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2018.4.10 小学相当のプリントが終了 その③

1日1枚のプリントをやることが、どれだけ難しいことか。

 

この小学相当のプリントを取り組んだ中での、
学んだことを3つあげるとしたらなんだろうか?という問いを元に、
振り返りを書いている。

今日は、その3つ目の記事です。

 

1日1枚のプリントをただやることということをはじめて、

1年半ほど経過したのだけれど、

この1日1枚のプリントをやることが、 どれほど難しいか。ということを今も感じている。

 

1日このプリントをただやるだけなのに、

それがなかなかできない。という日がすごく多く、

スッとプリントに取り組める日の方が少なかった。

 

このプリントをなぜやっているのか?と聞かれても、

これといって、決まった答えはない。

決まった答えはない。ということは、

これといった決まった 「目的」があるわけではない。という意味である。

決まった「目標」「方向」があるわけではないとも言える。

 

ただ、このプリントを続けていく中で、

自分にとって、何かしらの意味が生まれてきたことは確かであるけれど、

(“今の自分を見つめることができるため”とか言えるのかもしれない。)

それだけのため。という意識は全くなくて、

目的をもたずに、ただやり続ける ということが、

このプリントの僕なりの目的と言えることになるのかもしれない。

 

このプリント学習で、多くの記事が書けることを見てみても、

このプリントから気づけることや、発見できることは

数多くあるのだけれど、それは、この「目的」や「目標」ということを決めずに、

ただやり続けているからなのだろう。

 

これまで、「目的」をもたずに何かをやり続ける経験をしたことがあっただろうか。

 

学生時代にやっていたサッカーも、「全国大会に行くため」にやってきたし、

受験勉強だって、「目指す大学に合格するため」にやってきた。

必ずそこには、目指すところがあって、

そこに向かって頑張って続けてきた。

 

だから、毎日そのためだけにやればよかったし、

その日々が、目標に対してどうだったのかも、結果を見ればすぐ分かった。

 

けれど、この計算プリントはどこに向かってやっているのか、と考えても

その「どこへ」という目指すものはない。

 

じゃあ、なんでやっているのか。と思うかもしれないけれど、

スタート地点で目指す方向が決まっていなくても、(目的や目標が決まっていなくても)

このプリントの続ける日々の中で、その人にあった方向へ自然と向かっているのだと思う。

 

一人ひとり目標も、目的も違って当たり前で、

その過程(進むはやさも、進み方も)人それぞれである。

この1日1枚のプリントの日々は、その人の本心から向かいたい方向を

示してくれるもののように感じる。

 

この1枚のプリントから気づくこと、感じることは

その学習者によって全く異なる。

それは、一人ひとりが向かう方向やその過程が異なることを

示してくれているように感じる。

最初に決められた目的・目標のような方向が決められてなければ、

毎日自分の方向へ必ず人は向かっていく。

 

初めから方向がセットされていない分、

プリントをやっても、褒められることもないし、

何かを得ることもない。

(目標が決められていれば、周りも目標に対してどんくらい近づけたかわかる。だから褒める。)

 

だから、今まで味わったような達成感や、頑張った感を得られることが

すくないのかもしれないけれど、

この目的をもたずに、ただ淡々と続けることが、

毎日、自分の進む方向への軌跡を残してくれているのだと思う。

その日々を振り返ってみると、

自分の方向性が、見えてくるのかもしれない。