先週末も実家の静岡に帰った。
畑を正式に借りることができるようになったため、
この3日間は朝からずっと畑に足を運び、
草刈りや、畝立てなど、作付けできる状態に徐々に畑を整備していく作業をした。
やはり朝から外に出て、体を目一杯使うと気持ちがいい。
疲れも溜まるけれど、それ以上に畑をゼロから始めることの楽しさが
自分の中では、充実感として感じられる。
ただここ最近、こうして実家に帰って畑の作業を進められている反面、
らくだの1日1枚のプリントができていない。
そのできない現実をまずきっちり見つめることが
今の僕にとっては一番重要なことなのだと思う。
なぜできないのか。
それはこの「充実感」なのだと思う。
畑の作業が進んで、新しいことにチャレンジする。
これは、本当に充実感を感じられるし、楽しいことだと思う。
ただ、ここで感じられる充実感と、
らくだの計算プリントは全く別のことなのだ。
何かがうまくいっていたり、気分がよければ、
1日1枚のプリントをやらなくていいとか、
やるかやらないかを、あやふやにしていいとか、そんなことは一切ない。
でも、自分の中でうまくいっていたり、
充実感を感じられると、そこに気をとられて、
そこの気分に浸りすぎて、
全く別のことにも影響を及ぼしてしまっていることが
ものすごくあるように思えてきた。
目の前にいつもある1日1枚のプリントは、
たとえ、彼女と喧嘩をして気分が悪くたって、
何か仕事でミスをして、落ち込んでいたって、
そのこととは、全く別のことなのだ。
でも、その別のことに、持ち込んでしまう。
その充実感だって、悲しい気持ちだって、
今、この目の前にあることとはきっと関係がない。
1日1枚のプリントがすっとできるためには、
そういう自分の状態に気づき、観察するしかない。そして、自分と折り合いをつけて、
目の前にある1枚のプリント=今ここに戻るしかない。
そのためには、プリントができない。やりたくない。そういう気持ちを
きっちり受け止めることなのだろう。
そのプリントができない。やりたくない。という気持ちは、
目の前にある1枚のプリント=今ここに、
何か自分が持ち込んだり、飲まれている証拠なのだと思う。
今ここに、畑はないし、今の自分は家にいる。
なのに充実感があるなんて変な話だ。