そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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「学び多き大学生活」

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「学び多き大学生活」

 

母校の大学で、「学習」「学生生活」に関して、これから入学予定の高校生にお話する機会ができた。

 

その話す内容を考えるにあたって、僕自身の大学生活を振り返ってみる。

 

僕は「教師になるため」に大学を選び入学した。でも、4年間を振り返る中で、この「〜のため」を手放せたことが、学び多き大学生活になるきっかけだったのではないか、と思った。

 

僕の出身高校は、勉強も部活もかなりさかんで、毎日学校にいって、部活をして…の毎日だったわけで、僕自身も文武両道できる高校生が素晴らしい高校生なんだって思っていた。

 

そんな高校生活を送った僕にとって、大学受験を失敗して、この大学で自分の大学生活を成功させるには、僕にとっては「〜のため」つまり「教員になるため」という目的を達成しなければいけないと思い込んでいた。

 

だからこそ、大学1・2年は、まわりの奴らと距離を取り、流されないようにとあまりまわりと関わらない生活を送っていた。

 

でも、1・2年も真面目に学校の勉強をやっていれば、成績はかなり良くなる。そして勉強をまったくやらない、まったく興味のない奴らにとっては、テスト前困ったときに頼れる男になった。僕の大学はひと学年100人にも満たない小さな大学だったので、先輩も後輩もいろんな人と関わることになった。

 

そんなとき、「ふざけるな。」「都合が良すぎる」と思う自分も、もちろんいるわけだけど、自分とはまったく違う高校時代を送ってきて、今まで関わったことのない人と仲良くなれたことが、とっても嬉しかったことを覚えている。そういう友だちと時間を共にすることが、かなりいろいろ教えてくれた。

 

自分のことも、相手のことも一つの基準で評価して、その中で生きてきた自分にいつもいつも気づかされた。

 

僕がこの大学に入って、「教員になるため」という目的を達成することよりも、この「体験」からの学びこそ、今の僕の支えになり、大学時代に気づけた大きなことだと思っている。

 

きっとこれから大学生活を送る高校生にとって、「〜のために」ということがないと、不安なのだと思う。僕自身はそうだったように。

 

でも、目的がなくても、何のために、がなくても、4年間の中で起こる「体験」から気づき、学んでいけば、楽しくて、充実した「学び」の多い大学生活が送れると思う。

 

僕だって、「教員になるために」ただその「目的」を達成することだけを考えていたら、こんなにもいろんな人と仲良くなる必要もなかった。でも、僕に起こった体験は、「テスト前に頼れる男」になることだったし、そこと「目的」はまったくリンクしていないけれど、今の僕にとって、とっても大切な貴重な体験になっている。

 

本当に「目的」を達成するためだけに、大学に行かなくてよかった。と思う。

目的を手放せた時、目的以上のところに行けるのだと思う。

 

「体験」したら、いろんな感情、いろんな感覚、いろんな気づきが生まれるだろう。そして自分を知り、自分の枠が少しずつ少しずつ広がっていく。

掛け算プリント

掛け算プリント

 

頭で解いている時と、

読んで答えている時(3×3は「さざんがく」と解く)と、

目で見て答えている時がある。

 

もちろん問題を溶けるスピードも変わってくる。

 

掛け算はできていても、

どうやってできているのかは異なる。

 

できることの中にもいろんなでき方がある。

 

目で、耳で答えられるほうが、リズムがいい。

その時は速さを意識していない。

体が動くから、

頭で解いていないから、

「もっと早く」がない状態である。

 

この状態が、「身」につけること。

できるから、「身」につけるへ。

頭を使わずに、

体ができるように、

 

そのためには反復がとっても大切だ。

 

その先に、考えずに体が動く状態がある。

 

体が勝手に動く時こそ、

最大スピード。

それは体が働いているから、

時間なんて考えられない状態だ。

【べてるの家】ベリーオーディナリーピープル上映会に向けて

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4月22日に、べてるの家のドキュメンタリー映画「ベリー オーディナリー ピープル」の上映会を、中村区で寺子屋塾を主宰している井上淳之典さんの協力のもと、開催することになったのですが、そもそも「べてるとは?」「ベーリー オーディナリー ピープルってどんな映画なの?」と言われても、一言で答えることがとっても難しいと思っています。

 

それだけ、べてるの家から、この映画から、学べることや気づかされることが多様で、様々な角度からべてるに触れることができると思っています。

 

ですので、まずはこの映画を撮った四宮鉄男さんの文章を紹介させていただきたいと思います。

 

べてるを通して、どんな出会い、繋がりが生まれるか今からとっても楽しみにしています。タイミング合う方、ぜひ4月22日お待ちしております⭐︎

 

べてるの家の日常を撮り続けていると、えっ、そんな生き方があるの!という驚きの連続だった。ベてるのメンバーの生き方を見ていると、自分自身の生き方が炎り出されてくる。自分がどう生きるのか?自分らしい生き方とはどういう生き方なのか?

べてるのメンバーとの出会いが、自分自身の生き方を見直し、考え直すきっかけにもなっていた。

一方で、「ベリー オーディナリー ピープル」のビデオを見た人たちの中には、彼らの生き方というより、自分自身の生き方の問題として受け止めている人が多い。べてるの人たちの生き方を見ることで、自分の今の存在の仕方に安心したり、励まされたり、元気をもらえたような気がするという感想がたくさん寄せられている。イメージの中では求めつづけていながら、まだ自分の生き方では実現できていないものが、べてるにはたくさんあるようだつた。

そこには、これからの時代を生きていくための、実に豊かな知恵が溢れているように感じられる。彼らの生き方には、何か、私たちの生き方へのヒントやモデルになるようなものがありそうな気がする。

 ベてるのメンバーが、見栄とか効率とか周りからの評価とか、余計なものはいっさい削ぎ落として、素のままの自分として生きていることも、その一つだった。そうした生き方ができるのも、おそらく、精神病という病気が、人間が生きるということの根源を問い詰めるような病気だからではないだろうか。

 しかも彼らは、そこから生還してきた人たちである。つまり、彼らの人生の失敗も、つらさも、痛みも苦労も、その一つ一つが、私たち自身が生きるということにとっての、大事な宝物なのだ。

 べてるの家からのメッセージは、健常者と言われる人たちや、自分を健常者と思いながら、毎日を悩み苦しんでいる人たちへの励ましのメッセージのように思われる。苦労や悩みがあってもいいじゃないか。つらいことがあってもいいじゃないか。もっと毎日を、明るく、たのしく、幸せに生きていこうよ!

 奇妙なことに、『ベリー オーディナリー ピープル』の八巻のビデオはすべて予告篇である。予告篇といっても、それぞれ一時間から一時間半、最長で二時間の作品もある。

 毎日毎日を生きていくことには限りがない。完結しないし、変化していく。「べてるはこうです」なんて、言い切れない。意味づけや結論や、完結性は邪魔だった。だからどこまでも予告篇なのだ。べてるは素晴らしいという賛歌ではなく、ただ、その時その時を輝いて生きているメンバーたちの今を描くことで、同じ生きている時間を私も共有したいと思ったのだ。

『ベリー オーディナリー ピープル』は、べてるの家の日常にただカメラを向け、ただ撮っただけのものである。ドキドキハラハラするようなストーリーはない。ドラマチックでもない。感動に涙するような場面もない。しかし圧倒的におもしろい。

 

それは、登場してくるべてるのメンバーがおもしろいからである。

彼らが、実に、明るく、たのしく、幸せに、生きているからである。

そんな「べてるの家」の生き方って、どんな生き方なのだろうか?

 

 

当日は、映画をみてから、それぞれが感じたこと、気づいたこと、学んだことを共有し、ゆっくり対話を深めていきます。

 

参加申し込みは

◯FBの場合

「べてるの家」 ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル」上映会

 

◯FB以外の方は

taro.sonomammaアットgmail.com までご連絡ください。

 

ぜひ、タイミング合う方ご参加をお待ちしています⭐︎

 

【まなゆいと自然農】できる範囲がパーフェクト

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まなゆいではよく、

「できる範囲がパーフェクト」という姿勢を大事にします。

 

先日、畑仕事をやった時に

「できる範囲がパーフェクト」という言葉を

改めて受け取り直した気がしました。

 

脱穀でも、唐箕がけでも、

できる範囲が必ずあるんですね。

 

大量のお米を一気に脱穀することもできないし、

できる範囲を超えていくと、

心も体もきつくなっていきます。

本当にただできる範囲で作業する中に、

みんなと作業を通して同じ時間を分かち合える幸福感、

お米に対する感謝、愛おしさがありました。

 

自分のできる範囲をただやることは、

自分のできないこと、

できない範囲を知ることでもあって、

そのできない範囲を受け入れて、認めて、ゆるして、愛していくことでもあります。

 

ただ自分のできる範囲をやってみると、

そのできる範囲の中にとっても大切なものがある。

 

できる範囲「で」いいんだよ。から、

できる範囲「が」いいんだよ。に。

 

本当にできる範囲「が」パーフェクトと思えた時は、

自分のできないことを

受け入れて、認めて、ゆるせて、愛せた時◎

【自然農】 歴史を学ぶということ

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足踏み脱穀機や唐箕がけに触れて感じたこと。

 

足踏み脱穀機や唐箕がけという名称を、

小学校の時にただただテストのために覚えていた。

意味もわからず。

歴史を学ぶために社会科見学にも行った。

 

実際に足踏み脱穀機で脱穀や唐箕で稲の選別をして、

その当時の学びの意味が少しわかったような気がする。

 

その時代の道具に触れることは、

その時代の人たちの気持ちに触れることだと思った。

 

その時代の人たちは

何を大切に生きていたのか、

どんな暮らしをして、

どんな幸福感を感じながら生きていたのか。

 

それが、道具を通して伝わって来る。

道具にその時代の色が凝縮されている。

 

歴史を学ぶことは

それを感じて、

今の自分、今の社会を問うことのように思えた。

 

自分の幸せってなんだろう。

今の自分の暮らしってどうだろうか。

 

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↑足踏み脱穀

 

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↑唐箕

風をおこして、完熟したお米は手前に(これが一等米というらしい。)、軽いお米は手前から2番目の出口に落ちます。

 

そして、ホコリや未熟米は風に乗って外に吹き出されます。

 

足踏み脱穀機も、唐箕も作りがとってもよくできていて感心しました。

 

決して楽な作業ではないし、

一人でやるのはとても厳しいからこそ

誰かと一緒に作業して協力しあって、

歌でも歌いながら、時には休憩しながらやっていたんだな〜と思います。

 

楽ではないけれど、その手間のかかる過程こそ大事なのだと思いました。

 

もちろん今の時代だからこそ、

やれることもあるし、

得られる豊かさもあると思うから、

歴史に触れながら、

今に問いを持ってより豊かに進んでいけたらいいな◎

 

分かり合えないを分かり合う

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なかなか分かり合えないことがある。

 

自分の中では、大切なことがあって、

でも、それを伝えられない。

伝えきれない。

 

そして、わかってくれない相手に不満をもつ。

そして、伝えきれない自分にも不満が残る。

 

そんなとき、「わかってもらえることの方が少ないですよ。」

という言葉がすっと入ってきた。

 

「分かり合えないこと」を分かり合える関係があれば、

なんだか「分かり合えないこと」も悪くないな。

 

それでも僕は分かり合いたいから、

自分をもっと知って、

自分をもっとうまく表現したいと思う。

 

そして、相手が言葉で表現できないことも、

相手が伝えきれないでいることも、

よく知ろうとする。思いをめぐらせる。

 

そんな「分かり合えない」ことを

分かり合える関係が築けたら心地いい。

 

自分が言葉として、伝えきれないけれど、

大切にしている「相手には見えないもの」があるように、

相手にも、僕には「まだ見えてない」「まだ伝えきれない」大切なものがあることを

大切にしたいと思いました。

 

自分らしく生きることは 自分の「問い」を大切にすること。

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自分らしく生きることは

自分の「問い」を大切にすること。ともいえそうだな。

 

生きていれば、不思議に思うこと、

疑問に思うことなんてたっくさんあると思う。

 

けど、そんな自分の「問い」を大切にすることって

なんだか難しいな。

 

こんなこと思っているなんて

くだらないのかな。とか、

そんなこと考えている暇あったら、、、

なんて思ってしまうことがたくさんある。

 

でもきっと、そんな自分から生まれる

ピュアな問いを大切にすることこそ、

自分を生きる、

自分らしく生きることなのだと思う。

 

できないこと、

わからないこと、

不思議に思うことからはじまる!