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【おむすびinterview】 千葉大学教授 木下勇さん

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第1回目は、千葉大学教授の木下勇(きのしたいさみ)先生にインタビューをさせていただいた。木下先生とは、今年の4月に初めてお会いした。静岡市清水区蒲原は、私が育った町である。木下先生は2017年5月末、その蒲原にある築160年の古民家(木下邸)を購入された。今日はその木下邸にて、インタビューをさせていただいた。


三世代遊び場マップ

 木下先生は、主に、都市計画や子どもの遊び場、子ども参画のまちづくりなどに関する研究・活動をされている。その中で、先生が中心となった活動の1つに「三世代遊び場マップ・図鑑づくり」の取り組みがある。木下先生が大学院生時代に力を注いだ活動の1つである。この取り組みは、東京世田谷の三軒茶屋太子堂地区で三世代の「遊び場」の変化をマップにまとめ・「遊び」の変化を図鑑としてまとめるという取り組みであった。この活動は、世田谷に住み、子育てをするお母さんたちが、*プレーパークを作りたいという想いがきっかけとなりはじまった。ただ、世田谷太子堂地区という都市部であり密集市街地に、子どもが火を使うのは危ないとか、うるさいなど、プレーパークを作るという計画に関して、町内会からは反対されたという。その衝突が、この「三世代遊び場マップ」の制作のはじまりだそうだ。

 町内会の中心メンバーは主にお年寄り。反対するおじいちゃん、おばあちゃんもかつては子どもであり、世田谷太子堂地区で遊び、育ってきた。だからこそ、まず「子どもの遊び」をテーマに、地域の遊びの変化を三世代にわたって調査し、マップと図鑑という形にまとめあげた。木下先生は「そうやって、一人では生まれないことが、みんなでやって、ぶつかりながらも、そこで初めて発想が生まれる。そして集団で創造していく」と言う。お年寄りに子ども時代の話を聞くと、とっても喜ばれたという。何かを創造するということは、そういう異質なものがつながり、集まることで生まれていくのかもしれない。


木下先生の原風景

 先生はなぜ「遊び」や「子ども」という領域に入っていったのだろうか?そんな問いが浮かんだ。
 
 木下先生の故郷は静岡県南伊豆町だそうだ。伊豆の大自然に囲まれて育ったのだろう。その故郷である南伊豆は、先生が子ども時代に急激に観光地と化していった。海が汚れ、蛤が取れなくなったり、松林が伐採されたり、環境が急激に変化していったそうだ。そして、その環境の変化は、子どもならではの好奇心にも影響を与えていたという。そんな体験から、「環境の変化と子どもの成長」という問題意識が木下先生の中にあったそうだ。

 大学4年時に所属していた研究室の調査で充てがわれたものが「遊び場」であった。それがきっかけで、「遊び場」や「子ども」という領域に入っていく。そして、「遊び場」や「子ども」という領域が、故郷の南伊豆の体験から得た「環境の変化と子どもの成長」という自身の問題意識につながっていった。木下先生の研究や活動は、この原体験が大きく関わっているという。きっと、この問題意識も、故郷の大自然や、地域の人々とのつながりへの想いから生まれているのだろうと感じた。


町が僕らの学校だ

 先生のお話を伺っていると、先生からは「市民の力を信じている」というのか、「市民の力を知っている」という実感からお話されている印象を受けた。先生はこれまで、遊び場や保育所を地域の人たちと作ったり、さまざまな取り組みを積み重ねてきたという。子どもの遊び場や地域への参画の先進国と言われているヨーロッパのスイスでは、遊び場の運営会議に子どもが参加していたり、子どもたちのデモを目の当たりにしたこともあったそうだ。そうやって、住民が参画し、街をつくっていくリアルな現場での体験が、先生から受ける「市民の力を知っている」という印象を生み出しているように感じた。

 そんな先生のお話から印象に残った言葉は、「街が僕らの学校だ」という言葉である。住民や子どもが地域の活動に参画していくと、街は大人にとっても、子どもにとっても「学び場」に変わっていくのだろう。「学び」という言葉に紐づく印象は「学校」なのかもしれない。でも「学び」というものは、限られた場所でするものでもなく、どこかに任せるものでもなく、私たちの日常にあり、私たちのくらしの中に存在する営みなのだろう。

 先生は、「住民の参画や子どもの参画も、手段である。大切なことは、人間の幸せとは何だろうか? 人と人とが生きてく社会はどうあったらいいのだろうか? そういったことを探求していく姿勢」という。社会の変化は益々はやくなっている。社会の変化によって、私たちの身のまわりの環境も変化してく。その中で、人と人とが生きてく社会はどうあるべきなのか? そんな問いを持ち続け、探求していく姿勢こそ、私たちがこれから生きていく上で、より大切なことなのかもしれない。

 最後に、地域の子どもたちの「遊び場」「子どもの参画」=「学び場」をこれまで数多くみてきた先生に、これからの時代、子どもたちにとって何が大切になってくるのだろうか?ということに関してお話を伺ってみた。

自分を語れること 

 自分をつくっていく、自己形成していくステージにある子どもたちにとって大切なことは、「自分がどういうところで生きて、どんなことを大切にして、どんなことに関心を持っているのか。そういうことを語れること。そういう人柄や開かれた感性」だと先生はいう。そういった部分は、狭い枠の中で、育もうと思ってできることではなく、広い世界の中で、自然と子どもが体験し、身につけていくものだろう。子どもたちの地域への参画は、そういった機会を生んでいくように思う。子どもたちが自然と学んでいく。自然と自信がついていく。子どもたちがそれぞれのペースで、それぞれのタイミングで学んでいく。子どもは、家庭を超えて、学校を超えて、私たちの街、地域という大きなフィールドの中で学べることがこれからの時代より大切になるのかもしれない。

(2018/12/24 木下邸にてインタビュー)

*プレーパーク
「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーにした遊び場であり、子どもたちの好奇心を大切にして、自由にやりたいことができる遊び場


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旧岩邊住居(木下邸)のご紹介

母屋は安政5年( 1858)に建造された築160年の建物。

幕末の勤王の志士で明治期に宮内大臣を12年つとめ、昭和の財政界に力を発揮した田中光顕と蒲原で最も親交の深かった家族の屋敷である。

田中光顕が蒲原の別荘を終の住処として過ごした時期に、頼りにした地元の有力者がこの屋敷の当主の岩辺平吉、弥之助親子である。とりわけ息子の弥之助は田中光顕にかわいがられ、その影響を受けて庭園がつくられた。また、離れの家屋は、東山台地にあった東京電力の全身の東京電燈の創始者の一人である矢嶋作郎の別荘の日本家屋部分を移築したものである。この別荘の移築も田中光顕との親交からと推察される。

つまり明治の近代化の時期の二人の歴史的人物の影響が残る屋敷として独特の魅力を有す。実際、この庭と離れ、蔵、母屋の屋敷が魅力となって、昭和37年(1962)当時、外国人旅行者の東京から京都へのバスツアー(日本交通公社指定庭園)の立ち寄り所として使われたことは地域の歴史・記憶としても特別な価値を有すものであろう。

(旧岩邊住居の概要 より一部引用)

 


現在、木下邸では、毎月最終土日に「茶房~Coming co~ 家民呼」という場づくりを行っています。以下、「茶房~Coming co~ 家民呼」の情報です。

茶房~Coming co~ 家民呼

築160年趣ある古民家で、人々が集う素敵な空間を…
家に民を呼ぶ、古民家。カミンコ。様々な人を呼び、集えば、そこではきっと新たな学び、刺激が得られるはず。大人も、子供も。

[基本情報]
毎月最終土日のみオープン。11月は富士の山ビエンナーレが開催されるため、毎週土日。学生と地元の方が協力して、交代で運営しています。

[公共交通機関]
JR新蒲原駅から徒歩15分(伸長161㎝大人が歩いてそのくらい)

[公式ページ]
https://www.facebook.com/comingco/

 

 

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