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できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動く 〜Facebookでのコメントのやりとりより〜


taroshio.hatenablog.com
この投稿に対して、中村教室井上さんと、塾生の西尾さんがコメントをくれた。
Facebookでは、投稿が流れてしまい、振り返ることが難しいので、そのやりとりを残しておこうと思う。
以下、Facebookコメント欄でのやりとり。

井上 淳之典 太郎ちゃんイイ感じですね。頑張って目標を立てて朝プリントをやろうとするのでなく、朝プリントがスッとやれる心持ちの自分になることが大事なんですね。もちろん、こうやって言葉で説明しても、自分で体験しない限り絶対にできないことなんですが。

「あるがままを観る」「できない体験が大事」という言葉は、いままで何度も繰り返し言ってきたんですが、ようやくそれがどういうことなのか、なぜそうなのか、わたし自身も心底腑に落ち、釈迦のサトリとも繋げて語れるようになってきました。


塩坂 太郎 ありがとうございます。こういう体験をもっと大切にしていけたらと思います。1枚のプリントを通して起きたちょっとした出来事ではあるんですが、これってプリントに限らず多くのことにあてはまりますよね。
なので、やっぱり1日1枚のプリントを通しての体験を振り返りながら大事にしていきたいなと思います(^ ^)

井上 淳之典今日・・もう日付が変わって昨日になっちゃいましたが、釈迦のサトリについての記事を3つ投稿し、関連する小出遥子さんの記事をシェアしました。
過去も未来もいまここから | 小出遥子オフィシャルサイト


らくだメソッドでの学習は、五蘊観の4番目、サンカーラを省察し鍛錬することにつながっているんじゃないかと。廣安くんに教室でこの話をした日に彼が書いていたこの記事も参考になるかもしれません。
http://hiro22yasu13.hatenablog.com/entry/2018/11/14/222914


西尾 亮 できています。
というより、
できてみちゃってます。
って感じなんでしょうかね。
またシェアしたい!


塩坂 太郎 そうですね!こういう体験の「できる」っていうのは、あんまり自分の力っていうか、自意識みたいのがないんですよね。たぶん「できる」という自意識が高くて、「できない」自意識が低いことってよくあることだと思うんですが、その逆って感じですかね!

井上 淳之典 西尾 亮 (Ryo Nishio)「できみちゃってます」って面白い表現ですね。

井上 淳之典 塩坂 太郎 (Taro Shiosaka)「できる」という自意識が高く「できない」自意識が低いの逆って表現もいいですね。ふつうにこの状態を表すのに適当な表現っていうのがないんじゃないかと。

井上 淳之典 釈迦はこのことに気づいて、五蘊観の4番目〝行(サンカーラ)〟という言葉で表したんです。でも、これは目には見えないし、自覚出来ないため(いわゆる心理学の言葉でいう「無意識」であり、二村ヒトシさんの「心の穴」なので)、弟子のほとんどが理解できず、これを「八正道」という言い方に置き換えてしまった。
冨永半次郎さんは「ヴェーダナ不中の由縁のとき、サンカーラあり」と言われているんですが、できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動くので、そのときこそ自分のサンカーラがどういうしくみになっているかを知るチャンスなわけです。

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井上 淳之典 吉本さんの『心的現象論』には仏教の話が殆ど出てきません。でも、日本が戦争に負け、当時21歳の皇国成年だった吉本さんの天地がひっくりかえってしまったとき、蔵書をすべて売り払って『国訳大蔵経』を全巻買い込み、2年ほどそればかり読みふけっていたとどこかに書かれていましたし、親鸞聖人にあれだけの大きなシンパシーを感じられるところとか、たぶん吉本さんの思想の底辺には、仏教思想というか原始仏教のエッセンスが流れているんじゃないかとおもうのです。

また、五蘊観と心的現象論の関連性に言及している情報は、ネットで検索してもひとつもヒットしません。でも、色受想のプロセスは人間以外も含めたすべての生き物に言えることで、行識のプロセスは人間のみですから、原生的疎外と純粋疎外という見方は、五蘊観とほぼ同じというか重なる考え方とみていいんじゃないかと。

ここに、動物(外部知覚)と植物(内部知覚)のハイブリッドとみる三木成夫さんの人間観を加えていくことで、心を三次元空間内に立体としてとらえることができる・・・これをカタカムナの世界で〝球感覚〟といっています。

ようするに、『心的現象論』は釈迦のサトリに匹敵するぐらいの内容だということで、発表された当時、あまりに難解なために多くの人が理解できなかったというのも頷けるのではないかと。

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塩坂 太郎 >できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動くので、そのときこそ自分のサンカーラがどういうしくみになっているかを知るチャンスなわけです。

なるほどです。プリント学習がなんで計算の領域におさまらずにセルフカウンセリング的な意味が生まれてくるのかというのが、この五蘊観の表と↑のコメントですごくつながりのようなものを感じました。
まだ、よくわかっていませんが、このコメントを読み返しながら体験し続けようとおもいます。

ちょうど、ふり返るということについて、思っていたんですが、この五蘊感の表をちょうどシェアしてもらって、振り返りって行為はものすごく人間的というか、人間とか(自己)の特性を理解するためには、必須の行為だなと感じました。
できないとき=サンカーラが動くときこそ、振り返りだなと!

塩坂 太郎 車でもなんでも、何も異常がなければただ進んでいくわけですが、そうやって異常がなく進んでいる状態は、何も車の仕組みを知ることはできません。
でも、車に異常が発生してうまく進まないとかしたとき(=できないとき)に車の内部とか、構造に目を向けるし、どこを修正しようとか、メンテナンスしようとかなります。それは、車への理解とか新たな気づきの機会になる。なんかそんな例えが浮かんできました。(車自身が車を理解することはないんで、例えは微妙ですが。笑)

でも、車はそうなんだけど、いざ自分が日常生活の中で、できない体験に直面したとき、なぜか人は目を背けたり、できない現実をごまかしたりしてしまうんですね。それって本当にもったいないことなんだと、改めて感じました。

井上 淳之典 健康な人は健康を意識しないですよね。でも、病気になると健康の有り難さを実感できるわけです。それもうまく行かないときにサンカーラに意識が行くからなんですが、そのサンカーラが執着する方向に機能してしまうと、「健康」という観念を生み出してそこに執着し、実体のない健康を目指すということになってしまうんですね。

そのことを釈迦は四苦八苦の8番目、五蘊盛苦(五蘊が盛んにはたらきすぎてありもしないものを生み出してしまう苦しみ)といいました。だから、サンカーラ自体が正しい方向軸をもって機能するようにすることが大事なんですが、そのためには鍛錬が必要で、らくだメソッドはそれをやっているって気づいたわけなんです。


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井上 淳之典 ポイントは、執着は原因ではなく結果だというところ。つまり、「執着を去ることによって悟りが訪れる」というのは大脳思考による勘違いなんです。正覚(悟り)も執着もいずれも結果なので、正覚が訪れるような、正覚を自ずと生み出してしまうようなサンカーラになること、サンカーラ自体を組み替える(正常化)ことが必要なんですが、放って置いてもそうはならないので日々の鍛錬を積み重ねて行くしかないんです。

未来デザインの土台となるISTを開発された大和信春さんは、内拠(ないきょ)という言葉をつくられてこのことを説明されているんですが、内拠という言葉をわざわざ新しくつくらなければいけなかったのは、それにあたる既存の言葉がなかったからで、この内拠がすなわち釈迦の五蘊観でいうところのサンカーラのことだとおもってもらっていいです。


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井上 淳之典 内拠については、大和信春さんの『心の自立』という本に詳しく書かれています。この本は一般の書店には置いてないので、寺子屋塾にて販売中。

 

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