1/10に、昨年の6/3ぶりに中村教室へ足を運んだ。
久しぶりに実際に教室に行って、
今までとはまた教室の見え方が違ってみえた。
それは、自分自身の半年間での変化も意味しているようにも感じた。
・「教えない」指導者は、「問い」に対して何を返せるのだろうか?
らくだメソッドの学習は、学習者それぞれが自分自身の課題やテーマを自覚し、学んでいく。
指導者が、学習者の答えを持っているのではなく、学習者自身が答えを持っている。
だから指導者は、明確な「答え」を学習者に教えることはできない。
そんな学習の中で、教室には指導者と学習者の間に「なんでも質問してもよい」という共通認識がある。
「教えない」けれど、「なんでも質問していい」という状況の中で、
教えない指導者は、「問い」に対して何を返せるだろうか?
久しぶりに中村教室に行ったあとの自分を振り返ってみるとそんな「問い」が生まれてきた。
教室にいた時の自分は、井上さんの問いに対する向き合い方や、教室に生まれる「問い」がどんなところに広がり、深まっていくのか?ということを観察していたように思う。
教室に生まれてくるひとつひとつの「問い」には、学習者自身の状態が必ず反映されている。
「どんなにくだらなくても、些細な質問でも、なんでも質問してOKです。」とよく井上さんはおっしゃるけれど、
その問いの中には、その人の状態が必ず反映されている。だから全く同じ「問い」に聞こえても、
問いが生まれる学習者の状況は必ず違う。だから「同じ問い」というものはないのだと思うし、
どんなにくだらない質問でも、必ずその学習者の状況がその「問い」には含まれている。
1つの問いに対して指導者は、1つ1つ臨機応変に、
その学習者の状態を観察し、感じ、問いに対して応答していく。
問いに対して決しての答えを、押し付けず、命令せず、強制しない。
学習者が指導者に、自分の問いを発することで、
自分自身の問いがさらに深まっていく。広がっていく。
そんな応答を、学習者に対して臨機応変にできる力が、
教えない指導者には必要になってくるのかもしれない。と感じた。
教室では、たくさんの問いが生まれてくる。
その1つ1つの問いに対して、教えない指導者は1つ1つ学習者に沿って応答をし続けていく。
その姿勢をみながら、教えない教育を実践する指導者が、
教室の中で一番実践し続け、学んでいるのだと感じた。
よく「学び続ける教師」とかいう言葉も聞くけれど、
その言葉がはじめてリアルに実感できた。