「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、
「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないか
子どもが学校から出された課題を取り組む姿をみて、
教材自体の重要性と、教材の扱い方について考えることが多い。
スクールに通う子どもは、
学校の進度についていけていない子どもも多いし、
自分の学年相当における内容以前のことが身についていない子もいる。
そんな子どもが、学校から出された課題や、教材に取り組んでいるのだけれど、
当たり前だけれど、できない問題のほうがおおい。(これは学校だけの課題に限らない話である)
そして、取り組むこと自体が嫌になってくる。
これは当たり前だとおもう。
その課題は、「自分の状況に応じて」出された課題ではないことが多い。
子どもにとってみれば、自分の状況を考慮した上で出されていることの実感はあまり湧いてこないだろう。
もしこれが、その子の学習状況を少しでも考慮してある課題であり、
課題と自分の現状に繋がりを感じられたとしたら、
子どもの学習に向かう姿勢は全く違ってくるだろう。
だから、学校の学習を学校以外のところでサポートすることの難しさがある。
「課題」の扱われ方が子どもの学習への向かい方に大きく作用してしまうが故に、
サポートする以前の問題も大きいようにも思う。
(その環境の中でもできることはもちろんあるのかもしれないけれど。)
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そうやって考えると、子どもの学習の姿勢は、
子どもが学習に取り掛かる前提で大きく変わってくると思う。
学校の宿題をやらない子どもを目の前にした時、
そのやらない原因を「子ども」だけに向けてはいけず、
課題を出した人の意図や、その課題の構成もその子の今の学習の姿勢に大きく影響している。
だから、宿題をやらない子どもも、もしも宿題の出され方が少し変わったりしたら、
一気に宿題をやることだってあり得ると思う。
だから、子どもの今の学習に向かう姿勢は、
子ども自身だけの問題ではないことだって多いのだ。
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課題の出され方や扱い方で、
子どもの学習の姿勢が変化してしまうと、
「子ども自身」の学習状況を掴みずらい。
あの人に出された課題はやる、
あの問題集の課題はやる、
あの課題はやらない、あれはやる、やらない、、、
そういった状況のなかで、
子どもの学習の状況や子どもの変化はどういやってつかめるだろうか。
そして、子ども自身も、自分の変化をどうやってつかめるだろうか。
そう思うと、「教材」と「教材の扱い方」の重要性を感じる。
「教材」と「教材の扱い方」の中にルールや基準(制限ともいえる)が存在すれば
子どもの学習に向かう姿勢が掴みやすくなる。
そして子ども自身も、自分の変化をより感じることができるように思う。
らくだメソッドの学習経験者の感想を読んでいると、
学習者である子ども自身の教材に対する信頼のようなものを感じる。
僕は自分のこれまでの学習体験を振り返ったなかで、
「この教材に出会えてよかった」と思えた体験はない。
もちろん大学受験とかで言えば、
試験のため、点数を取るための「出会えてよかった教材」というものは
存在するのかもしれないけれど、自分がこの教材を通して成長できたって思える教材って、
僕の体験からするとあまりないな。と感じてしまう。
でも、子どもの学習に関わるなかで、
「先生に出会えてよかった」と思えることと同じくらい、
「この教材に出会えてよかった」って思えることもあるんじゃないかと思う。
「この教材に出会えてよかった」って言葉には、
教材を作った人の思いと、教材を扱いながら、
子どもをサポートする人の思いの両方がのっているのだから。