そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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英語を話せるようになることってどういうことなんだろうか?

交換留学生が蒲原に来ています。毎年この時期に姉妹都市の町から
中学生〜大学生が数人蒲原に訪れます。
我が家は昔からホストファミリーの受け入れをしているので、
この時期には必ず英語を使う体験が訪れます。

今日はウェルカムパーティーで、
日本の中学生たちが学んだ英語を話している姿をみて、
英語を話せるということはどういうことなのだろうか?という
問いが僕のなかに浮かんだ。

そのテーマに関して書き始めたなかで、
僕にとっての「英語を話せること」は“他者に向けられた言葉でしかない”と感じた。(英語を話せることと読めることはまた違う)

英語を話せるということは、“何かを伝えるため”の手段のようなものだ。
一方で、日本語を話せるということはどういうことなのか?と考えた時に、
日本語の場合、「自分自身に向けられた言葉」として用いられることがある。
つまり、自己対話において日本語を使う。英語で自己対話をすることはないから、僕にとって英語を話すということは、他者のみに向けられた言葉なのだ。

これからますます英語を話せることが大きな力を持つかもしれない。
だからますます英語を話せるようになることが目的になりかねない。

だけれど、「伝える」ということの前に、
まずは自分が「伝えたい」という言葉を深めていくことの方が大きな価値があるように思う。(もしかしたら「伝える」ということは、誰かがやってくれるかもしれないし)

その「伝えたい」という想いは、自己対話のなかで深まっていくものなのだと思う。
そして自己対話は、もちろん英語ではなく日本語でするだろう。
そう思うと、自分の「伝えたい」を深めるための学びをしていくことはものすごく大きな意味を持つことなのだと感じた。
そのひとつとして、考現学は1つの学び方なのだと思う。

伝えるための能力は、
「伝えたい」という想いがなければその能力は生かされない。

そして、本当に「伝えたい」という想いを深めることができれば、
「伝えるため」の英語を自然と学んでいくのではないか。とも思った。

「伝えること」は自分以外の人でもできるかもしれない。
けれど、自分の「伝えたい」という想いは自分しか生み出すことができないんだ。


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パーティーに参加していると、
英語が話せなくても、めちゃくちゃ楽しそうに関係性を築いている方たちを多くみます。
そういう人たちをみると、
人と人の関係性、つながり合いっていうのは

言葉を分かり合うことではないというような気もします。

昨日の考現学で書いたように、
伝わらない状況のなかでお互いが歩み寄ること、
お互いが分かろうと相手に耳を傾けること、相手の目を見ること、
そういうことが一番大切なんじゃないかということを
学ばせてもらった気がしています。


*昨日の考現学

こちらのページは今月オープンしました。これから毎日一言でも書くことをしていきます。今はスタートアップ時期なので、徐々にオープンにして毎日書くということのなかで学びを深めていけたと思っています。