そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

できない体験が自然農のはじまり。できない体験とはどういうことか。

種下ろしから2週間が経過した。
1回目の草抑えを行いに、田んぼに行ったのだけれど、
オケラが苗代に入ってしまったようで、
発芽はほとんどしていなく、
このままでは苗が育たない状態となってしまった。

5月の半ばとなり、
今から種を蒔きなおして
果たしてまだ間に合うのか!?とういう感じである。

ここ4年間は毎年のように、苗が育ってきていたので、
今年も例年通り育っていくとおもっていたので、
すこし残念な気持ちもあった。

だけれど、オケラが苗代に入ったこと。
それによって種が発芽しなかったという体験を通して、
今までの自分が、どれだけ観察できていなかったか?
どれだけ狭い視野の中で判断し、
種を下ろしていたかという、
自分の見ている、感じている世界が狭かったことの自覚がうまれてくる。

それは同時に、自分の見ている、感じている世界が広がっていくことを意味する。

種下ろしをしたときの僕は、
田んぼの草の状態や、排水溝の位置、
日当たりくらいしか考慮せずに種を下ろした。

そして、表土を剥がしたときに、
オケラが何匹か遭遇したのだけれど、
そこまで気にせずに、そこで種を下ろした。

だけれど、今思えばもっとできたことがあったのだろうと思う。

オケラは乾燥を好むらしい。
僕は田んぼの中でも水周りから遠い、水はけの良いところを選択していたし、
種下ろしの際に土の湿り気などもあまり観察していなかった。

そして、オケラを数匹見かけたのだけれど、
とくに気にすることなく種をおろした。

また、今思うと田んぼが家からすこし距離があるため、
なかなか発芽状況を見に行くことは難しい。
今回も、もう1週間早く気付くことがちがったら、
また状況は違ってくる。

そう思うと、家から近い畑でも育苗しておけば、
今回のような状況になったとしても、苗は確保出来る。

そうやって、自分の力不足が田畑によって浮き彫りになってくる。

** ** ** **

オケラに入られて、発芽できなかったことへの残念な気持ちはあるけれど、「できない体験」によって、自分の状態が把握できて、
自分の見えていなかった部分、考慮できていなかった部分に気付くことができる。

そして、その見えていなかった自分に気付くことで、
自分をまた変化させることができる。

そうすることで、自分がだんだんと変化し、
応じられるようになってくるのだと思う。

だからこそ、自然農のはじまりも、
「できない体験」なのだと僕は思う。

もちろんお米も野菜も収穫こそ喜びであるのだけれど、
収穫を目標としても、
自然農の3原則「持ち込まず、耕さず、草も虫も敵とせず」の中では、いくら頑張ったとしても、根性があっても、努力しても、自分自身が適切に見極めて、判断して、応じることができなければ、収穫の目標は達成することはできない。
間違った判断の中で、努力したら、逆効果になることだってある。
(実際に草おさえを真夏に気合を入れてやっても、草がなくなり野菜が食べられてしまうことだってある)

だから、収穫を目標とせず、
今の田畑の状態に意識をむけ、田畑の様子を感じ、観察し、
その上で自分で判断し、自分で答えをだす。
その今の積み重ねが収穫へつながっていく。

だからこそ、今の自分出したその答えが、
どの視野で出されているかが重要である。

今年の僕とくらべれば、来年の僕とは、
きっと種下ろしにおいての感じ方や判断の領域はすこしだけ広がっているだろう。
もちろん、だから来年はうまくいく保証はないのだけれど
そうやって1日1日、1年1年のできない体験から、
自分がどんどん広がっていけば、
田畑の様子もまた変わってくるのだろう。

オケラが入ったことで、
4年間、なんとなく苗が育っていたことが、
どういったことだったのだろうか?ということも考えさせられる。

このできない体験によって、
ようやくスタート地点に立ったではないだろうかと思う。

そうやって、田畑を通して自分自身の今が見えてくる。
そして自分の変化も、田畑を通してみえてくる。

その楽しさや喜びが、僕が自然農で田畑をやり続けていきたいと思える理由なのかもしれない。

*** ** *** **

今回のオケラの体験は、「自然農ぼんやりと覚え書き」に書きました。

yuitaro-field.hatenablog.com

 

f:id:taroshio:20200513084832j:plain