そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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7月ふりかえり その②

7月後半はプリントに手つかずの日が多く、
プリントの郵送も遅れがちで、
あらゆることが遅れ遅れになっている毎日である。

◯枠組みがあるから、今の自分に合った学習を進められる。
プリントが因数分解の応用に入った。今までに比べて難しく感じる問題が多く、実際に解いていて間違えるのではなく、わからない問題も出てきた。
そういった状況の中で、今、プリントにどのような取り組み方を自分はしたいのか?したほうがいいのか?という問いが生まれてきた。

実際に、答え合わせの時にわからなかった問題に再度取り組む余裕がなかったので、翌日は、新しいプリントではなく、わからなかった問題のみを答えを見ながら理解する日をつくった。

そうやって、今の自分はどうやって学習を進めていくのかを自分で判断して自分で進めていける。

難しい→やらない という理由はとても安易な理由であって、難しいという問題に対して、自分がどう折り合いをつけていくのか。今の自分はどのような取り組み方を自分はしたいのか?したほうがいいのか?という向き合い方が習慣づいていたら、プリントがどんなに変化しても(一気に難しくなっても)、それをやらない理由にはしないのだと思った。


◯いつでもプリントを忘れない
今回7/27-31までの5日間、プリントをやらなかったのだけれど、この5日間でプリントを忘れた日はなかった。これはある意味すごいことだと感じている。

なぜ忘れないのか?と思うと、それはできていないという自覚があるからで。。。
このプリントが自分自身にここまで「できないという自覚」を与え続けている存在であることがなによりすごいことだと感じずにはいられない。

できない自覚がなくなってしまうことは、
このプリントを忘れてしまうことかもしれない。

プリントを忘れてしまうことは、
プリントをやらなくなることと言えるかもしれない。

やらなくなってしまったら、
学習がそこで中断することにつながる。

だから、忘れられないくらい、しつこいくらいにどこまでも「できない」という自覚を与え続けることが、学習においてなにより大切なことなのではないかと思ったりする。

そして、そのできないという自覚が、誰かから決して与えられるものでもなく、自分が抱かざる負えない状況こそ大切なのだと思う。
(だからできない自覚がうまれても、責められているわけでもないし、誰かとの比較に苦しむこともない。できない自覚は「自己」との対話のきっかけにすぎない。)

このプリントがなぜ、ここまで忘れられない存在になっているのか?なぜこのプリントが、ここまでできないという自覚を抱かざる負えない状況を生み出すことを可能にしているのか?ということを探っていくことは、とても意味あることのように感じる。

この、「いつでもプリントを忘れない」ということからも言えると思うけれど、
何を学ぶか?ではなく、どのようにして学ぶか?ということを、
このプリント学習を通して学んでいるのだと言える。

忘れられないくらい、しつこいくらいにという表現が、
他者ではなく、自己からくるこの体験は、このプリントを通して初めて体験しているかもしれない。
それは、言い換えれば、初めてセルフラーニング(自学自習)を体験しているとも言えるのかもしれない。