Sonomamma Taro no Blog

日々の中で感じたこと、気づいたこと、学んだこと

はてなブログからお引越し

2015年3月3日に「そのまんま太郎のブログ」というブログ名で、はてなブログに自分のブログを立ち上げました。立ち上げたときは、「よしもとばななさんの作品の感想をとにかく書きまくろう。そうすればばななさんとつながれるかもしれない」と意気込んで始めましたが、すぐに路線変更をしました。
その後は、日々の気づきやまなび、インタビュー記事、らくだメソッドの学習の振り返り、自然農の実践や、育児などを通して感じたことなど、特にブログ内容を決めずに、自分の書きたいことを書く場として、ブログを書いてきました。

初めて自分の言葉をブログという公開された1つのメディアに書き、その記事をフェイスブックなどを通して自分の知っている人にも共有した時の、恥ずかしさというのか、どきどきした感じは、今でも覚えています。ブログを立ち上げた当初と比較すると、公開された場の中で、自分の言葉で書いていくことの心理的なハードルは、続けていく中でだんだんと下がっていったように思います。

ブログをはじめた当初、心理的なハードルが高いのは当然だったように思います。僕自身、自分の言葉として何かを書く経験というのは、このブログを立ち上げるまでほとんどしてこなかったように思います。教員採用試験の自己PR文、試験の時の小論文など、何かを書く機会はあったけれど、それは自分の言葉というよりも、他者の評価など自分以外の誰かの評価軸の中で、自分の意見や自分の感じていることとして、書いていたように思います。それは、自分の意見や自分が感じていることを素直に言葉で表現していたとは言い難いように思います。
そういった環境下でしか、書くことを僕はしてきませんでした。

でも、このはてなブログで、「そのまんま太郎のブログ」というブログ名でブログを立ち上げ、誰の評価も気にすることなく、書きなさいともいわれず、ただ自分が書きたいときに、書きたいことを書く場を設けたことは僕自身にとってとても大きなできことだったように、今振り返ってみると思います。
(立ち上げた当初は、そんなこと分からずはじめたのですが)

僕にとって、この「そのまんま太郎のブログ」を立ち上げたこと、自分が書きたいことをただ書ける場を設けたことで、何が変わったのか?それは、たくさんあってすべてをここで書くことは難しいと思います。

ただ、ブログを始める前の僕にとっての「書くこと」に対する認識と、今の僕にとっての「書くこと」に対する認識は大きく変わりました。

自分の言葉で書くことは、自分が何に目を向け、どこに意識をおき、何を感じているのか? そうやって、自分自身に目を向け、自分自身に問うことなのだと思います。その自分自身との関りなくして、自分の言葉で書くことはできないように感じています。

だからこそ、書くことを通して、
「自分」は何を思っているのか?とか、
「自分」は何を感じているのか?とか、
そもそも「自分」とは?とか、
この自分が感じている悲しいってどんな悲しさなのか?とか

そういう、書く中で様々な問いが自分の中に生まれてきます。その答えはすぐにわからないし、言葉にできないこともたくさんあったりします。言葉の限界だ。みたいなことを感じるときもあるし、逆に自分にピッタリな言葉と出会う瞬間みたいなときもあったりします。

自分の言葉で書くことで、たくさんの問い・疑問が生まれてくる。そういった問いや疑問を通して、自分と向き合う中で、自分がどんどん楽になっていったり、気になっていたものが、気にならなくなったりする。気づけなかったことが気づけたりもする。

書くことは、「自分」を変化させていくこと のように、今の自分は思っています。

すごく大きなことのように感じるけれど、それはすごく地味でもあります。
気づいていたら変わってた。そんな感じの変化です。
書くことで生まれた、問いや疑問、それを通して得た些細な些細な気づきや発見の積み重ねが、気づいたら、自分を大きく変化させていたように思います。

それはとても楽しいことで、大きな可能性をもつものだとも思います。
だからこそ、これからも、自分の言葉で書くこと、を地道に続けていけたらと思っています。

だんだんと、ネット上における、「自分が書きたいことをただ書ける場」として機能していた場が、機能しなくなっていくケースも増えていくように感じています。このはてなブログの場では今のところ問題はないのですが、「自分が書きたいことをただ書ける場」を自分で整えておく必要性を数年前から感じはじめていました。

そういった思いもあり、簡単なサイトの立ち上げや管理等は仕事でも行っているので、自分のサイトも立ち上げようと思っていたのですが、あまりそちらの作業に取り掛かれずにいましたが、この数週間ではてなブログの記事データの移行作業などもでき、自分のサイトを立ち上げることができました。(まだ細かいところの整備ができていませんが。。)

今後は、このはてなブログへの記事の投稿は終了とし、新たな自身のサイトにアップしていく予定です。投稿した際は、フェイスブック等でのシェアは引き続きしていく予定です。引き続きよろしくお願いします。

はてなブログを通して、たくさんの人に自分の記事を読んでいただき、感想をいただいたり、ブログを通して新たな出会いにつながったことも多くありました。そういった意味でも、こうして自分の言葉を発信できる場として、簡単にブログを立ち上げられる環境があったことに感謝しています。さんきゅー!はてなブログ

今後は別の媒体での投稿となりますが、引き続きよろしくお願いします!(^^)!
新たなサイトはこちらなります

https://shiosaka.org/



2024.9.25 友人の結婚式で軽井沢へ

9.22に大学時代からの友人に結婚式へ家族で招待してもらい、長野県の軽井沢へ行ってきた。静岡は前日まで猛暑で39度を記録したとニュースにもなっていたが、ちょうど気候が一気に秋へと変わり過ごしやすい1日となった。
2人らしい会場と披露宴の内容で、二人も、そして参列した皆さんもリラックスしたステキな式だった。彼との出会いは、大学時代にことばこで出会った。式に参列した仲間もみな、ことばこから生まれたつながり出会った。

会うのは本当に久しぶりで、息子に会ってもらうのも今回が初めてだった。久しぶりに会うけれど、あまり久しぶりと感じない関係で、物理的に離れていても、直接会わなくても、どこかつながりあっている関係性がある。そういう物理的ではない、目に見えない、距離ではないつながりに、自分自身は支えられているのだと思う。

自分の感性、その先にある決断、その先にある道、そういう方向へと進んでいくうえで、自分だけでない誰かが見守ってくれていたり、信じてくれていたり、興味をもってくれることによって、自分もまた勇気づけられている。彼もそんな存在であって、学生時代から変わらず見守ってくれている。

そんな存在が一人でもいれば、大きな力になる。
そんな存在に支えられて今の自分があるのだろう。

 

2024.9.19 暦の上では秋ではあるが

秋ジャガイモが発芽しない。台風で長雨もあり、これは怪しいぞ。と思い、掘って種芋を確認してみたら、種芋は腐っていた。完全に植え時を見誤った。9月初旬に植えたけれど、もっと遅らせなければいけない。その植え時も固定化せず、その年その年の傾向を感じ取りながら決定しなければならないのだと痛感する。

けれど、なかなか難しい。種芋を購入したが、種芋から芽は出てきている。だから植え時を焦った。このあたりの調整を考えなくてはいけない。

9月後半になるけれど、まだ日中が暑すぎる。秋野菜の種まきをしているけれど、虫の活動も気温によってはまだまだ活発な気もする。気候が毎年毎年ことなり、僕が自然農をはじめたときよりも、秋野菜の栽培が難しい気がしている。それは、以前の気候に対応した知識を参考にしているからなのかもしれない。もっと今の気候条件と、その畑の様子から、自分で判断して答えをださなければいけないようにも感じている。

どうしても失敗したくない気持ちが芽生えて、自分よりもっと経験ある誰かの声を、答えにしたくなるけれど、その時の気候、目の前にある田畑の環境を自分以外の誰かは知らないのだから、自分で答えを出すしかないのだと思う。

2024.09.18 お月見泥棒

昨日はお月見泥棒
地域のおうちの玄関先にお菓子がおかれている。夜になると子どもたちは地域中を回ってお菓子を集めまくる。おじいちゃんおばあちゃんも子どものためにお菓子を用意しておいておいてくれる。
子どもが行くとじいちゃんばあちゃんもうれしそう。子どもたちも知らない家だけど、「ください」とか「いただきます」といって玄関先や家の中へ入っていく。

なかなか普段の日常生活ではかかわらない赤の他人をどう感じるか。そういった感覚にこういう機会は影響するように思う。でもこういう伝統行事って、考えればきっと人が成長したり、人がつながりあって生きていく中でとても重要な要素を秘めていると思うけれど、そういう意味をもたせてやると、なんかつまらなくなる。

ただ家族とか、世代とか、性別とか、いろいろな境界線を越えて、だれでも参加したければ参加できて、赤の他人との間に、一時のの喜びとか、楽しみがあればいいのかなと思う。

2024.9.17 とりあえずやってみる

昨日は、長男のこども園の発表会があった。地域の敬老会で、ステージで発表した。歌2曲、踊り1曲を披露した。超高齢化地域ということもあり、80歳以上のお年寄りがたくさん。こども園の園児は年少から年長まで全員で5名だ。
今年の5月にも、地域のイベントで発表があったが、半年もたたないうちにすごく成長した姿を見せた。今回は、見ている人も多く、舞台も立派であったので、どんな姿を見せるのか僕自身想像ができなかったけれど、すこし緊張した姿は見せていたけれど、発表中も楽しそうで、終わった後も良い表情をしていた。

自分が想像していた以上に、こどもの成長スピードははやいし、こどもの適応能力(人とのかかわりや、環境への適応など)が高いことを実感する。自分の想像を超えた姿を見せてくれる嬉しさと同時に、気を付けなければいけないなという気持ちも生まれる。きっといろいろな面において、子どもの可能性は計り知れない。そして、その可能性は子ども自身もわからず、やってみなければわからない。出たとこ勝負みたいなものなのだと思う。だから、とりあえずやってみるしかないのだとも思う。でもこれは、子どもに限らず大人もおなじなのだと思う。

とりあえずやってみる。その機会が、新しい自分自身に出会う、発見する機会になる。

2024.09.16 シンプルさの魅力

音楽を制作する友人が、自身のアルバムづくりを進めている。彼の今日はとてもステキでアルバムの完成を数年前から待っているのだけれど、なかなか進まないという話をしていた。

彼の声はとてもステキなので、アコースティックバージョンで収録すればいいのでは。と思っていた。けれど彼の考えはすこし違うようだ。彼ももちろんアコースティックの良さを知っている。だけれど、バンド編成など、作りこまれた音楽をまずはつくりたいらしい。

それは、最初からアコースティックだけを聴くのと、バンド編成された作りこまれた曲があって、そこからだんだんと色々なものをそぎ落とした形としてのアコースティックを聴くのとは、また違った良さがあるとのことだった。

確かに、同じアコースティックの曲でも、そういった段階を踏むことで、また聴こえ方が変わってくるのだろう。段階を踏むことの楽しさがある。

歌だけではない、余計なものをを省いたシンプルなものの良さがある。だけれど、そのシンプルさというのは、余計なものを付け加えてしまったり、より装飾したい、あれもこれもやってみたい。そんな想いによって色付けされたものから、だんだんとそぎ落としていく過程が必要なのかもしれない。初めからシンプルに作ることは難しいのかもしれない。

シンプルさの魅力は、複雑で混沌とした中でより作られていくのかもしれない。

2024.9.14 高次元の世界

雲黒斎さんの動画
  ゲリラ配信】雑談アワー 「高次元の世界(アセンションの秘密)」take2 で「高次」とは認識視座の増加である という言葉が出てきて、その中で、次元が低いところから、次元が上昇した世界は認識できないという話があった。

つまり、二次元世界で生きている世界からは、三次元世界は認識できず、三次元世界で生きている人の話を聞いても、2次元世界で生きている人の話は理解できないと。

先日ラジオを聴いていて、メールとLINEの話になった。LINEは今や、スマホを持っていれば多くの人が使っているアプリだと思うけれど、LINE、スマホが普及する前の世界では、メールが主流であった。
メールでは、「受信」ボタンを押してメールが来ていないか確認したこともあった。

LINEが出てきたとき、何がそんなにすごいの?とか、メールの世界ではわからないすごさがあったようなきがする。そのすごさがわからないけれど、とりあえずやってみたらわかるよ。的な感覚であったように思う。

これを次元上昇というのかわからないけれど、次元を超えてしまえば普通のことも、低次元からみれば理解できないことも多いのだと思う。

その次元が垣間見えたとき、イリュージョンというとも言っていた。