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歎異抄とらくだの学習

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歎異抄とらくだの学習

 
小5-23,24,25
 
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 念仏申し候へども、踊躍歓(ゆやくかん)喜(ぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、
いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、
 親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。
 
そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。と説くのです。
 
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小5-23,24,25
 
1枚のプリントの計算量が多くなり、
1枚のプリントで15分〜30分くらいかかるようになり、
プリントをやること自体ができない日があった。
だから、プリントが合格できない日が増えてきた。
 
だけどいつの間にか。できないなりにも続けていると、
「できる」ようになっている。
 
この「できるようになる」というのは、
自分の努力でも、自分の根性でもなんでもなくて、
ただ「できる」ようになってしまっているという感じに近い。
 
自分が自覚している自分の力を超えて、
「できない」から「できる」に移り変わる。
「できない」が「できる」ようになるというのは、
どういうことなのか?と考えると、
自分のはからいではないところの力が働いている。
 
そんなことを思った時に、この歎異抄の第9条の内容が、
このらくだの学習で学んでいることにとっても近いんじゃないか。という気持ちが生まれてきました。
 
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「できない」という中にいること。
その「できない」をごまかさずにいれば、いつか必ず「できている」
 
これは、「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」ということに、とっても近いような気がした。
 
根性も努力もいらないこの学習は、自力で「できる」こと目指す学習ではなくて、「できない」というものを受け入れて、いつも見つめ続ける。すると、自然と「できる」方向へ向かっていく。それは、「他力」ですすむ学習とも言えるのかもしれない。
 
自分の努力や根性のような、自分のはからいを超えたものが、「できる」という方向へと導いてくれる。
だから、自分の思いもしなかったプリントができるようになったり、自分の思いもよらぬ速さで解けるようになる。
 
「喜べないからこそ、私たちは救われるのだ。」という言葉は、
「できないからこそ、できるようにしてもらえるのだ。」とでも言えるような。そんな気がした。
 
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・中村教室で吉本隆明さんの本や話に触れていること。
・今年、祖父を亡くしたこと。
(昔から我が家浄土真宗であることは知っていたけれど、改めて知る機会があった)
・おじいちゃんが親鸞好きであること。
 
いろんなことが重なり合って、親鸞という人や歎異抄というものに繋がりました。親鸞とか、歎異抄というものは学生時代に無理やり暗記したものに過ぎないものだったものに、こうして改めて出会い、自分なりに大切だなと思うことを受け取っているということは、なんだか面白いな。と思います。
 
歎異抄が書かれた意義からも分かるように、親鸞という人が考えてきたこと、向き合ってきたことは、とてつもなく大きくて果てしないもので、そう簡単なものではないと思うけれど、この先もずっと読み続けて、深めていきたいと強く思っています。
 
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100分で名著で再放送が来月?予定されているようです♩