そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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説明しなければ教えられないのだろうか。

らくだメソッドの学習は、三平方の定理にはいった。
中学相当の教材はあと数枚となってきた。

このらくだメソッドの教材は幼児相当(数字を学ぶ)から体験しているけれど、
「説明する」ということがほぼなく、
プリントには問題しか書かれていない。
にもかかわらず、ここまで足し算も、掛け算も、割り算も、因数分解も、
二次方程式も、平方根もできてしまう。

説明をしなくても、できるようになる。
つまり、説明をしなくても教えられる。教材なのである。

そもそも、「わからなくてもできる」ものであるし、
「できること」と「わかること」は別であり、
「わかるから」「できる」わけではないし、
「できるから」「わかる」というわけではない。ということが、
この学習を進めていく中でかなり腑に落ちてきた。

だけれど、僕自身の数学を学んできた体験を振り返っても、
何か数学の概念の説明を受けて、頭で理解して、
問題を解いて、できるようになったプロセスをたどってきたように思う。

だから、「わからなければできない」というものだと思い込んでいた部分がある。
わからない=できない のだと。

このらくだメソッドで算数・数学を学ぶプロセスは、
「わからなくてもできる」というプロセスで、
僕が算数・数学をこれまで学んできた体験とは真逆のプロセスを歩んでいる。

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らくだ教材で、
「わからなくてもできる」というプロセスで
算数・数学を学習する体験をここまで歩んできて、

「説明する」ということに関しての捉え方も
僕自身の中で変化してきたように思う。

いま子どもと関わっていて、
「説明して教える」とか「解説して教える」とかいうのが
ものすごく厄介なものなのだと感じてしまうときがある。

それは、説明とか解説をするということは、
自然と「立場」をうみだしてしまうからだ。

説明・解説する人=わかっている人
説明を受ける人=わかっていない人 という風に。

 

説明を受ける子どもは、説明して教える人の存在によって、
自動的に「わかっていない人」という立場を取らざる負えなくなる。

そして、「わからなければできない」というものだと思い込んでいる子どもにとっては、「説明をされる」ということは、とても苦痛を感じさせていることもあるように感じる。

説明を受けて、わからなければわからないほど、
「自分はできない」という実感が強まってしまう。

もちろん、子どもがここが分からないから、「説明してください、解説してください」と求めていれば、問題はないことなのだと思うけれど、それを求めていない子に対して「説明をする、分からせる」ということは、順序が違うのだと感じるようになってきた。

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らくだメソッドは、この順番をものすごく繊細に守っているのだと思う。
不必要な言葉=説明を省き、言葉なしで伝えていく。

僕はずっと算数や数学は、言葉(説明や解説)を頼りに学んできたから、わかって理解して、できるようになるものだとばかり思っていた。けれど、この教材をやっていると、算数とか数学って、ここまで言葉がなくても(説明がなくても)、できるようになって、理解できるものだったんだなと感じる。

指導者として、言葉に頼らず子どもと地道に向き合いながら試行錯誤したプロセスが、
このらくだのプリントには込められていると感じざるおえない。

言葉(説明すること)に頼らず、目の前の人にとって何ができるのか?目の前の人の学ぶ権利を守るためにどのような関わりが自分にはできるのか?ということを日々問い続けたいと思う。