◯どこから「問い」がうまれるか
子どもの学習に関わる機会ができて、
あらためてこの「らくだメソッド」という教材を見直す機会ができている。
そのため、毎月の振り返りの内容も、
らくだメソッドという教材自体を見直す内容が多くなってきている。
最近は子どもたちとも打ち解けてきて、
少しずつ子どもに問いかける機会ができてきている。
その中で、「問い」がどこから生まれるか?ということが
子どもたちとの対話につなげるために重要だなとあらためて感じる。
らくだメソッドの場合、指導者から子どもへの「問い」はどこからうまれるだろう?と考えると、
やはり「記録表」から生まれてくるイメージができる。
記録表をみて、
「最近どう?」
「今日はどこやるの?」→「本当にそこでいいの?」→「進んでもいいんだよ!?」とか
「今日は何枚やるの?」→「もう1枚やってみれば?」とか
「今日は何枚持って帰るの?」→「そんなに無理して大丈夫?」とか
「記録表」という1つのツールから、(僕の想像でも)「問い」がここまで生まれてくる。
情報が子どもと指導者の間で、きちんと共有できているからこそ、「問い」が生まれてくる。
この「問い」は、記録表というツールのシンプルさ(なんの情報を残すか)と、
学習をしたら記入するという「ルール」があるからこそ生まれた「問い」である。
この「情報の共有」と、「情報を積み重ねる・残す」というルールがない場合、どうだろうか。
最近はどこをやっているの?とか、
どこがわからないの?とか、
まずは、情報確認のための「問い」からスタートせざるおえない。
対話というよりも、情報交換になる。しかもその情報というのも、お互い曖昧な情報交換の可能性が高い。
だからこそ、「問い」の「元」を子どもと指導者の間でつくる必要性がある。
記録表はまさにその「問い」の「元」なのだと感じる。
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多くのこどもは「できない」ということを避けたがる。
こどもだけでなく大人だってそうだ。
でも、どこができていないか分からなければ、
子どもだって指導者だって「できる」方向へは進んでいけない。
だから指導者は、こどもの「できない」を聞こうと問いかける。
でも、「できない」ということを受け入れられない場合、
「できない」という情報を聞かれることこそ、苦痛なのだと思う。
そういう苦痛から、嘘をついたり(できてないのにできるといったり)、
学習自体を放棄する(勉強の意味がわからないとか、なんのために勉強するのかわからないとか)ことだってありえる。
でも、記録表があれば、「できない」は自分で伝えなくても、聞き出されなくても記録表が伝えてくれる。
これだけでも、大きな違いなのだと思う。
(できない事実 が嫌というよりも、できない事実 を共有することにハードルがある場合があると思う)
子どもにとっても、指導者にとっても、
どんな情報を、どのようなやり方で残していくか、共有していくのか?というのは
とても大事な視点なのだと感じています。
らくだメソッドではないけれど、今ある環境の中でじゃぁどうやってその視点を生かせるのか?改善できるのか?ということは今後の課題になっていくように思います。