そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

7月6日 郵送時の振り返り

◯週1回のオンラインでの入室

高校の教材に入って、プリントにより取り組むことができなくなってきた。

そんなタイミングで、寺子屋のオンラインでの入室がスタートしたので、

6月からオンラインで週に1回は入室し、

プリントに取り組む時間を作るようにした。

 

オンライン入室を開始して1ヶ月が経過したけれど、

少しずつ自分の中でのリズムが生まれてきたように思う。

 

変化としては、プリントだけでなく、

様々なことがまた動き出したように感じる。

 

・ブログをまた書けるようになった

・通信のインタビューおこなえた

・べてるの上映会をスタートした

 

さまざまなことが、影響しあって動き始めたような気がしている。

インタビューをすれば、その中での気づきや問いが生まれて、

それがインタビューにとどまらず、プリント学習や、

べてるのビデオをみて感じたこととのつながりがみえてきたりする。

 

何か動きだす時には、見えなかったり、わからなかったつながりが、

自然と生まれてくる。そしてだんだんと動きだして自分のリズムができてくる。

 

止まってしまうとどうしても動きだすことが大変なんだけれど

自分で動きだすことが難しかったら、オンラインで入室します。と言って、

誰かとの約束を通して、自分を動かしていけばいい。

 

自分一人では動かなくても、

誰かとの関係性の中にあれば自分が動く場合がある。

だからこそ、今の自分がさまざまな関係性の中にいることを自覚し、

自分自身へのアプローチと同時に、

自分自身のまわりにある関係性へアプローチしてみると、

自分が動き出したり、変化していくのだ。

 

(今、吉本さんの共同幻想論の読み方を読み始めているけれど、

この体験も、その意味が本の内容とすごくリンクしてくる)

 

 

 

◯名前を書く

これまでプリントができない時、

「名前だけでも書いてみる」ということを

井上さんからも聞いてきてはいたけれど、

そこまでその行為について考えたことはなかった。

 

だけれど、ここ最近はとりあえずプリントができなくても、

名前を書く ということをプリントに取り組む最初の段階として設定している。

名前を書けたら、その次は、問題を半分、

その次の段階は全問解くという感じで、

「1枚のプリントに取り組む」ということの中に、

いくつか段階がうまれてきたように思う。

 

高校教材1枚のハードルが僕にとっては結構高いこともある。

 

これまでは、やらないと思った時は、

名前くらいは書けそうでも、書かなかった。

(名前だけ書いてなんの意味があるんだと思っていたこともあるだろう)

 

けれど、実際に名前だけ書いてみると、

(名前だけ書くことも1つの段階として設定してみると)

 

その時(名前だけ書いた時)は、「名前だけ書いて意味あるのか」とか思うけど、

名前すら書かず、「プリントを今日もやれなかった」と過ぎる1日よりも

はるかに自分の実感は異なってくることを感じている。

 

それは、「プリントができる・できない」ではなくて、

プリントと向き合ったか、向き合わなかったかということへの実感なのだと思う。

 

頭ではプリントのことを意識したけど何もやらなかった日を、

プリントと向き合った日といえるだろうか。

でも、プリントをとりあえず机に広げて、ペンを持って名前を書く。

そうやって、体を動かすと、頭で意識するよりも、

プリントと向きあうことへの実感は高まるのだと思う。

 

名前だけ毎日書いていたら、いつかは必ず、問題をやろう!という気持ちが起きてくると思う。

でも、何もしなかったら、何も起こらないだろう。

 

小さなことでも、そこに向き合った実感が、

次の日のプリントにもつながってくるのだ。

 

だから本当に小さなことでも、

「できること」を続けていくこと。って大事だなと、

名前を書くということから感じている。