そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

ブックカバーチャレンジ 7日間で紹介した本

2020/6/1 DAY1

f:id:taroshio:20200829001624j:plain

蒲原でバックパッカーズホステルをやっていて、たくさんお世話になっている、こうせいさん さん からバトンもらったので、本の紹介と、最近近況もアップできていなかったので、近況も合わせて7日間アップしたいと思います。

 
1冊目:池田晶子 『14歳からの哲学』
大学時代に尾関さんが紹介していたのをきっかけに読んだ本です。哲学なんて全然触れたこともない自分が初めて読んだ哲学の本です。
ものすごく読みやすそうに思えて、読んでいくとよくわからなくなったり、自分が見ている世界に疑問が生まれてきたり、考えることって面白いし、不思議だし、なんか気持ちがすこし楽になったりした思い出があります。
--- --- --- --- --- ---
「自分とは誰か」
・・・
君はずいぶん混乱しちゃっただろう。でも、だとしたら、それでいいんだ。なぜって、その通りだからだ。「自分とは何か」を正しく考えていけば、必ずこういうわけのわからないことになるからだ。ああわかりました、つまり自分とは何かなんてわからないってことなんですね、なんていうようじゃ君はちっともわかってないってことなんだ。「わからない」と感じることを、どこまでも考えてゆくようにしてください。「わからない」ということは、答えではなくて問いなのです。君が毎日やっているその自分とは、本当は何なのか、知りたくないはずはないでしょう。
そんなべつに知りたくないよって言っているヘソ曲がりの君、もしも君とは、君が単純に思っているように君の体だとしたら、体が死んだら君は死ぬよね。でも、もし君とは君の体じゃないとしたら、体が死んでも君は死なないことになるのだけれども、それとも、そんなこと知りたくないかな。
--- --- --- --- --- ---

 

2020/6/2 DAY2

f:id:taroshio:20200829001824j:plain

 

2冊目:よしもと ばなな 『海のふた』

ぼくが書いている「そのまんま太郎のブログ」は、最初はよしもとばななさんの本の感想限定でアップするというルールでスタートしました。そうすればいつか、ばななさんの目にとまるんじゃないか!?という企みからはじまりました。結局、そのルールは自然と崩れていき、今のブログの形になっていますが、それだけ大学時代から、ばななさんの作品が好きで読んできました。

初めてよんだ『キッチン』も、『TSUGUMI』も、『サーカスナイト』も、『体は全部知っている』・・・とか、好きな作品がたくさんあります。その中でも、この「海のふた」はものすごく心に残っています。今回、こういう機会をいただいて、あらためて手に取るとやっぱり自然と引き込まれて読んでしまいますね。
最近はあまりばななさんの作品読んでないけど、今日読み返してまた読みたくなってきました。

--- --- --- --- --- ---

・・・
それでももっと大きな何かの前では、はじめちゃんが言うとおり、私は流されていくだけだ。このひとときさえ、いつかまた泣かせる思い出になっていく。
 だからこそ、大したことができるとは思ってはいけないのだ、と思えることこそ好きだった。私のできることは、私の小さな花壇をよく世話して花で満たしておくことができるという程度のことだ。私の思想で世界を変えることなんかじゃない。ただ生まれて死んでいくまでの間を気持ち良く、おてんとうさまに恥ずかしくなく、石の裏にも、木の陰にも宿っている精霊たちの言葉を聞くことができるような自分でいること。この世が作っている美しいものを、まっすぐな目でみつめたまま、目をそらすようなことに手を染めず、死ぬことができるように暮らすだけのこと。
 それは不可能ではない。だって、人間はそういうふうに作られてこの世にやってきたのだから。
 そして、そんな暗く真実に満ちた言葉を口にしながらも、はじめちゃんはいつも透明な目をして、見えるもの全部をすうっとみつめているようにも見えた。その姿勢は私の後ろ向きなぐずぐずした未練とは違って、今、まさに目の前にあることを見ようとしている強さを感じさせた。

・・・生きていることが本気で嬉しかったって本当の本気でいつも言ってくれた。だからわたしはゆがまなかった。私はどこに流れてもいいんだ。そこでいいふうにしていくから、そしてどんどん思い出を作り出す。 ・・・

2020/6/3 DAY3

f:id:taroshio:20200829001956j:plain

 

3冊目:川口由一『妙なる畑に立ちて』

大学時代に辻信一さんの書かれた『スローイズビューティフル』で、川口さんの存在を知りました。

将来のこと、仕事のこと、暮らしのこと、お金のこと、そういったことを考えざるおえない時に、その前に「生きること」「自らの答」について深く問うことからはじめよう、はじめていいんだと思わせてもらえたように思っています。

自然農の実践は、「農」という領域におさまらず、
教育や医療、芸術、自然環境など、さまざまな領域と深く繋がっていくと感じています。
今年で6年目となります。自然農の田畑でも、豊かな学びを続けたらと思っています。

--- --- --- --- --- ---

この美しい地球で、この妙なる宇宙生命の中で、人はどのように生きていくのがいいだろうか・・・。日々の食べ物を得るには、どのようなものであるのが最もいいのだろうか・・・。このことは私たち人間が好むと好まざるとにかかわらず、必ず問わねばならず、そして誰しも多かれ少なかれ、深かれ浅かれ問うており、答を出しての生活であり人生であります。
 そうしてよくみれば、一人一人が本当に正しい答えを得なければ、決して心安まらず魂救われず、心身健康にして一生を全う出来ないようになっております。
 私たちがこうして人間として生命をいただいた時にこの問題を一人一人に手渡されており、一人一人が得る答に応じて幸福をいただけるようにもなっております。

・・・ 孤独の中で、混沌また混沌の青年期には必死で人としてのあり方、生き方を問い続け救われることを求め続けて、ようやく青年期後半に至って農の道、芸術の道、医療の道、そして人の道への答を、少しずつ少しずつ見出しながら生きていけるようになってまいりました。

--- --- --- --- --- ---


 

2020/6/4 DAY4

f:id:taroshio:20200829002102j:plain

 
4冊目:平井雷太『「〜しなさい」と言わない教育』
大学卒業後に、ことばこ(現:学習塾「ことばこ」)のスタッフとして活動した1年目にコーディネーターとして関わった企画が、井上淳之典さんを講師として行った「教えない教育全10回講座」でした。(講座プログラムはコメント欄へ記載しました)
教育のフィールドで何十年と活動してきた井上さんの全10回講座は、今振り返ると、何かを獲得するという講座よりも、今の自分の現状を把握する、そしてそこから自分自身の問いが湧き出てくるくるような講座だったように思います。
全10回の講座を受けて、何かが「わかった」というわけではなく、「わからない」という自覚の方がより強くなりました。言い換えれば、より学びたい。という気持ちが芽生え、そこから自分自身の学びがはじまった機会だったと思っています。
そんな井上さんが主催している寺子屋塾で、主軸としていのが、この平井雷太さんが考案された「らくだメソッド」です。
コーディネーターを終えたら、とりあえずらくだメソッドやってみよう。という気持ちから、2016年10月から井上さんの主催している寺子屋塾へ通塾する流れになりました。
(らくだの学習で学びはブログで「らくだメソッド」や「考現学」というカテゴリーをつくってまとめています)
らくだメソッドも実際にやっていく中でしかわからないことがたくさんですし、この本に書かれている内容も、その体験を土台にだんだんと理解が深まっているようにも感じています。
引越し先の新たな場で、新たに場づくりもしていこうと思っています。
今後も、この本からヒントをもらいながら、進んでいけたらと思っています。
--- --- --- --- --- ---
プロローグ
・・・
この本は、この詞がどんな背景の中から生まれてきたのか、それを説明するために生まれてきたような気がしています。そう考えると、この本は「新・教育者宣言」という言葉によって書かされた本のような気がするのです。
『新教育者宣言』
人を教育によって変えられると思っている人は
教育者ではない
この子に私が必要だと思い込ませて
あなたのおかげで今があると思い込ませて
人の心をからめとっていく人も教育者ではない
人から感謝され尊敬される人は教育者ではないのだ
教育者とは、いついかなる場所に立ったとしても
そこに育ちたいと思っている人がいたとき
その人が何々ができる、できないと無関係に
その人が潜在的にしたいと思っていることを
スッと提案できる人なのだ
相手がその提案にのらなくても何の不満も残らない
相手が提案にのって
何かができたとしても決して恩を売らない
たまたま、その人が勝手にその提案に乗っただけ
私と無関係と心底思える人が教育者だ
そんな人がいる場所には主従関係も奴隷関係もできない
似たもの同志で群れることもない、セクトもできない
時間と空間を越えて、個と個の関係だけができていく
--- --- --- --- --- ---
 

2020/6/5 DAY5

f:id:taroshio:20200829002210j:plain

 

5冊目:四宮 鉄男 『ベリーオーディナリーピープル とても普通の人たち』
5冊目は、北海道浦河のべてるの家の本「ベリーオーディナリーピープル」です。
いつごろいろんな本で、「べてる」という言葉をよく目にするようになりました。そうしているうちに僕はだんだん「べてる」にはまっていきました。笑
名古屋にいた時には、べてるの家ドキュメンタリー映画「ベリーオーディナリーピープル」の上映会を中村教室にて、2ヶ月に1回のペースで行わせていただきました。
全8編の内7編の上映会であったので、長丁場ではありましたが、「べてる」を通して繋がれた皆さんもたくさんいて、とても貴重な会でした。
(上映会の参加者の感想はコメント欄へ)
この本は、そのドキュメンタリー映画を撮られた四宮鉄男監督が書かれた本であり、べてるに流れる空気が文章をとおしてよく伝わってくるように思います。
目次だけでも、べてるワールド全開なので、引用は、目次のみとします!
今月から、当事者研究会として細々と会を開いていく予定です。静岡でも、べてるや当事者研究に興味がある人は、ぜひメッセージお待ちしております。
--- --- --- --- --- ---
序章 べてるの家を撮りつづけて
第1章 ようこそ、べてるの家
第2章 ミスターべてると仲間たち
第3章 弱さを大切に!
第4章 リハビリテーションより商売
第5章 安心してサボれる会社づくり
第6章 治せない医者、治さない医者
第7章 幻聴、妄想、その豊かな世界
第8章 三度の飯よりミーティング
第9章 話すことから始まる回復への道
終章 不思議の家、べてる
--- --- --- --- --- ---
 

2020/6/6 DAY6

f:id:taroshio:20200829002321j:plain

 

6冊目:菊谷倫彦 『無名なものの詩と革命』 孫世代からみた吉本隆明
6冊目は、菊谷倫彦 『無名なものの詩と革命』です。
中村教室で吉本さんの存在を知ったのですが、
あの、ばななさんのお父さんと知ったときは、
びっくりしたけど、なるほどーと納得感もありました。
この本の中で著者である菊谷さんが書かれていることばに、
「自分で考え、自分で歩むこと。これが私が吉本さんから学んだ一番大きなことでもあるからです。」とあります。
この本は、菊谷さんなりに考え、
自分の言葉で書かれているということが
ものすごく伝わってきます。
(まだ読み解けないとこたくさんありますが)
吉本さんが残された、共同幻想論や心的現象論なども、まだ読んでもまったく読み溶けませんが、この数年で、そのフレームの大枠などを中村教室での対話や、らくだの実践などを通して深めていくことがでたようにも感じています。
そのことで、自己・他者・社会への見方や、そういったものとの折り合いのつけ方も、以前よりもすこしは上手になってきたように思っています。
--- --- --- --- --- ---
あとがき
・・・
私が吉本さんに魅力を感じるのは、その思想のすばらしさだけでなく、思想家であることよりも、暮らしや家族、生業を大切にした生き方にあります。吉本さん自身が、大衆の原像としての自分、無名なものの存在としての自分を何よりも大切にし、そこに価値を置いて生きたことを一番重く受け止めているのです。
・・・
とはいえ、私は吉本さんの思想のすべてを受け入れているわけではありません。むしろ、吉本さんの次の時代を意識しているのも事実です。その不完全なかたちは本書と、いまあてもなく書かれている次の原稿で取り組んでいる最中です。
この本で書きたかったことは、生きてあること自体が力である、ということです。そこには、有名も無名もありません。ある種の無名なものの力ということです。その力は、本来は革命的な力でさえあります。それが無名なものの革命です。
無名とは、〈自然〉のことです、無名なものの詩と革命とは、〈内なる自然〉という名の理想を感じとり、生きる個のリズムと力のことです。〈自然〉は〈自由〉と言い替えてもかまいません。
知識人や有名人が一元的価値をもつ時代は終わりました。これからは、多元的価値をもつ無名なものの時代だとおもいます。それは個による〈自然〉の時代であり、〈理想〉の時代です。本当の意味のアニミズム(人間もふくめたアニミズム)の実現の時代でもあると思います。もともと、大衆の原像も、無名なものの存在も、その本質は“〈内なる自然〉を生きている人”といえるかもしれません。そして“無名なもの”とは、私たちのなかにあるふるさとであり、ユートピアです。私たちがやってきた、懐かしい場所でもあります。
・・・
--- --- --- --- --- ---
 

2020/6/7 DAY7

f:id:taroshio:20200829002443j:plain


7冊目:古谷暢康 『最初に読む料理の本』 
7冊目は、昨年出会った『最初に読む料理の本』です。
この本は自分の感覚で自由に料理ができることを目的としており、書かれているレシピの内容は、最低限の内容になっています。
本の冒頭は、「料理が下手な人はいない」というコラムからはじまります。
このコラムをよむと、僕が日頃書いている考現学について、らくだメソッドの平井さんの「書けない人はいない」という話を思い出します。
文章が「書けない」とか「書くことが下手だ」と思っている人でも、考現学は書けてしまう。それは、何かうまく書こうとか考えずに、「今自分が感じていること、考えていること、今ここから書いてみる」
そうすると自然と書ける状態になるといいます。
「できない」とか「下手」とかいうのは、
自分自身から離れた自己への評価であることが多くて、
自分に沿って、自分自身の感じることに沿っていけばいいのだと思います。
美味しいなんて基準は、一人ひとり違うのだから、
大さじ1でも大さじ2でも、大さじ0.5でもよくて、
自分の「美味しい」と感じる、自分の体が喜ぶ量を、
自分でつかんでいけばいいのだと思います。
この本は、「料理」という入り口から、
料理をこえて、あらゆることにつながる気づきをあたえてくれる本だと思います。
発行しているまなびおむすびの「おむすび文庫」というコーナーでも紹介させていただきましたので、そのコラムも合わせてコメント欄にて紹介させていただきます。
--- --- --- --- --- ---
「料理がへたな人はいない。いい素材を手に入れさえすれば誰にでもできる。料理法は素材が導いてくれるので、常識にとらわれず自分の感覚を磨いていけばいい」
--- --- --- --- --- ---
 

できない体験が自然農のはじまり。できない体験とはどういうことか。

種下ろしから2週間が経過した。
1回目の草抑えを行いに、田んぼに行ったのだけれど、
オケラが苗代に入ってしまったようで、
発芽はほとんどしていなく、
このままでは苗が育たない状態となってしまった。

5月の半ばとなり、
今から種を蒔きなおして
果たしてまだ間に合うのか!?とういう感じである。

ここ4年間は毎年のように、苗が育ってきていたので、
今年も例年通り育っていくとおもっていたので、
すこし残念な気持ちもあった。

だけれど、オケラが苗代に入ったこと。
それによって種が発芽しなかったという体験を通して、
今までの自分が、どれだけ観察できていなかったか?
どれだけ狭い視野の中で判断し、
種を下ろしていたかという、
自分の見ている、感じている世界が狭かったことの自覚がうまれてくる。

それは同時に、自分の見ている、感じている世界が広がっていくことを意味する。

種下ろしをしたときの僕は、
田んぼの草の状態や、排水溝の位置、
日当たりくらいしか考慮せずに種を下ろした。

そして、表土を剥がしたときに、
オケラが何匹か遭遇したのだけれど、
そこまで気にせずに、そこで種を下ろした。

だけれど、今思えばもっとできたことがあったのだろうと思う。

オケラは乾燥を好むらしい。
僕は田んぼの中でも水周りから遠い、水はけの良いところを選択していたし、
種下ろしの際に土の湿り気などもあまり観察していなかった。

そして、オケラを数匹見かけたのだけれど、
とくに気にすることなく種をおろした。

また、今思うと田んぼが家からすこし距離があるため、
なかなか発芽状況を見に行くことは難しい。
今回も、もう1週間早く気付くことがちがったら、
また状況は違ってくる。

そう思うと、家から近い畑でも育苗しておけば、
今回のような状況になったとしても、苗は確保出来る。

そうやって、自分の力不足が田畑によって浮き彫りになってくる。

** ** ** **

オケラに入られて、発芽できなかったことへの残念な気持ちはあるけれど、「できない体験」によって、自分の状態が把握できて、
自分の見えていなかった部分、考慮できていなかった部分に気付くことができる。

そして、その見えていなかった自分に気付くことで、
自分をまた変化させることができる。

そうすることで、自分がだんだんと変化し、
応じられるようになってくるのだと思う。

だからこそ、自然農のはじまりも、
「できない体験」なのだと僕は思う。

もちろんお米も野菜も収穫こそ喜びであるのだけれど、
収穫を目標としても、
自然農の3原則「持ち込まず、耕さず、草も虫も敵とせず」の中では、いくら頑張ったとしても、根性があっても、努力しても、自分自身が適切に見極めて、判断して、応じることができなければ、収穫の目標は達成することはできない。
間違った判断の中で、努力したら、逆効果になることだってある。
(実際に草おさえを真夏に気合を入れてやっても、草がなくなり野菜が食べられてしまうことだってある)

だから、収穫を目標とせず、
今の田畑の状態に意識をむけ、田畑の様子を感じ、観察し、
その上で自分で判断し、自分で答えをだす。
その今の積み重ねが収穫へつながっていく。

だからこそ、今の自分出したその答えが、
どの視野で出されているかが重要である。

今年の僕とくらべれば、来年の僕とは、
きっと種下ろしにおいての感じ方や判断の領域はすこしだけ広がっているだろう。
もちろん、だから来年はうまくいく保証はないのだけれど
そうやって1日1日、1年1年のできない体験から、
自分がどんどん広がっていけば、
田畑の様子もまた変わってくるのだろう。

オケラが入ったことで、
4年間、なんとなく苗が育っていたことが、
どういったことだったのだろうか?ということも考えさせられる。

このできない体験によって、
ようやくスタート地点に立ったではないだろうかと思う。

そうやって、田畑を通して自分自身の今が見えてくる。
そして自分の変化も、田畑を通してみえてくる。

その楽しさや喜びが、僕が自然農で田畑をやり続けていきたいと思える理由なのかもしれない。

*** ** *** **

今回のオケラの体験は、「自然農ぼんやりと覚え書き」に書きました。

yuitaro-field.hatenablog.com

 

f:id:taroshio:20200513084832j:plain



「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、 「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないか

「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、

「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないか

 

 

子どもが学校から出された課題を取り組む姿をみて、

教材自体の重要性と、教材の扱い方について考えることが多い。

 

スクールに通う子どもは、

学校の進度についていけていない子どもも多いし、

自分の学年相当における内容以前のことが身についていない子もいる。

 

そんな子どもが、学校から出された課題や、教材に取り組んでいるのだけれど、

当たり前だけれど、できない問題のほうがおおい。(これは学校だけの課題に限らない話である)

そして、取り組むこと自体が嫌になってくる。

 

これは当たり前だとおもう。

 

その課題は、「自分の状況に応じて」出された課題ではないことが多い。

子どもにとってみれば、自分の状況を考慮した上で出されていることの実感はあまり湧いてこないだろう。

 

もしこれが、その子の学習状況を少しでも考慮してある課題であり、

課題と自分の現状に繋がりを感じられたとしたら、

子どもの学習に向かう姿勢は全く違ってくるだろう。

 

だから、学校の学習を学校以外のところでサポートすることの難しさがある。

「課題」の扱われ方が子どもの学習への向かい方に大きく作用してしまうが故に、

サポートする以前の問題も大きいようにも思う。

 

(その環境の中でもできることはもちろんあるのかもしれないけれど。)

 

 

** ** **

 

そうやって考えると、子どもの学習の姿勢は、

子どもが学習に取り掛かる前提で大きく変わってくると思う。

 

学校の宿題をやらない子どもを目の前にした時、

そのやらない原因を「子ども」だけに向けてはいけず、

課題を出した人の意図や、その課題の構成もその子の今の学習の姿勢に大きく影響している。

 

だから、宿題をやらない子どもも、もしも宿題の出され方が少し変わったりしたら、

一気に宿題をやることだってあり得ると思う。

 

だから、子どもの今の学習に向かう姿勢は、

子ども自身だけの問題ではないことだって多いのだ。

 

** ** **

 

 

課題の出され方や扱い方で、

子どもの学習の姿勢が変化してしまうと、

「子ども自身」の学習状況を掴みずらい。

 

あの人に出された課題はやる、

あの問題集の課題はやる、

あの課題はやらない、あれはやる、やらない、、、

そういった状況のなかで、

子どもの学習の状況や子どもの変化はどういやってつかめるだろうか。

そして、子ども自身も、自分の変化をどうやってつかめるだろうか。

 

そう思うと、「教材」と「教材の扱い方」の重要性を感じる。

 

 

「教材」と「教材の扱い方」の中にルールや基準(制限ともいえる)が存在すれば

子どもの学習に向かう姿勢が掴みやすくなる。

そして子ども自身も、自分の変化をより感じることができるように思う。

 

らくだメソッドの学習経験者の感想を読んでいると、

学習者である子ども自身の教材に対する信頼のようなものを感じる。

 

僕は自分のこれまでの学習体験を振り返ったなかで、

「この教材に出会えてよかった」と思えた体験はない。

もちろん大学受験とかで言えば、

試験のため、点数を取るための「出会えてよかった教材」というものは

存在するのかもしれないけれど、自分がこの教材を通して成長できたって思える教材って、

僕の体験からするとあまりないな。と感じてしまう。

 

でも、子どもの学習に関わるなかで、

「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、

「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないかと思う。

 

「この教材に出会えてよかった」って言葉には、

教材を作った人の思いと、教材を扱いながら、

子どもをサポートする人の思いの両方がのっているのだから。

4月後半振り返り

止めてしまったものを動かすことの大変さ

 

3月末から4月末まで、プリントをやらなかった。

プリントに取り組んでいたことを、止めてしまった。

 

ここ最近は、だんだんとプリントに取り組めるようになった。

 

だけど、せっかく出来そうになっていたプリントもまたふりだしに戻った。

 

そして、プリントに取り組むことにもすこし大変さを感じる。
以前やっていた時のことが不思議な感じがする。

 

止めてしまったものを、

もう一回動かすことって大変だなと感じている。

 

1日1問でもいい。

名前を書くだけでもいい。

 

どんなに小さいことでもいいから、

とにかく手を動かしておけば、

また違ったのではないか?という感じがする。

 

自分が今できる範囲を見極めて実践していくこと。

今の自分に応じて、止めずに、動ける範囲で動き続けることって

ものすごく大切なのだと感じている。

 

そして、再び動かすことの大変さを、

僕は止まってしまった時には考えていなかった。

というか、止まったあとの大変さは、止まった時にしかわからない。

 

これもプリントに限らず、

あらゆることに言えることなのなのかもしれないと感じている。

 

** **

 

コロナのことで、多くのことが「止まってしまった」ように僕は思う。

 

1ヶ月前は、自分で自分の行動を制限したり、

自分で、控えたり、控えなかったり。

そうやって皆が自分自身のできる

範囲で行動していた。動ける範囲で動いていた。

 

でも、この1ヶ月で、

どこか色々なことが止まってしまったようにも感じている。

 

そして、今止まっていても、

動こうと思えば、いつだって前のように動けるように思っている場合も多い。

 

でも、そうなのだろうか?と自分のプリントを通して思う。

 

プリントは、僕だけの中で止まってしまったものであるけれど、

きっと僕と街の人たちで共通して動いていることも、

同じことがいえるのではないかとも感じている。

 

止まってしまったものを、

もう一度動かすためには、時間もかかるし、

そんなに簡単なことでもないように思う。

 

だから、この半年、1年ってなんかいろんな

苦労がこれから出てくるようにも感じている。

 

プリントでも、プリント以外でも、

自然農の田畑でも、

自分の動ける範囲の中で動き続ける。

 

どんなに些細なことでも「止めない」ことは

大事なのだと、この数カ月で自分のプリントを通して、

自分のプリントや身の周りの出来事を通して感じてる。

** ** 

5/2 ようやく中学相当最後の問題をクリアした。

最後のプリントが一番クリアまで時間(期間)がかかってしまったけれど、
最後はミスゼロでクリアすることができた。

解いていくと、ミスゼロでクリアしたい気持ちが強くなっていた。
クリアするとやっぱり嬉しいです。

この最後のプリントに取り組む中で、
自分なりに、学習の進め方に工夫が出てきたようにも思う。

1問1問の量が多い為、
解くことはもちろんだけれど、
間違い直しも時間が必要であった。

そして、間違い直しを翌日にやったり、
間違い直しも2日間に分けてやったりした。

そして、間違え直しを2日間に分けてやると、
間違い直し1日目の問題を忘れてしまうこともあったので、
間違え直し2日目は、1日目の問題の振り返りなども行った。

そうやって、自分なりの問題の直し方や、
振り返りの仕方をしていってから合格までがスムーズだったようにも思う。

問題のレベル・量が上がっていくので、
自分なりに学習の仕方を工夫して進めていきたいと思う。

** **

こうやって、自分で少しずつでも工夫して、
自分にあった学習の仕方を見つけていくのだれど、
やっぱりストップウォッチと記録表はものすごく重要だと思う。

全てが自分の工夫ではなく、
決められたツールや、フレームの中で、自分の工夫が生まれてくるのだと思う。

ストップウォッチも、記録表もなかったら
どうやって僕は自分なりの工夫を生み出しただろうか。

 

4月のふりかえり その1

4月11日に教材を郵送したが、3月末から4月10日までプリントを1枚もやらなかった。中学校最後のプリントが、なかなか合格できずにいる中で、こうやってやらない日々が続いてしまった。

3月末から引っ越し&退去する家の掃除、新居の空き家の掃除&修繕など、やることはかなりたくさんある中で、やらなかった理由付けはたくさんできる。そして、そういう記事も多くこれまで書いてきた。

今回のできなかった過程の中で、
自分が感じていたことを振り返りながら書いておこうと思う。

・失われるものがある
今回、空き家の掃除や修繕などを、早朝や、仕事が終わった後にやったりしながら毎日とにかく目の前のやらなければいけないこと(ここでいうやらなければいけないこととは、トイレ・お風呂・台所の修繕。最低限の生活に必要なところの掃除と修繕)をやって、なんとか生活はできている。

そういうことに熱中していた毎日だから、それなりに充実感もあるし、毎日疲れ果ててすぐ眠れるし、それはそれで充実して言えるといえるのかもしれない。けれど、やっぱりプリントのことが頭にあって、やらなかったなー。という気持ちは毎日あった。

そういうときに、自分が熱中したり、充実感を抱く中にも、失われているもの、後退しているものがあるんだなーってことをすごく感じた。別にプリントがなければ毎日充実した自分しかいない。結局それは、そういう自分しか自分がみれていないだけなのだと思う。
だから、この1枚のプリントが日常の中にあると、自分が自分を見つめる視点が1つ増えて、それだけ自分の見え方が変わっているのだということが、すごく納得できた。

春になって、田んぼや畑の仕事がすこしずつはじまっている。
日々の状況は変わっていくのだけれど、1日1枚のプリントは変わらない。

そういえば、まなびおむすびのインタビューで、新成人の方にインタビューしたときに、『成長って「変わる部分と、変わらない部分の両面を含めて成長」で、自分の「変わっていく部分」だけでなくて、「変わらない部分」も大事にしていきたい』って話を聞いたのだけれど、今の自分って、「変わる部分」しか目がいっていないくて、「変わらない部分」って1日1枚のプリントだなって。

今はまさに、「変わる部分」しか目がいていない。こうやって、落ち着いて記事を書くことも久しぶり。
今までやってきたことを、「変わる部分」の力に流されずにありたい。








考現学(新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について)

考現学新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について)

 

(2020.04.09) 

今日、コロナウイルス感染拡大の影響で、

世の中は大きく動いている。

 

東京をはじめとする都市は、

感染者も増え続け、僕の住んでいる街とは

全く状況は異なるようにも思う。

 

都市生活ではないけれど、僕の意識も、そして身の回りにも変化は大きく生まれつつある。

 

自分以外の誰かと、同じ危機感をもち、

世の中が何か変わりつつある状況は、

東日本大震災のときのようだ。

 

震災当時の僕は高校3年生で、

4月からは大学進学を控えていた。

3月の中旬に、国公立の後期試験を受験予定であった僕は、

まだ進学先も確定していなかった。

 

そんな中、3/11に震災が起きた。

翌々日くらいにあった国公立の後期試験も、

公共交通機関がストップしてしまったり、

大混乱の中での受験だったことを覚えている。

 

大学進学という1つの節目の時期に、

震災という体験は、今の僕にとってものすごく大きな影響を与えていると感じることは多い。

あれだけの津波によって多くの人が亡くなること、

そして原発の2次災害。そして、その中で政府の対応や、メディアの発信の仕方。

 

そしてだんだんと、皆の意識から震災が消えていくことも、

今まで感じたことのない体験だった。

 

当時の自分が何を感じ、どんな視点で世の中を見ていたのだろうか?

残念ながら、当時の僕はこうやって書くことをしていなかったから、

当時の言葉を振り返ることはできない。

僕自身はこれまでの日々と同じように、
自分自身と向き合い続けることはなんら変わらないことなのだと思うけれど、
僕自身と、世の中の関係の中で、
ここまで世の中側から変わってくる機会ってないことのように感じていて、
それは貴重な体験なのだと思う。

 

だからこそ、今この状況下において、

自分が何を感じ、何を思い、どのように世の中を見ているのか?

ということは、言葉として残しておきたいという想いがある。

 

 

◯時代が背負う問題がある

ウイルスは、あっという間に全世界に広がっていった。

これだけ人が世界中、日本中を行き来していれば、当然とも言える。

はるか昔だったら、こんな広がり方はしないようにも感じる。

 

また、それはウイルスだけではなくて、

情報だってそうだ。

 

僕は家にテレビがないため、ほとんどSNSで情報を受け取るのだけれど、

さまざまな情報がネット上には溢れていて、

一体何が本当の情報なのかがわからなくなってくる。

 

そして、物が買い占められたり、嘘の情報が出回って世の中が混乱することもある。

 

これは、今の時代ならではの問題であって、

この時代が背負わなければいけない問題なのだと感じる。

 

時代は変化していく。そしてその時代の中に生まれる問題も変化していく。

そして、また時代が変わっていく。

 

そうやって、時代は常に変化しながら、

問題を抱えながら進んできのかもしれない。と思うと、

今回のこの問題も、やはり時代の変わり目であり、

それは決して異常なものではなく、自然的なものなのだとも思えてくる。

 

 

(2020.04.10)

◯「違い」に気づく

こうやって、1つの問題を共有すると、

その人が世の中をどう捉えているのか?ということがよく見えてくる。

 

ウイルスに対しての認識だって、

政府に対する認識だって、

オリンピックに対する認識だって、

全部全部その人の見方が見えてくる。

 

今までは、自分と他者の「違い」がここまで見えてこなかったのではないだろうか?

(いつも世の中の動きに疑問を思っている人は、いつものことがより鮮明にみていると思う)

こうやって、自分の「身」に問題がかかってくることで、

他者との「違い」が見えてくる。

 

そして、他者と分かり合えないことが生まれてくる。

 

きっとそこが、他者と本当の意味で生きていくことのスタート地点なのだろう。

これまでは、その「違い」が見えずらかった。

どんな問題も、自分の「身」にかかってこなかった。

誰か1部の人がその問題を引き受けて、結局みんなが当事者ではなくなっていった。

 

今回の問題も、その終わり方だけは避けたい。どこか世の中で弱いとされている部分に、

世の中の責任が押し付けられる。そして、世の中の弱い部分が

より居場所をなくしていく。そんな終わり方だけはやだなと思う。

 

今、他者と感じている「違い」をいつまでも

抱えていくことが必要なのだと思う。

そして、その「違い」を受けいれて、

違いを力に変えて、他者とつながりって生きていきたい。

 

 

(2020.04.11)

◯情報という商品

こうやって、SNSで情報を受け取ることができるようになって、

情報もまた、さまざまな流通しているものと同じで生産されているのだと

ものすごく感じる。

 

多くの生産され、流通している品物は、

それなりに自分にとって何が合っていて、何が合っていないのか?

作った人は何を売りにして、誰に向けて作ったのだろうか?とか、

商品生産の背景が見えてくることが多い。

 

だけれ情報というものは、生産物という見られかたはされにくい。

また、情報はその背景がなかなか見えにくい。

というのか、見せていない情報というものもとても多い。

情報だからどんなデータに基づいて、どういう解釈をして、この情報に至ったのか?

その情報を生み出す過程がほとんど見えないものがおおい。

 

誰が作った、誰が発信元なのかすらわからなかったり、あやふやなものはおおい。

 

でも、SNS上ではそういった情報が、

ものすごくシェアされていたり、力を持つこともおおい。

そして、人が動かされ世の中が動いていく。。そして混乱していく。。

 

そういった時代だからこそ、ひとりひとりが情報を商品(生産されているもの)とおもって、

精査して、自分自身に生かしていかなければならない。

 

情報とはどういうものなのか、

言葉ってどういうものなのか、ということを僕たちはそれほど学んでこなかったし、

急速に情報が溢れかえってしまった。

 

何が事実なのか、どこまでがデータで、どこまでが解釈なのか?

そういった見方で情報に触れられないと、

結局は、自分自身の声に従うことはできず、誰かの声を生きることになる。

そして、世の中はより混乱していく。

 

こういった情報時代に、

主体的に生きるとか、自分を生きるためには、

こういうところが前提として大事なんじゃないのかって思う。

 

 

◯あやうい土台の中を生きている

 

なんで高校時代に勉強ができなかったのか今ならわかる。

なんで高校時代に勉強ができなかったのか今ならわかる。

 

今、こうして数学の学習を毎日やっていて、

「できない」プリントに直面した時に、

高校時代の自分を思い出す。(ものすごく思い出す)

 

僕は高校に入って勉強ができなくなった。

中学校の時は、それなりに勉強すればなんとなくできたことも、

高校に入ってからは、本当にできなくなった。

 

センター試験の勉強もしたけれど、

できない問題はたくさんあった。

問題集を解いても、できない、わからない問題があった。

 

でも、そのできなかった問題を、1問1問自分の力でできるようになるまで、

答え直しをすることもなかったし、友達に聞いたり、

先生に自分から質問することすらしていなかった。

 

そういう高校時代の自分の姿と、その時の気持ちが

すごくリアルに蘇ってくる。

そして、「そりゃできるようにならんよな」と今は納得できる。

(それは、もともとの能力とか才能とか全く関係なく。)

 

今こうして毎日数学のプリントをやっていると、

高校時代と同じように「できない」問題に直面する。

でも、今の学習は、高校時代のように、できなくてそのままにしておいたら、

いつまでも今のまま変わらない。

次に進むこともできないし、戻ることもない。

ただ、今のままである。

そうすると、自然とできたい気持ちが生まれて、

できなくても、なんとか前に進もうとする。

 

できないなりになんとかやろうとする。

(やろうとしなくも、やろうとしない自分と向き合おうとする)

 

時間はかかるけれど、地道に必ず進んでいく。

 

高校時代は、どうだっただろうか?

どれだけできない問題をそのままにしていても、

センター試験をいつしかむかえ、

いつしかできないなりの結果が届く。

そして、大学に僕は進学した。

 

「できない」体験は、試験の終わりととも僕の中から消えた。

 

「数学ができない」という高校時代の体験は、

「進学」のための手段の中にある体験の1つにすぎなかった。

 

僕はあらためて、今、高校時代の学び直しをしているのだと思う。

 

できないことを、受け入れていくこと。

できない自分を、観察すること。

できないことを、できるように工夫していくこと。

できないことが、できるようになること。

 

その体験は、ただ「勉強ができるようになった」だけでは終わらない。

自分が本当に「できない」ことと、

真剣に向き合い、自分で1問でもできるようになっていくその体験は、

「数学」を超えてきっと大きな価値があるのだと、

今の僕は感じている。