになったため、
この3日間は朝からずっと畑に足を運び、
草刈りや、畝立てなど、作付けできる状態に徐々に畑を整備していく作業をした。
やはり朝から外に出て、体を目一杯使うと気持ちがいい。
疲れも溜まるけれど、それ以上に畑をゼロから始めることの楽しさが
自分の中では、充実感として感じられる。
ただここ最近、こうして実家に帰って畑の作業を進められている反面、
らくだの1日1枚のプリントができていない。
そのできない現実をまずきっちり見つめることが
今の僕にとっては一番重要なことなのだと思う。
なぜできないのか。
それはこの「充実感」なのだと思う。
畑の作業が進んで、新しいことにチャレンジする。
これは、本当に充実感を感じられるし、楽しいことだと思う。
ただ、ここで感じられる充実感と、
らくだの計算プリントは全く別のことなのだ。
何かがうまくいっていたり、気分がよければ、
1日1枚のプリントをやらなくていいとか、
やるかやらないかを、あやふやにしていいとか、そんなことは一切ない。
でも、自分の中でうまくいっていたり、
充実感を感じられると、そこに気をとられて、
そこの気分に浸りすぎて、
全く別のことにも影響を及ぼしてしまっていることが
ものすごくあるように思えてきた。
目の前にいつもある1日1枚のプリントは、
たとえ、彼女と喧嘩をして気分が悪くたって、
何か仕事でミスをして、落ち込んでいたって、
そのこととは、全く別のことなのだ。
でも、その別のことに、持ち込んでしまう。
その充実感だって、悲しい気持ちだって、
今、この目の前にあることとはきっと関係がない。
1日1枚のプリントがすっとできるためには、
そういう自分の状態に気づき、観察するしかない。そして、自分と折り合いをつけて、
目の前にある1枚のプリント=今ここに戻るしかない。
そのためには、プリントができない。やりたくない。そういう気持ちを
きっちり受け止めることなのだろう。
そのプリントができない。やりたくない。という気持ちは、
目の前にある1枚のプリント=今ここに、
何か自分が持ち込んだり、飲まれている証拠なのだと思う。
今ここに、畑はないし、今の自分は家にいる。
なのに充実感があるなんて変な話だ。
振り返りのタイミング
べてるの家の上映会が4/14にあり、
昨日(5/8)に振り返りの感想シートと、
振り返りのセッションで使った付箋を参加者の皆さんにPDFにまとめてシェアを行った。
自分としては、上映会からかなり時間が経ってしまい、
参加者に対して申し訳ない気持ちと、
そんな自分の状態に気が重たかった。
けれど、実際にシェアしてみると、今まではシェアした際にほとんど反応がなかったけれど、今回はシェアに対しての反応があり、結果としてシェアしてよかったなと思った。
上映会は1日であるけれど、その体験を振り返ることはいつでもできる。
4/14から5/8までの体験があるからこそ、振り返りの中で気づけることがある。
1つの体験が、時間の経過によって、
いくつもの意味合いがうまれてくる。
1つの体験を1度きりのものとせず、大事に振り返ることも大切なことだ。
そういう振り返る機会を、
場を開く人は参加者に対して与えることができれば。と思う。
待つということ 100分de名著 生きがいについて 著:神谷美恵子
「待つ」ということは実は創造的なことなんだ。
「待つ」か「行くか」と迷ったときに、「待つ」はどちらかというと消極的で、「行く」方が積極的、かつ創造的だと思いがちだろう。
そうではなくて、待つということが何か新しいものを生み出す
どうしても欠くことのできない営みなんだ。
そのときに、自分は今何もしていないとか、
こんな自分だったら、こんな風に生きている意味がないとか、そういうことを思う必要は全くない。
「生きがい」は一見見えるようなものの後ろに隠れていることがある。
待つというのは思い通り生きることができないことであって、
思い通り生きることができないということと、
あなたの人生の創造性はあまり関係ないのだ。
(若松英輔さんの解説から)
2018.5.6
心が疲れてしまったり、
体に異変が起こっていても、
それは、自分がまだ未熟だからとか、弱いからとか、
そうやって理由や原因を自分のせいだと決めつけて、
頑張って、努力して、なんとかしようとしてしまうことが、
きっと多くの場所で起きているように思う。
でも、べてるの実践では、その真逆のように思う。
社会に合わない自分、合わせられない自分を、
無理やり矯正するのではなく、その自分がどうやったら生きていけるのか研究する。
そして、そんな自分が生きていけるような社会をつくろうとする。
社会を築く、街をつくるということは、
自分を知ること。自分はどんな人間なのか?そんな自分はどんな社会なら生きていけるのか?
個人と社会は切り離さるものではないと思った。
プロセスの中に意味を見出せれば、どんなことでもやってみればいいんだと思う。
プロセスの中に意味を見出せれば、どんなことでもやってみればいいんだと思う。
いつも結果を考えてしまう。それは意味あることなのか。誰かの役に本当に立つのかどうか。
そうやって、結果のことを考える癖ができてしまっている。
けれど、その結果はどうであれ、その結果に向かっていく過程は必ず存在するし、その過程の中に意味を見出すことができれば、結果はどうであれ、必ず意味あることになる。
だから、どんなことでもやってみる。プロセスにこそ意味を感じることができれば、何かを始めたり、取り組むことにそんなに覚悟もいらないと思うし、気を張る必要もないのだと思う。
そうやって、いつもプロセスにこそ意味を感じていたいと思う。すぐそれを忘れてしまうから!
できることと、分かることは違う。
できることと、分かることは違う。
野菜を切ること。これはいつもやっていて、
考えずとも、僕にとってはできることだ。
けれど、そのできることが「わかっている」と言われると、
「分かっていない」のだと思った。
切り方を教えてあげて、と言われても、
どうやって伝えてみれば良いのかわからない。
でも、「野菜をきる」という1つの作業の中にも、
うまく切る為には、ポイントがいくつかあるのだということが分かった。
自分が自然的にできていることは、理解していないことの方が多いのだと感じた1日だった。