そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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2018.5.16 充実感を疑う

先週末も実家の静岡に帰った。
畑を正式に借りることができるようになったため、
この3日間は朝からずっと畑に足を運び、
草刈りや、畝立てなど、作付けできる状態に徐々に畑を整備していく作業をした。

やはり朝から外に出て、体を目一杯使うと気持ちがいい。
疲れも溜まるけれど、それ以上に畑をゼロから始めることの楽しさが
自分の中では、充実感として感じられる。

ただここ最近、こうして実家に帰って畑の作業を進められている反面、
らくだの1日1枚のプリントができていない。

そのできない現実をまずきっちり見つめることが
今の僕にとっては一番重要なことなのだと思う。

なぜできないのか。
それはこの「充実感」なのだと思う。

畑の作業が進んで、新しいことにチャレンジする。
これは、本当に充実感を感じられるし、楽しいことだと思う。

ただ、ここで感じられる充実感と、
らくだの計算プリントは全く別のことなのだ。
何かがうまくいっていたり、気分がよければ、
1日1枚のプリントをやらなくていいとか、
やるかやらないかを、あやふやにしていいとか、そんなことは一切ない。

でも、自分の中でうまくいっていたり、
充実感を感じられると、そこに気をとられて、
そこの気分に浸りすぎて、
全く別のことにも影響を及ぼしてしまっていることが
ものすごくあるように思えてきた。

目の前にいつもある1日1枚のプリントは、
たとえ、彼女と喧嘩をして気分が悪くたって、
何か仕事でミスをして、落ち込んでいたって、
そのこととは、全く別のことなのだ。

でも、その別のことに、持ち込んでしまう。

その充実感だって、悲しい気持ちだって、
今、この目の前にあることとはきっと関係がない。

1日1枚のプリントがすっとできるためには、
そういう自分の状態に気づき、観察するしかない。そして、自分と折り合いをつけて、
目の前にある1枚のプリント=今ここに戻るしかない。

そのためには、プリントができない。やりたくない。そういう気持ちを
きっちり受け止めることなのだろう。

そのプリントができない。やりたくない。という気持ちは、
目の前にある1枚のプリント=今ここに、
何か自分が持ち込んだり、飲まれている証拠なのだと思う。

今ここに、畑はないし、今の自分は家にいる。
なのに充実感があるなんて変な話だ。